東京実践塾 感想文 2026年4月~ 2026年6月
- 7月27日
- 読了時間: 24分
■Y.I 会社員 東京
宇城先生、東京実践塾へ参加させていただき誠にありがとうございます。今回も非常に素晴らしい稽古を体験させていただくとともに、自分自身を大いに反省する三カ月間となりました。個人的にショックを受ける出来事にも直面いたしましたが、先生のお陰で立ち直ることができ、その過程で、ほんの少しではありますが人間性の深みが出てきたように感じております。
さて、今回は実践塾の稽古の中で、特に強く印象に残っているものを各月ごとに取り上げ、感想をまとめました。
四月の稽古では先生から、「五次元を作り出すのは無理だとしても、三次元にいる私たち塾生は、自ら二次元へ行くことなく、3.1次元、3.2次元へ向かうように」とご指導をいただきました。
その際、二次元から五次元についての解説をいただきました。私たちが見ているものは、プロジェクターで自分に光を当てた際、壁へ投影されている「自分の影」であるということです。壁への投影は二次元の世界を表しており、この壁という平面の中でしか影は動けません。二次元の動きには大きな制限がかかることを認識いたしました。
三次元に存在している私たちが衝突を起こすことで、その当事者同士は二次元へ移行する。二次元での衝突は、さらに一次元へと陥る。二次元から一次元を見る、あるいは三次元から二次元を見ると、どちらも静止して見える。そして、世界の支配者層はこれらを下位の次元として捉えている、という構造を教えていただきました。この構造をスポーツや現代の空手に置き換えると、まさに衝突を起こして二次元へ、さらにド突き合いをする空手は人間を一次元の存在に落としめているのだと、先生の分析に深く納得いたしました。
先生が気のエネルギーによって、私たち塾生に三次元から五次元の空間を創出してくださいました。その五次元の中で別の塾生と分解組手を行うと、一切の力を使わない状態で技が相手にかかり、さらに状況によっては相手に触れず、ただしっかりと見るだけで技がかかるようになっていました。
続いて、五次元を体験したことの検証を行いました。一人が床に仰向けに大の字で寝て、上から五、六人が思い切り抑えつけて動けない状況を作り出します。通常なら何もできず降参してしまう状況ですが、先生からは「抑えつけられていない部分が五次元にいたことで明確に分かる」と教えていただきました。
実際に私も床に寝て五人に抑えつけられましたが、身体に他者の力がかかっていない部分がはっきりと感知できました。そこを糸口にして動かそうとすると動けることが分かり、無理に力を入れず、かつ抜くこともしない状態を維持しながら動かす範囲を広げていきました。すると、抑えつけている塾生たちの抑えが効かなくなり、そのまま相手を投げたり崩したりして、最終的に私は立ち上がることができたのです。
この体験から、押さえつけていた塾生側は二次元にいることとなり、五次元を体験した塾生と接触すると、いくら人数が増えても二次元にいると動きに制限が課せられてしまうのだと理解できました。ゆえに宇城先生は、「自ら気づかぬうちに二次元の世界へ入ってしまうと、物理的な動きの制約があるだけでなく、人生そのものが動かなくなり、不幸へ向かっていることすら気づけない」ということをご指導くださったのだと思います。先生が何度も私たちに投げかけられる「なぜ、我々は進展しながら自滅に向かうのか?」という問いの答えが、ここに合致したことを確認できました。
私事ですが、三年かけて取り組んだ国際資格の受験(全三パート)のうち、二パートの合格実績が五月末に期限を迎え失効いたしました。この失効を恐れるあまり、残っていた最後のパートの資格取得を目指し、去年から今年のGW明けまでがむしゃらに勉強したものの、去年の9月から継続して受けた五回の受験はすべて不合格でした。これらを俯瞰すると、受験勉強自体が二次元的である上に、そこに輪をかけた私のがむしゃらな姿勢が、家計へ負荷をかけるだけでなく、妻に家事・育児・親の介護を任せっぱなしにする状況を作っていました。まさに自ら二次元に居続けていたのだと、非常に深く反省しております。
五月は、先生の指示で参加させていただいた綱引きについて書きます。ここでは先生から直接ご指導をいただく機会が多く、非常に感謝しております。
