第3回 関東教師塾が開催されました
- chiba
- 1 日前
- 読了時間: 38分
2025年11月24日(月)、今年度3回目となる関東教師塾が埼玉大学教育学部附属特別支援学校で開催された。関東を中心に東京、埼玉をはじめ遠くは秋田、岩手、山形から新規の参加者も含めて17名の様々な現場で教育関係に携わる者が集まり、宇城塾長より「人間の可能性」をテーマに教師としてのあり方をご指導いただいた。
まず始めに、学校教育の「今」と「未来」についての講義があった。「今」とは分析することであり、「未来」とは今どうするかであること、さらにその中で教師の「今」の分析の甘さをご指摘いただいた。教育の現場がAIによってどのように変わっていくのか、そしてそこからの変革に対して学校と教師のあり方がどうあるべきなのか、我々の学びの足りなさと、教師が学ぶことの必要性を説いていただいた。また、チンパンジーとボノボの違いを例に、我々教師の目指す方向を示唆していただいた。

そして、様々な検証を通して、人間の可能性(気のエネルギー)について、我々を身体を通した気づきへと導いてくださった2時間であった。
実証① (量子もつれ)
気を通すと離れていても塾長の技が映る。両手で押さえ込まれていても勝ちが確信できる。さらに触れている全員が同じようにそれを感じることができる。


男女の関係はなく同じように技を映すことができる。

実証②
2つの机をぶつける勢いで押し、その間に手を入れる。塾長の気で机を止める。さらに手を入れた本人は安心感があり、触れている人もそれを感じることができる。


この実証の中で、危険を顧みず、やせ我慢をしていた参加者に対して、強がったりいきがったりすることは、頭での行動でありそうした行為は依存症へとつながっており、そうした甘えがもっと大きな危険につながることをご指導いただいた。
実証③
3人で持ち上げるパイプ椅子は通常であれば抑え込むことができない。塾長にエネルギーを注入してもらうと、いとも簡単に抑え込むことができる。


実証④
塾長の椅子が持ち上がらなくなると、同じように椅子が持ち上がらなくなる。さらに塾長の気が映っているので、椅子から降りても男性2人を投げることができる。


実証⑤
体育座りの体勢で周囲から抑え込まれる。とても動ける状態ではないが、塾長のエネルギーがペン先で注入されると、激しい痛みとともに全員を押し倒すほどの力が出る。


様々な実践で塾長の気を実際に経験させていただく中で、実証②で危険を顧みず強がっていた参加者が変化していく姿を目の当たりにすることができた。まさに「知の入り口は身体である」ことを実感させていただくことができた瞬間であった。
今回の教師塾では、改めて未知の事象に対して感じること、謙虚になること、そして深さを知ること、そこからが教育のスタートであることに気づかせていただいた。まずは教師が真摯に学び、自分自身に目を向け、変化していくことを説いていただいた。そして、例を挙げてお話しいただいたボノボの環境、社会構造、行動様式から学び、学校を対立や競争ではなく協力し合って生きる平和で心豊かな調和・融合の場となるように努力していこうという決意を、参加者それぞれが持つことができた貴重な2時間であった。
参加者の感想
【IM 60代 山形】
宇城憲治先生、本日の関東教師塾でのご指導、本当にありがとうございました。大変お忙しい中、この度も私たち教員のために時間を作って沢山教えていただき、気づきを与えていただき感謝しております。
一昨日の土曜日の午後に急に体全体に蕁麻疹が出てかゆくて仕方なく医者に診てもらいました。原因はすぐにはわかないと言われ、医者からは「1週間はおとなしくしていなさい。運動はしない方がいい。」と言われ、「月曜日に東京に用事があります。」と答えたら渋い顔をして「行くなっていっても行くだろうから、ほどほどにしない。」「アルコールはダメ。」と言われました。しかし、本日、機器の故障や野生動物との衝突など様々な理由で運行状況が常に心配な山形新幹線も何の問題なく、山形—大宮間を往復できました。宇城先生のエネルギーに引き寄せられるようにして関東教師塾に参加でき、いつも以上の大きなエネルギーと希望をいただいて帰ってきました。今日、大宮に来ていなければ得られない経験をいくつもさせていただきました。