三対三の綱引きの際、私は三人組の一番後ろのポジションになりました。綱として扱った帯を持つ際、本来は帯の端を握らなければならなかったのですが、私はその位置よりも手前を握ってしまっていました。ここでも、不用意に前に出ようとする(焦りや欲の)思考が働いてしまったのだと気づかされました。
それから、十人対一人の綱引きにおいて、私は一人側で綱を引きました。その際、先生から気のエネルギーを入れていただいていたため、塾生十名との綱引きでも均衡を保つことができました。しかし、そこから十名を引き込む際、先生も私の側に入ってくださったにもかかわらず、私が意識的に「握る力」「腕を縮める力」「両脚で地面を押す力」などの部分的な力を用いてしまったため、引き込みが実現できませんでした。上述の五次元の世界を体験させていただいたにもかかわらず、自ら四次元未満(三次元・二次元)の力の世界へ戻ってしまったと猛省しております。
綱引きでの検証の詳細は、春季合宿でも行ったため割愛させていただきますが今回の検証からも、私の未熟さと、先生の五次元のご指導を受けながらもそれを日常へ落とし込めていない現実が明白となりました。
最後に、エネルギーを持つ新刊『循環無単』と、先生による素粒子を動かすエネルギーが融合することへの検証があり、本当に驚きました。
まず、動かないように長机の周囲を六名で押さえた状態を作りました。私もその一人です。先生が長机の上に新刊を置き、前方へ滑らせるように押し出されました。すると、押さえている六名は、本が滑り終えた後、しばらくすると踏ん張ることができなくなり、新刊が動いたベクトルと同じ方向へ動き出してしまったのです。私も机を動かされまいと手に目一杯の力を込め、腰を落としていました。しかしその状態の中で、腰から下半身にかけて自分の意思ではどうにもならない感覚があり、頭から下の身体全体がじわーっと引っ張られていく感じがしました。押さえていた六名全員が同時に動き始めたため、おそらく他の方々も私と同じような感覚になっていたのだと思います。
さらに、先生が長机の上で新刊を回転させると、押さえていた六名がその回転方向に抗うことができず、新刊を中心にして回り始めました。この回転の検証にも私は入っており、力一杯押さえていたのですが、どうにもなりませんでした。感覚としては、身体の一部に力がかかって動かされるのではなく、長机と六名が一つの塊になり、自らの意思とは関係なく「塊として動かされる」という不思議な感覚でした。
なぜこのような事象が起きるのかは分かりませんが、先生は今回「五次元」という言葉をあえて用いられなかったものの、物質(長机と新刊)側が五次元の状態を保持しているのだと感じました。人間側が力任せに抗おうとすることで衝突を起こし、自ら二次元へ落ちてしまう一方で、五次元の物質から影響を受けた際は、二次元の力では決して抗えなくなるのかもしれません。エネルギーが含まれている新刊であり、かつ宇城先生のアクションが加わっているのですから、二次元に入ってしまった人間が抗えなくなるのは当然のことなのだろうと思っています。
また、先生から一人稽古の指南もいただきました。「お腹を抱えた人」と、その人に対ししゃがみつつ「大丈夫ですか」と両手を差し伸べる人との双方で気のエネルギーが高まること、そして無関心で素通りした際にはエネルギーが消えてしまうことについては、以前からの検証で認識しておりました。しかし今回は、一人稽古の際、「エネルギーが高まった状態」と「消えた状態」の二パターンで型を行い、身体のどこにどういうギャップ(差)が起きているかを探していくことが、ゼロ化の糸口になるということを教えていただきました。
---後略
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■D.S会社員 千葉 宇城先生、榎本師範、本期間も貴重なご指導、誠に有難う御座いました。
先生がご指導の中でよく、「短期は奴隷社会の構造の中で動かなければならないとしても、中長期でそこを脱却していかねばならない」と仰います。この「奴隷」という状態について、最近日常の中で、以下のような事を感じています。
過去、本当に奴隷制度があった頃には、奴隷本人はその階級を良しとしていなかったであろうと思います。家畜同然に鞭で打たれ、人権などという物は夢のまた夢という状態であれば、それは当然のことだと思います。
翻って現代人は、会社制度や政策によって綺麗に装飾された実質的な奴隷制度のなかにあって、その事に気付かず進んで奴隷になろうとします。そればかりか「目標をくれ、生き甲斐をくれ、金をくれ」と、恥知らずにも支配者側に要求をします。支配からの解放を目指すのではなく、心地よい支配を望む、という状況であるように思います。
支配者側(経営層以下管理職級)もまたさらに上位層(顧客や国家)の奴隷であり、リーダーとして道筋を示す気概も能力も無く、結果奴隷と支配者が互いに罪をなすりつけあって退化の一途を辿っている。源流を遡れば、これは子供の頃の教育に端を発しており、戦後の骨抜き政策が、今ここに効いてしまっている。本当に、目も当てられない状況だと思います。
人々は短期にしか目がいかないため、中長期でどんな恐ろしい事態が起こるかに思い至らず、現状維持への誘惑に負けてしまいます。このような状態は、私自身にも往々にしてあり、恥ずかしながら勝率は一割にも満たないのが、正直な所であります。
そして、これを何とかしようともがく時、今度は危機感では無く怯えが先に立ち、その裏返しである虚勢や粋がりがでて、周囲との対立を生みます。こうした状況に歯止めをかけてくれるのが、文化であり、師という太陽なのであると、この所以前に増してそのように思うようになりました。
本期間のご指導で、「怒りが原動力になる」というお話がありました。今の世の中、そして何より自分に負け続ける自分自身への怒り。これが自然に湧くか否かというのは、自身が正常かどうかを測る大切なバロメーターなのだと、今回のご教示で感じました。
また、「できない自分とできる自分が並行世界に同時に存在する」というお話と、「頑張る」「幸せになる」と言っている時点でそうならない、というお話がリンクしたのも、本期間のご指導の中での事でした。
「できない自分の世界」の中で「頑張る」と言っても、それは所詮掛け声や標語であって、できるようにはならない。「できる自分」に非連続的にジャンプすると、掛け声などなくてもできる。そして最初からずっと、宇城先生は気により「できる」状態を示して下さっています。
本期間のご指導の中で、「床と仲良くなる」「背中の目で床を見て調和する」という検証がありました。周囲と調和できるか否かの検証であり、残念ながら私は充分にできませんでした。それだけ、自分は壊れているのだと実感しました。
しかしながら、「調和ができているとくっつく」という感覚は残りました。これが、出来る身体、できる自分への道標であると思います。そしてこのくっつく感覚は、何も体外だけでなく、体内の細胞同士についても同じであり、細胞同士がくっつくと密度が増し、電波が出て、周囲との調和の度合いも増していくのであろうという事を、先生の実証やご説明、他の出来た方の検証を見て感じました。
検証の中で自分の腕を撫でる事で調和が発揮されるというものがあり、これはどうにかまだエクササイズにならずに日常に持ち込むことができています。仕事の中で、自分の中に衝突が生まれそうになった時に、腕や胸を撫でて調和した時の感覚に戻るという事をしております。この時、雑にせず丁寧にという先生のご指導を思い出すと、手のひらと撫でた箇所の内部が、磁石のように引き合う感覚があります。
そして、先生の新刊である「循環無端」のエネルギーの実証に関しては言わずもがな、圧巻でありました。懐に入れるだけで、大人数人が組んだ列が苦も無く崩れていきました。こうした一つ一つが、大切な道標になっています。
宇城先生、榎本師範、本期間も様々な気付きを授けて頂き、誠に有難う御座います。本当に頂いてばかりで何のお返しもできず、申し訳無く存じますが、まだまだ自分に負け越している中でも諦めず、精進します。今後ともご指導のほど、宜しくお願い申しあげます。 ==============================================
■H.K 会社員 東京 宇城先生、いつもご指導いただき、ありがとうございます。
実践塾の稽古感想文をお送りさせていただきます。
できる自分とできない自分が、すでに存在しているというお話が先生からありました。その検証として、サンチンの型で相手に腕を掴んでもらい、人に寄り添ったときには投げられるが、素通りしたときには投げられないというものがありました。