特に、印象深かったのが今日初めて参加した若い男の先生に対するご指導です。まるで自分への先生の指導の総まとめだと気づかせていただきました。
ぶつけ合わされるパイプ椅子の間に手を入れる場面で、彼は平然と椅子の間に手を置いたままにしていてかなり痛かったと思いますが、「大丈夫」のような顔をしていました。そんな彼に向かって先生は何度も「イキがっている」と指摘され、「イキがる先には依存症がある」と指摘されていました。確かに、私の目から見ても、彼は自分が言われていることが何もわかっていないというか、自分の身体がおびえているのにそれを認めず、それこそ背伸びしてイキがっているように見えました。そんな彼を様々なご指導の中でずっと相手にされ、とても厳しい言葉でいろんな指摘をされていましたが、最終的には彼の身体は、自分の身体が感じる痛みに素直に反応するようになり、彼自身も自分の身体の反応をそのまま受け止めることができるようになりました。とても大きな変化がありました。先生は、始めから終わりまで全部お見通しだったのです。厳しさの中に本物の本当に暖かさ・やさしがあり、その思いやりは今日の参加者全員が感じたものだと思います。
振り返って思うに、宇城先生のご講義を始めて聴かせていただいた20数年前、「何か質問ある人」と問われて、思わず「先生、気って何ですか」と質問させていただいた自分がいました。今から考えれば、本当に何もわかっていなかっておらず、イキがっていたのだとわかります。「気」の世界の深さ広さ大きさ、その「気」を自在に使う先生の比類なきすごさ、まさに「唯一無二」の存在で世界どこででも驚愕される力など、全く分かっていませんでした。今日、先生があの若者にかけられていた言葉は、これまでの自分にそのまま当てはまっていました。したがって、今日の教師塾の時間は「初めて先生に出会った頃からこれまでずっと先生から教えていただいた20数年のご指導の中身を、1時間半に凝縮して見せていただいた思いです。
彼は、自分の体が怯えているにもかかわらず、それを無視して強がっているから、どんどん引っ込みがつかなくなっていて、本当は自分自身でも「やばい、引っ込みがつかない状況になっている」「このまま自分は大丈夫って顔してやっているとほんとに大けがするかも」と感じているはずなのにそれを素直に認めることができない状態だったと思います。そういう彼に、時に厳しく時に優しく暖かく包み込んで導いていいかれる先生の姿は、すべての塾生に対する先生の愛の深さを感じました。若者本人はきっと何を言われているのがきっと全くわかっていないのだと思います。自分もかつてそうでしたから…。そのことがわかるのは先生のご指導を受け続けて5~10年、いや20年くらいたたないときっとわからないものなのかなと思いました。自分も長い間、先生にお世話になっておりますけれども、まだまだ全く未熟で先生にお会いするたびに、いつも圧倒されます。少しは追いつこうとしてみても、常に会うたびに遥か彼方先を歩いている先生の姿があります。物事の本質を観る目、時代のはるか先を見通す目、状況の背後で動いているものを見抜く目に圧倒されます。
そのような宇城先生の目は、塾生、特に今日の関東教師塾では、教員に対する深い愛情に支えられていることを知り、さらに驚きました。というのは、懇親会の席で先生は「若者はあれぐらいイキがっていないとだめなんだ」とあの若者をしっかり認め、彼が今の学校を希望して小学校から移ってきたその動機、背景にはきっと何かあるだろう。今の学校に、単に興味があるからということではないだろう。きっとその家族や近親者の中に同様の課題を抱えている人がいるのではないか」とおっしゃっておりました。先生はそこまで見抜いておられるなと思ってほんとにびっくりしました。私たちには見えないものが先生にはしっかりと見えていて感じ取られていて、だからこそああやって丁寧にご指導されたのだと感じました。宇城先生は、先生に学ぶ塾生一人ひとりを本当に深く見ておられるのです。
今の学校教育の現場で、今日のような宇城先生のご指導は「奇跡」です。しかし、その「奇跡」を見せていただいた私たちが、本当に力をつけて子どもたちにかかわっていかないと、子どもたちが救われない。宇城先生に学ぶ自分たちが本気で先生に学んで、「結果としてその現場を変えていってほしい」と強く先生が願っておられることを改めて感じさせられました。
「いじめは学校・教師の責任だ」「学校は隠ぺいするところだ」「子どもたちに生きる希望を与えられていない」「教師こそ学んで学んで学ばないと…」などの指摘はまさにその通りです。さらに先生は今回、「教員が生徒に対して負っている責任は本当に大きい」とも言われました。しかし、そのことに気がつこうともせずに、全く不勉強で世界のことなど何も知らずにいて平気なまま、AIのことについても全く無知なまま、部活動の指導なのでは生徒たちを平気で怒鳴りつけたりバカにしたり…。あるいは、自分の生活のためだけに教員をやっている。そのような教員があまりにも現実に多く、その結果、とても多くの子供たちの「変化・成長」の可能性を奪い続けている。子供の発達する可能性を歪めてしまっている。その自分の愚かさ、未熟さ、勉強不足さに想いが至らない。そういう教育現場のことを先生はよくご存じです。多くの生徒や保護者から相談を受けておられ、いじめや不登校、自死などの深刻な問題やそれらへの学校・教員の対応のひどさ知っておられます。先生の中には学校教育・教員に対するとても深い「絶望」と「怒り」があるのだと思います。しかし、同時にその絶望と怒りを大きく超える「希望」「愛」をもお持ちなのだと思います。だからこそ、私たち教員を特別にご指導いただいているのだと思います。
宇城先生は学校教育の変革を私たちに託されているのです。先生と出会い、先生から学び続けていくことで、結果的として、現在の教育体制、日本の教育のあり方を変えていかないと、どんどん日本の子どもたちの可能性が奪われ続けていくのだと思いました。その罪の深さを先生は本当に感じておられるのだと思います。だからこそ、常に私たちに教育の可能性、その希望、子供たちのエネルギーのすごさなどを提示してくださいます。
今日のご指導は、懇親会でのお話を含めて、いつもにもまして教員である私たちに対する「愛」のメッセージだと感じました。
そして、先生は今回もたくさんのヒントを与えてくれました。「チンパンジーとボノボの違い」「コロッセウム…スポーツという言葉の由来」「家畜化」「今の日本人のパスポート所有率16%、実際海外に行くのは4%」「ミネルヴァ大学」「空手で生活している人は変われない」「ファクトとフェイク…学校の先生はフェイクを信じやすく、上から降りてくるフェイクを見抜けない」「日本のメディアは真実を報道しない」「中国との付き合い方」など、本当は私たちが自分で学ばないといけないことであるにもかかわらず盲目でいる様々なことに気づかせていただきました。
今回の教師塾では、医者から回復してもらえる「元気・希望」の数百倍の「元気・希望」を与えていただきました。宇城先生から学ばせていただいていることのありがたさと同時にやはり自分が日常生活の中で変わることで周囲の変化を生み出していかないといけないという責任を痛感しました。
本当にありがとうございました。
【KS 40代 東京】
第5回関東教師塾、本当に有意義な時間を過ごすことができました。合宿後にも関わらず貴重な機会をつくってくださった宇城先生には本当に感謝しております。
今回の関東教師塾ですが、これまでの自分の中で一番楽しみに参加させて頂きました。東京実践塾を経験し宇城先生を知るにつれて、関東教師塾は宇城先生ととても近い距離で、そして濃い密度で接することのできる機会であり、本当に貴重な時間であることが分かったからです。そして、特に教育に焦点を当てた宇城先生のお話や実践をとても知りたく、自分が教師として正しい方向に行くために必要不可欠であると感じているためです。
過去の歴史から学ぶこと、そして、未来について考えるということは今、どうするかということ、を大きなテーマとしてお話頂きました。宇城先生のお話を聞くことで、自分自身も含めて、日本人が「自分さえよければ」と分断するようになってしまっていることが、大きな課題であると捉えるようになりました。「調和して、助け合う雰囲気は、安全な空間をつくる。逆に、スポーツや受験・学歴といった競争社会は不安や怯えを生み出す」という真理を理解することが大切だと思いました。そして、それらを踏まえて教職に臨むことができれば、少なくても自分の周りの子どもたちは守ることができる、ということも強く感じた実践となりました。また、宇城先生のお言葉から、教育のシステムを変えることは無理であるということも理解致しました。それは、周りの大多数の人々が、間違った考え方をしている中で、自分の周りと未来の子どもたちを守ろうとして宇城先生の生き様から分かる真実なのだと考えます。