自分も含め一緒に検証した皆、寄り添ったときには投げられるが、素通りしたときには投げられませんでした。寄り添うという心ありの状態か、素通りという心なしの状態かによって自分が変わる体験は、まさにできる自分とできない自分が、すでにそこに存在しているということであり、これをできる状態にするかどうかは、心によって変わるというものでした。
また、フィードバックではなく、フィードフォワードというお話を先生から頂きました。通常できないことがある場合、フィードバックとして振り返り、反省を行い、改善していくというのが、自分自身の当たり前になっております。しかし、間違ったフィードバックを続けると、永遠にできないループが続いていくだけになるということです。また、型の稽古も同じように、間違ったことを何度繰り返しても上達しないということでもあります。
そして心が変わっていくということは、そもそもの生き方が変わっていくということです。生き方自体が変わらなければ、間違ったフィードバックがかかり続け、いつまでたっても堂々巡りを繰り返してしまう。心、生き方と型は繋がっているということだと感じました。心、生き方を具体的に示す日常が変わらなければ、型も変わらないということです。
この変えていくことの手がかりを先生から示していただいております。ゴミを拾う、人に寄り添う。いくら頭で考えても生き方は変わらず、ひとつひとつの行動を変えていくこと。そして、実践塾や道塾の中で変化している人は、こういったことを、ひとつひとつきちんとやられています。私もそこに触発され、朝、会社に向かう際にゴミ拾いをしています。
やってみて分かったことですが、落ちているゴミに対して、いかにいままで素通りしてきたかということです。まさに先の検証にあった、無関心に素通りしているできない自分と同じ状態でした。それぐらいにいろんなことを見過ごしてしまっているということです。逆に、変わっていくと見える世界があるということこれを実践し続けるということです。
自分自身、これまでの当たり前が、自分の生活の中に蔓延しています。先生にご指導いただく中で、いろいろなことが全く逆だということを感じています。できる自分とできない自分、できる自分になるには、その方向を指し示してくださる師匠がいるということと、自分が気づき、変わっていくことです。その変えていくことの種は、日常の中にあります。日常が変わる、生き方が変わる、型が変わる。小手先ではなく、そもそもの自分を変えていくために、自分への自問自答と行動を、日常の中で積み重ねて参ります。 ==============================================
■M.N 会社員 神奈川 宇城先生。
いつも大変すばらしい実践塾の稽古に参加させていただき誠にありがとうございます。
実践塾において拝見させていただいた宇城先生の技と、体験させていただいた検証を改めて振り返ると、あまりのレベルの高さに、それを表現できる言葉がなかなか思い浮かびませんでした。それでも、実践塾での体験を一つ一つ思い出すうちに最初に感じたのが、宇城先生がされていた高次元の技や、検証で体験した想像を絶する現象が、現実に存在していることを知れる自分の幸運と、それを伝えてくださる宇城先生への感謝の気持ちでした。
そして次に感じたのが、今の人類に最も必要なものが「宇城空手」であるという確信でした。「必要は発明の母」という諺があります。この諺は、人の切実な困りごとや欠乏こそが、新たな知恵や技術を生み出す原動力、創造力になるという言葉です。
実践塾では、宇城先生が開発者、経営者として経験されてきた壮大かつ壮絶なお話をいつも聞かせていただいております。私は、高度経済成長期やバブル期を社会人として体験した世代ではありませんが、宇城先生のお話を聞かせていただく度に、当時の日本を牽引されてきた方々のスケールの大きさ、人間力の大きさに圧倒されます。そのような中で、「必要は発明の母」という言葉を初めて知った時、日本の戦後復興から高度経済成長までを支えてきた方々のお話と繋がりました。
私は以前にホンダのスーパーカブに乗っていました。カブはクラッチレバーが無く、シーソー式チェンジペダルで変速しますが、当時はその理由を深く考えたことはありませんでした。