机を持ち、机の間に入れた腕に向かって机を押す実践の場では、自分がいかに甘い世界を生きているのかを実感しました。「自己責任である」という宇城先生の言葉の後、机が重くなっておらず、私は机を押すことを少しためらい、加減もしました。後から、宇城先生はあの瞬間にすべてを見極めたことに気付きました。自分は瞬間的に判断する力が弱い、そこには甘えがあり、それがこの鈍い自分の身体の動きや判断に繋がっていることを痛感致しました。
自分が教職大学院へと進学して見えた世界は、大学の研究が部分体であるということです。そして、大学の教授も実践できないということです。宇城先生はよく、指導者は誰よりも勉強をする必要があると仰っておられますが、知識を学ぶことが勉強ではないということも、理解し始めました。物事の本質を理解するためには、知の出入り口が身体であることが大切であると考えるようになってきました。ただし、ここには太陽である師が必要であり、師をうつすことも必要なのだと考えます。また、教育理論を学ぶことで、日本にも優れた学者がいたこともまた事実なのだと感じます。進化しながら、自滅に向かっている日本において、本質に触れることが出来る貴重な関東教師塾や東京実践塾を通して、AIには出来ない人間の素晴らしい力を生かした教育を目指したいと強く思います。
宇城先生、いつも本当に感謝しております。今後ともご指導のほど、宜しくお願い致します。
【SJ 50代 岩手】
2つの椅子で間に入れた腕を挟む実践で、私は椅子を持ちました。腕を入れた方は「大丈夫です」と言うため、徐々に椅子を速く動かしていきました。先生はもっと速く動かすようおっしゃいます。私は「大丈夫なの?」と思い、本気で椅子を動かしませんでした。ですが、先生は「宇城塾は常に真剣」とおっしゃり、本気で挟むようおっしゃいました。その時自分の真剣に行うということへの甘さを痛感しました。同時に「宇城先生が見ていて下さるのだから大丈夫」とも思っていました。自分は生徒に「先生がいるから大丈夫」と思われるような行動をしているだろうか、真剣に生徒に向き合っているだろうかと考えました。また、手を挟んでいた方が1時間半の間にみるみる変わっていきました。教師としてどうあるべきかを実践で身をもって教えて頂きました。
「家畜」という言葉も今の私の行動に当てはまりました。私は権力が作った仕組みのせいにして、一番大切な「生徒を守る」ことを流れ作業的にこなしていました。その仕組みの中でもどうにかしようと考えない、まさに権力の家畜です。先生は勉強不足、勉強をして差をつける点を指摘します。核保有の是非についても、私は明確に答えを持てていませんでした。知識、実体験が圧倒的に不足しているため、隠ぺいやもっと大きい陰謀にも気付かず、まさに「家畜」と化しています。今を分析し、その延長線上にある未来に先手を打つことを先生はAI、パスポートの保有率等を例に挙げて下さいました。
懇親会の席では先生が企業経営をしていた際の接待についてお話して下さいました。私が想像もできないレベルのお話でした。「学校の先生は接待の仕方を知らないから」とおっしゃっていましたが、これは教育界すべてに当てはまることだと思います。道塾で学んでいなければこのような場でスーツを着用することすら知らなかったと思います。
今回も非常に貴重な経験をすることができました。本当にありがとうございました。今後ともご指導ご鞭撻のほどよろしくお願いいたします。
【OR 40代 埼玉】