カブがそのようなバイク機構になった理由は、当時の庶民の生活をよく観察していた本田宗一郎が、蕎麦屋、配達員、社会人など、様ざまな人に仕事で使ってもらうためには「片手運転ができないといけない」「サンダルや革靴で運転できないといけない」という着想を得て、それを実現させたという話を後になり知りました。カブは累計生産台数が1億台を超え、生産台数世界一のバイクとなりましたが、庶民に寄り添う心から世界一の製品が生まれたのだと思いました。
かつてのジャパンアズナンバーワンを牽引してきた日本人は、「今の日本に何が必要なのか」「今の国民に何が必要なのか」を常に真剣に考え、それを実現されてきたのだと思いました。
しかし、今の世の中を見ると、「必要は発明の母」ではなく、「発明は必要の母」になっているように感じます。今の企業や開発の多くは、庶民に「何が必要なのか」ではなく、「何が儲かるのか」という製品やビジネスモデルの発明が先にあり、それを消費者に買わせるために、広告や洗脳を通じて後付けの必要を強制しているように感じることがあります。
大規模太陽光開発事業などはその最たるもので、金儲けを第一の目的としている人たちの本音は、地球温暖化や庶民の生活などには全く興味がなく、自分の利益になれば、自然環境が破壊されても、庶民の電気代が上がっても、何も思わないのだと思います。企業は利益を出さなければなりませんが、昔の日本の企業や物づくりの根底には、庶民の幸福や感動があり、金さえ儲かれば何をやってもいいという非道徳さとは正反対であったと思います。
現代人の誰もが使っているスマートフォンなども、本当に必要だから使うというよりも、使わざるを得ないから使っている状況のように感じます。これらはたしかに便利ではありますが、それが庶民の幸福や感動に繋がっているとは思えずむしろ庶民の不幸や依存への影響の方が大きいように感じます。
かつての日本人は、日本の物づくりに心がワクワクするような期待や感動を感じていたと思いますが、今の開発競争が激化しているAIなどに対しては、不安や恐怖を感じている人の方が多いように思います。
なぜそのようなことになってしまうのかを考えてみると、今の社会のトップにいる人たちが、「人に寄り添う」のではなく、自分達の利益、地位、肩書き、保身に目が向いているからなのだと思います。
宇城先生がお話しされた「今の企業は株主に目が向いている」というお言葉はまさにそれを表しているのだと思いました。かつての日本企業、物づくりの源流には、日本の伝統的な商家哲学にあった、「三方よし(近江商人)」「論語と算盤(渋沢栄一)」「石門心学(石田梅岩)」「報徳思想(二宮尊徳)」などが根底にあったと思います。
しかしその一方で、西洋型企業である株式会社の源流を調べてみると、「東インド会社」に行き着きました。東インド会社のアジア貿易は、成功すれば莫大な利益を得られる反面、失敗したときのリスクも大きかったため、リスク分散のために貿易事業を株式会社化しました。
「会社」の定義を調べると「利益を追求する法人」という言葉が出てきます。その言葉の通り、会社の起源である東インド会社は、株主のために利益を最大化することが目的であり、社員は使い捨てでした。そして、香辛料の交易から始まった東インド会社の事業は、のちのアヘン貿易、奴隷貿易、三角貿易、植民地支配となり、人類史上類を見ないほどの残虐行為を世界中で行なう結果となりました。
日本初の株式会社の一つとされる坂本龍馬の亀山社中は、東インド会社の流れを汲むジャーディン・マセソン商会から武器を購入するために設立されました。しかし、昔の日本人は、海外から取り入れた会社制度を模倣するだけではなく、そこに日本の商家哲学を入れ込み、世界を圧倒した日本型企業経営を確立していったのだと思います。
宇城先生より、松下幸之助の哲学「社員は家族」「人材は人財」などのお話をたくさん聞かせていただき、昔の日本の企業がどれだけ社員を大切にしてきたのかを教えていただいております。しかし、今の多くの企業は、社員をコスト、部品、奴隷としか見ていない様に思います。社員は奴隷であり、金さえ儲かれば何をやってもいいという今の日本の姿を見ると、日本全体が東インド型会社経営に先祖返りしているように感じます。
歴史を調べてみると、「人に寄り添い、人を幸福にしてきた歴史」もあれば、「人を使い捨て、人を不幸にしてきた歴史」もあります。今の日常の様ざまな場面でも、「人を幸福にする人」と、「人を不幸にする人」の二つの存在がなぜあるのか、何が違うのかを考えることがあります。
最近になり、そのような時に思い浮かぶのが「知の入口を身体にする」という宇城先生のお言葉です。先日、「士農工商」の歴史を調べていたとき、まさにそれを強く感じました。士農工商の元々の起源は紀元前の中国にあり、それを取り入れたのが日本でした。日本の士農工商が確立されたのは江戸時代でしたが、中国と日本の士農工商では、外見上は似ていても内容が異なりました。内容が異なった最大の理由は、中国の士は科挙試験に合格した「文官」でしたが、日本の士は「武士」でした。
中国の文官のなかには、利権や一族繁栄のために賄賂を取り、蓄財をする者がいましたが、日本の武士は清貧を美徳とし、そのために生活に困窮することも多くありました。中国の文官と日本の武士が、学問の中心においていた「儒学」には、「無私」「清貧」の思想があったにもかかわらず、なぜそのような違いが生まれたのかを調べると、中国の文官が儒学を学ぶ目的は、科挙試験に合格することでしたが、日本の武士が儒学を学ぶ目的は、儒学を実践、体現することでした。
中国の文官の儒教は「知識」であり、「知の入口が頭」でした。そして、日本の武士の儒教は「行動」であり、「知の入口が身体」でした。中国と日本の士農工商の違いをそれだけで説明することはできませんが、トップに立つ「士」のあり方の違いは、その下の農工商のあり方にも大きな影響を及ぼします。儒教という同じ学問を、「頭(知識)」で学ぶのか、「身体(行動)」で学ぶのかの違いだけで、国家のあり方さえ大きく変えてしまうのだと深く感じました。
科挙試験のために幼少のころから膨大な労力、時間、お金を使い、合格後は、その報酬として利権を使い、富を得る構造は、日本の受験戦争にも共通するものを感じました。そして、頭の知識や過激な競争によってヒエラルキーの上に立った者がとる利己的な行動も、共通しているように思いました。
「知の入口が頭」の人間は、欲があり、不誠実で、人を蹴落とし、人を裏切ります。「知の入口が身体」の人間は、無欲であり、誠実で、人に寄り添い、人を助けます。
なぜそれほどまでに違う人間が生まれてしまうのかを考えると、宇城先生のお言葉の通り、「人は生まれながらに完成形」であり、人間の身体、細胞は、「調和・融合」することで途轍もないエネルギーを発するように始めから創られているからなのだと思いました。
AIの台頭により、ますます知識の価値が薄れていくこれからの未来において「対立・衝突」しか生まない「頭」の考えは必要ありません。これからの未来に本当に必要なものは、人類の「調和・融合」であり、それを実現する方法は「知の入口を身体にする」を唯一身に付けられる「宇城空手」であると確信しています。
宇城先生は「政治では世の中は変わらない。庶民が変わらなければ世の中は変わらない」と仰られました。多くの庶民の知の入口が身体になった時、日本も世界も変わることを信じ、引き続き稽古に励んでいきたいと思います。
今後ともご指導ご鞭撻の程よろしくお願いいたします。 ==============================================
■A.S 公務員 埼玉 実践塾では宇城先生から頂けるエネルギー、様々な検証を通しての体験、そして多岐にわたる分野のお話等、どれも貴重なものばかりで普段の自分を振り返り少しずつでも進化していくための大変貴重な機会となっております。また、先生が送ってくださる記事や先生のお考え、諸先輩方の感想文などを読ませていただくことも様々なことを考えるきっかけとなっており、大変感謝しております。
先生のお話を伺っていると、最近のAIの進化の速さは本当に想像を絶するところまで来てしまったと感じます。特にアメリカや中国のAIの加速度的な進化には日本は全く追いつけない状態ということもわかりました。アメリカや中国は軍需産業としてのAI開発の覇権争いを狙っているため、国家主導で援助を行っていることを考えると、日本はさらに取り残されてしまうことになります。
特に、4月に発表されたばかりのアンソロピックのクロード・ミュトスはAIが作り出したAIであり初期型のAGIと呼ぶべきもので、とても危険な存在となり、使い方によってはあと数年後にはターミネーターの世界がやってくるとの情報があるようです。それが悪用された場面を想像すると背筋が寒くなります。クロード・ミュトスは、膨大なプログラムの脆弱性を簡単に見つけられるということでOSはもちろん、金融機関のプログラムの脆弱性を瞬時に発見してしまうほどの能力があるようです。