学びの多い体験をありがとうございました。身体を触れた時に反応が薄い塾生に「障害がある子ども達をモルモットの様に扱っているからだ」とお話しされた言葉が印象的です。私は特別支援教育を受ける子ども達と毎日接しています。次男もADHDの為、癇癪や場にそぐわない行動が気になります。そんな時に一つ一つの行動を観察したり、分析したり、学んだ事を実践してみたりしています。先日、長男に「お母さんは担任している子たちも俺たちもモルモットみたいに思っているよね」と言われました。毎日では無いですが子育てを客観的に楽しんでいる様な自覚があります。息子の言葉に愛情が伝わっていないのではないかとハッとしました。教師の子どもは変わっている子が多いと言われます。我が子を自分の教え子の様に接してしまったり、学びを試したりする教師は多いのではないかと感じます。教師である前に母親である事をしっかりと自覚して、母親はどうあるべきか、整理したいと考えました。子育ての難しさ、奥深さ、責任を感じます。愛の溢れるご指導をありがとうございました。
【OY 40代 埼玉】
この度は教師塾でのご指導、ありがとうございました。今回は、途中からずっと自身のことを振り返り、反省をしていました。実践の中で宇城先生にボールペンで突かれても何も感じなかった…自分は何かしらのところで感覚が鈍くなってしまっているのだと、いったいどこの部分なのか、と考えていました。子ども達と向き合う時、「この子は障害があるから」という目で見ていないか、とか、寄り添う心を忘れていたのではないか、とか、いろいろ考えてしまいました。でも、結局、頭で考えていても身体の方が正直なので、実際、そのような事実があったと受け止めて、また自分の行動を改めていかなくてはいけない、と思いました。
また、自分は「子ども達が安心できる空間を作りたい」のだ、ということの再認識をさせていただきました。前回と違う形でしたが、2つの長机の間に手を入れた時、体が「逃げたい」と感じていたのですが、宇城先生から気を通していただいた瞬間にその感覚が全くなくなり、そこにいても大丈夫と感じられました。「状態はまわりに伝播するから、全て教師次第」というのが強く頭に残っています。子ども達に安心を伝えられるような自分でいたい、そのためにこれからも学んでいきたい、と強く感じました。
この度も、充実した学びの時間を過ごさせていただき、本当にありがとうございました。
【NH 50代 神奈川】
東京空手合宿に続いて関東教師塾でもご指導いただきまして、ありがとうございました。
今回の教師塾で最も心に残ったのは、「いきがることは依存症の始まりである。」ということです。 椅子と椅子を左右から挟むように動かし、その間に入れるかという実践で、参加者の一人がやってみたいと手を挙げました。椅子を止めるには、止められる技術(と気迫)がなければできないということに気づいていないようでした。私は、片方の椅子を動かす役でした。なんどかやりましたが、できないことが分からないのか、あるいはやってみなければ分からないと考えているのか、「できません。」とは言ってくれませんでした。見かねた先生が「それはいきがっているだけ」と指摘してくださいました。そこで彼もようやく気づいたようでした。
振り返ってみると、私自身にも似たようなところがあるのではないかと気づかされました。教師として子どもたちの前に立つとき、教えることで無意識のうちに上から目線で子どもを下に見たり、子どもを上手く動かそうとしたりすることで優越感を感じようとしているのではないか。とくに若い頃はそうだったと思いました。まず自分自身が心を開くことで、子どもたちにきちんと向き合えるようになるとあらためて感じました。
また痛いのをごまかすようなやせ我慢しても解決法は見つかりません。それだけでなく、我慢は危険を感知する感覚を鈍らせることにもなってしまいます。そして危険の感知は身体で感じるしかありません。それには小さい頃から、何が危険であるか身をもって体験することが大切と思いました。講義の中で、熱湯が熱いことは頭で感じるのでなく触れた瞬間に分かる、とのお話がありました。このような体験をしたときは驚くほど俊敏に身体が動きます。今回の実践の中で、集団に押さえ込まれて動かせないときに、先生に爪の先を弾かれた途端、自分でもびっくりするくらい身体が反応して、後ろに飛び退いていました。そしてまた、講義の初めは反応の鈍かった人も同じ体験をして、驚くほどの反応をしていました。
大勢に抑えられて全く動かせなかったのに、どこからあれだけの力が出てくるのか、人間の持つエネルギーの不思議さと、人の心を短時間に変化させる先生の指導に、感動しました。 今回いただいたエネルギーを糧にまた日常を過ごし、子どもたちの笑顔を少しでも増やせるように努力して参りたいと思います。