先生のお話に度々登場するイーロンマスクが約3か月前に行った会見で、AIの進化はまるで超音速で向かってくる津波のようなもので、だれにも止めることはできない。昨日までできないといわれていたことが、今日の午後には当たり前になり、明日には古いと言われる。そんなスピード感だと。しかし、3か月前にイーロンマスクは今年中にはAGIができるだろうと言っていたものが、会見から1か月余りで初期型のAGIといえるクロード・ミュトスができあがっています。
何より、トランプ大統領が連邦政府機関での利用中止を命令するくらいの性能であることは周知のとおりです。イーロンマスクはさらに2030年にはシンギュラリティ―に到達するだろう言っています。すでにテスラ社の中で仕事をこなしているオプティマスと呼ばれる人型ロボットにこれから開発されるAGIが搭載されることで、自ら考え動き働くロボットが出来上がります。そのロボットを来年2027年に車より安い一台300万円程度で販売する予定のようであり、その結果2040年には世界の人口を超える台数のロボットが開発されるだろうと言っています。
これによりほとんどの仕事がAIロボットに置き換わり世界が180度変わると言っています。さらに、人間の脳にAIを埋め込んで人間とAIの融合であるニューラリンクが行われると、脳にAIの情報を送り込みクラウド上のAIとリンクさせることで人類のすべての知識を脳に送り込み、必要な知識を瞬時に取り出したり、知らない言語が話せるようになったりするという世界を考えているとイーロンマスクは語っています。そうなったときに、どこまでが人間個人としての思考なのかさえわからなくなり、人間がAIを使っているのかAIが人間の体を乗っ取って操っているのかさえわからなくなってしまう危険性があると感じます。
しかし、ロボットが膨大な知識や感情を得ることができても、宇城先生が自在に操っておられる人間の無意識領域のエネルギーを使うことは不可能ではないかと思います。その素晴らしいエネルギーを身近で感じ体験できる機会を頂いていることに感謝しています。また、こんな情報に触れる機会を与えていただいたのも宇城先生の多岐に渡るお話があってこそだと思っております。
6月の実践塾では、数人のグループに分かれて検証をたくさんやらせていただきましたが、循環無端を懐に入れたとたんに相手を動かすことができたり、相手の動きがわかるようになったりと、先生のエネルギーが込められた本という物質を体に触れさせておくだけで先生のエネルギーを頂ける実証体験ができることに感動しました。本のカバーの切れ端を帯に入れただけで、できるような気がして実際にできてしまうという不思議。
一人での稽古では型のように分解の動きができていても、目の前に相手がいるだけでそれまでの動きができなくなってしまいます。先生のエネルギーを頂くとできるような気持になるという心の変化が訪れます。前に人がいることで自分が変わってしまっていたら人に左右されていることになってしまいます。前に人がいてもいなくても自分に変化が起こらないよう、さらに先がとれるように常に無意識の領域に働きかけておくことが必要なのでしょうか。
先日、特別支援の関根さんとの稽古で一緒に型をやっているときに、ある動作の途中でエネルギーをまわりから得ているような感覚になることがありました。その動作をやった後に気を切らさないで技をかけると、力ではなく技がかかることが何度かありました。また、循環無端を身につけながら行うと技がかかりました。そういった繰り返しの中で少しずつでもできたという経験を積んでいければと思っています。
ただ、実践塾の中で先生がエネルギーを与えたテーブルに手を置くとテーブルの中で動いているのがわかる方がいらっしゃいますが、自分にはまだまだ感じることができません。今年の目標の一つである、「宇城先生の出される気を自分の意識として感じられるようになる」が達成できるよう、人間としての感度を上げられるよう、さらに稽古に励んでいきたいと思います。
これからもご指導よろしくお願いいたします。


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