【MK 50代 長野】
宇城先生、今回も教師塾でのご指導ありがとうございました。本当にあっという間の2時間でした。深い内容に自分の理解がまだまだ及んでいないことに、「指導者がもっと勉強しなくてはならない」という言葉の重みを噛みしめています。
学校教育の今とは分析することであり、私たちは分析できていない、つまり勉強不足であることに気づかせていただきました。自分の中に、何となくこのままいけるだろうという感覚があることは否めません。それが私の甘さであり、未来に向かっていないことの表れだと感じました。先日、新聞で歌手の松任谷由実さんがAIを活用したアルバムを出したという記事を読みました。本人とAIが作り出した松任谷さんがデュエットしたそうですが、おもしろかったのは、AIが作詞作曲したものは採用しなかったそうです。その理由は、AIの創ったものは松任谷さんの作品をよく知り、松任谷さん風のものではあったが、どの曲も松任谷さんの創った作品の焼き直しのようなもので新鮮さに欠けているものだったからだそうです。無から新しいものを作り出す創造性といったものは、まだ人間なのだということだそうです。記事には「今までなかったものを生み出さなければならない創作や科学や技術革新の現場ではAI進出の脅威はなさそうだ。」とありました。しかし、いずれこうしたことはAIも乗り越えてしまうかもしれません。宇城先生が私たちに見せてくれたり体験させてくださったりすることは、同じく無から有を生み出すものではありますが、この先も決してAIにはできないことだと思います。まさに人間の可能性を示して頂いています。
アメリカのリストラ計画110万人のうち、特に多かったのが情報技術、コンサルタント、物流業だそうです。リストラの主要因は、プログラミング作成、データ入力や分析・管理、過去の資料に基づく分析等の業務をAIが人に代わって行っているからだそうです。
それでは学校教育においてAIと学校、教師とはどうかということです。教師塾のあと、先生に投げかけられて自分がわかる範囲で調べてみました。ハーバード大学が、教育の現場がAIによってどのように変わっていくのかを予測した研究で「2050年の教育ビジョン」として発表されたそうです。それによると、知識伝達や能力・技能育成の学習は、2050年ごろには教師の画一的な一斉授業でなく、AIが一人一人に合った学習内容を適切な解説を加え、本人の興味関心に応じた課題を提示できるようになるそうです。成績や評価もすべてAIが的確に行い、しかもフルタイムでサポートされるとのことです。ただし、こうした変革に対して学校や人間の教師のあり方がどうあるべきか、また、人間主役の社会を構成していくために人との交流やそのスキルをどう積んでいくかが課題と見込まれているそうです。
こうした課題に今回の教師塾では先生からチンパンジーとボノボの例を挙げてヒントを頂いた気がします。同じヒト科チンパンジー属ではあるが、この2つの個体の大きな差。その種が分かれた原因に、今の私たちが考えなければならないことがあるように思います。2つの種はアフリカのコンゴ川で分かれて生息しているとのことです。始めはコンゴ川ができて分断され、肥沃な南側の土地に残った類人猿がボノボ、食料の少ない北側の土地に残った類人猿がチンパンジーになったと考えられていたそうですが、現在の研究ではコンゴ川ができたのはもっと古い時代であり、川ができたから種が分かれたのではないとのことです。化石を調べると類人猿の化石は川の北側、つまり現在チンパンジーの生息する地域からしか出ていないようです。そこから考えられるのは、南側の肥沃な土地にコンゴ川を渡った類人猿の集団がいたのではないかという説が有力だそうです。コンゴ川を調べてみると川幅は広いところで15kmもあり、とんでもない距離です。気象状況などもあったのかもしれませんが、その広大な川を渡ろうとした勇気ある一族がボノボなのではないかということです。平和的で争いで物事を解決しない、そして分かち合う社会、これは宇城先生が指し示す調和と融合の社会ではないかと思います。チンパンジーとボノボの社会構造の違いから私たちが学ぶべきものは多いと感じました。力と対立の社会と調和・融合による社会。今、学校教育がどちらに寄っているのか、どちらに寄っていくべきなのか、答えは明白です。今、自分のいるのは川の北側です。川を渡るのは勇気がいります。それでも、未来を考えると南側を目指したいです。そして、子供たちに南側での未来を創っていってあげたいです。
パイプ椅子で腕をはさむという検証のときに、先生から「表情がない。危険だ。」とご指摘を頂きました。自分の勝手な考えですが、きっと笑うとか怒るとか顔の表情のことを指摘いただいたのではないと思います。心の表情ではないかと考えています。教師がもっと心を動かして豊かにならなければ、子供たちが寄ってきません。心を開いて、感じたことをそのまま受け取れる人間になりたいと思います。自分自身が気づいていない過ちに気づかせていただけるというありがたさに本当に感謝いたします。ご指導ありがとうございました。
自分を含めた教師が自分自身を見つめ、先生が示してくださる「人間の可能性」に気づき、貪欲に、さらに謙虚に学んで、自分自身が感動し心を伝えていける教師を目指していきたいです。改めましてご指導ありがとうございました。今後ともご指導のほど、よろしくお願いいたします。
【NY 50代 東京】
宇城先生の教師塾,この度も日頃の曇ってしまった目を覚まして頂く衝撃の連続でした。人間はコンセントもないのに電気を生じて心臓を動かしている、太陽、月、地球が引き合う様に私たちも外界からの見えない力を受けてここにある、これからの国の在り方,学校の在り方、様々教えて頂きました。その中で教師はともかく学び続けなくてはならない、生徒を愛情を持って包みなさいと繰り返し仰って頂いたことが特に印象に残りました。何が正しい?と日々自問自答していましたが、自分が学んでいるのか?愛情を込めて生徒に接しているか?の問いかけは二の次になっていました。翌日の授業から早速、生徒の姿勢が変わった気がします。正確には生徒がこちらの変化を感じ取ったのだと思います。高校生の一瞬の変化は稀有なことです。驚き心が温かくなりました。
懇親会会場では宇城先生が何かの折に「あー、楽しいなあ」とおっしゃって下さっていました。激務の中、教師塾を開いて頂き、その中でお疲れも見せずにそこにいらっしゃる宇城先生が偉大過ぎてただただ恐縮するばかりでした。この様な学びの場に参加できた我が身の幸運に感謝します。関係者の皆様、本当に有難うございました。
【SA 60代 埼玉】
宇城先生、今回は実践塾の合宿後という大変お疲れの中、関東教師塾でのご指導大変ありがとうございました。毎回少人数で宇城先生のお話と体験をさせていだける貴重な機会に感謝いたします。教師塾への参加者が増やせないことが大変悔しいことではありますが、地道に心ある教員に声をかけながら増やしていきたいと思います。
先生が今回の教師塾でも初めに仰っていたように、学校教育の現状と未来について、社会での影響や現状だけでなく学校現場におけるAIの影響を勉強して知る必要があると感じました。先日、陸上部の顧問が、400m走の効果的なトレーニングについてChatGPTで調べたら細かくわかりやすいものが出てきたのでそれをやらせてみたと言っていました。その教員は学校の中でもPCに詳しい教員の一人でしたが、その件以外でそれらしい話は聞いたことがありません。また、子どもたちに調べ学習を行わせたところ、GoogleのAIモードを使うことであっという間に調べ学習が終わってしまったということがありました。教員より子どもたちの方がAIを使いこなしているという現状です。世界のAI技術の開発をリードするOpenAIのCEOによれば、「AGIは、早ければ2027年までに、ASIもその後数千日以内に実現する」と予測するような状況になってきているようで、現在の汎用型AIでさえその存在を知る教員も少なく人間と同等に知的能力と自律的な学習能力を持つと言われるAGIの実現が目の前に来ていることやそのすぐ先にASIと言われる途方もないものの実現が加速していることは、学校電場ではほぼ誰も気付いていないと思います。今の小中学生が社会人になる頃にはどんな社会になるのか、AIに奪われない仕事はどんなものがあり、その職業につくためにはどんな能力が必要で、今何をしておくべきなのかを子どもたちを指導する教員がそのことを理解していなければならないはずです。宇城先生からAIについてのお話を伺うたびにそんなことを考えます。
先日、私が教師になった年の教え子たちとの同窓会があり参加してきました。もう、皆50歳代の半ばになっていましたが、私がその当時子どもたちに話した「今後のエネルギー」についての話をよく覚えている生徒がいて、先生が熱く語っていたと言われ少々恥ずかしくなりました。教え子が何歳になっても、教師が発した印象的なことや大切なこと、また教師との出会いやその影響が子どもたち中に残っていることを感じ、子どもたちの成長や人生に大きな影響を及ぼす大切な職業であると再認識しました。宇城先生がよく言われている、教える側がしっかり勉強して、間違えたことを教えるようなことはあってはならないという言葉が身にしみて感じられました。
今回の教師塾で宇城先生がお話されていたチンパンジーとボノボのお話に大変興味を持ちました。同じような進化の過程を経てきたのに、川の対岸同士で全く性質の異なる動物に進化していったこと、チンパンジーはオスが中心となり攻撃的で集団どうしが出会うのを避けるのに対して、ボノボはメスが中心となり集団での争いごとがほとんどないことなど、非常に興味深い内容で、学校現場でもなにか参考になればと思い調べてみたいと思います。
また、シジュウカラを研究された鈴木俊貴氏のお話をされていましたが、たまたまその本を読んでいたため、研究のあり方、追求していくことの大切さやりがいなど、宇城先生のお話を伺い教師として大切なこととしてあらためて学ばせていただきました。
「今日の課題」として、「人間の可能性」について多くの実践を通して学ばせていただきました。特に、附属特別支援学校の若き教師へのご指導は、彼の行動にハラハラしましたが、最後にはしっかりと納得させるご指導を頂き、大変参考になりました。一度現場を引退したこともありなかなか教育に関して情熱が保てないこともありますが、子どもたちのために教師とはどうあるべきかを若い教師に体を通して示していくことが重要であることを再認識しました。宇城先生がよく言われているように、今日は何をするのか生徒が目を輝かせて聞いてくる、自分から進んであいさつをしてくるような存在になれるよう、そんな学校に少しでも近づけるよう鍛えていきたいと思います。
今後ともご指導よろしくお願いいたします。
【IT 50代 秋田】
今回の教師塾で最も印象に残ったことばは、「知の入口は身体」ということばです。見ること、聞くこと、嗅ぐこと、味わうこと、触ることすべて身体の器官を使っています。読むこと、感じることもそうです。身体の反応に素直に従うことが、自然の理に適った知に近づく一歩だと思いました。身体の細胞を通して身につけたことは、自転車の運転のように一生使えるものとなり、武術の技のように日常の咄嗟の時に出るものとなるのだと思います。
私は今回、女性の方と机を挟んで座り腕相撲の体験をさせていただきました。私が両手で女性の腕を机に押さえる体制になりました。女性は腕を返そうとしても私が両手で押さえているので、返せません。宇城先生が気をかけられると、女性は笑顔になり、両手で押さえている私の腕を返しました。次に肘を浮かせた状態で腕相撲の体制になり、机の両端を他の参加者が持ちました。宇城先生が机を持ち上げるように指示すると机の両端を持った二人は持ち上げようとしますが、力を入れるほど持ち上げられない様子でした。
今回初めての参加者で宇城先生が見て課題がある方がいらっしゃいました。それを見逃さずその時に指摘し気づかせる指導がありました。指摘するには勇気、覚悟が要ります。愛で包んでいるから厳しいことを言われても受け入れられる。そうでなければ反発されます。そして指導の時間内で変化(成長)させる姿を見せていただきました。その参加者の姿はかつての、あるいは現在の自分や他の参加者の姿でもあり、他の参加者の気づき(成長)にもつながります。正に教育、指導の姿、型、模範授業が示されたと思いました。身体の感受性が鈍い、表現できない、我慢する所は現在の自分にも感じるところです。本来身体は一番近くにある自然であり、心臓はどこからも電源を取っていないのに動き続け電気を発生している神秘が、各人一人ひとりに与えられている、すなわち(大いなるもの、自然、宇宙に)生かされていることを自覚したいと思いました。
自信は自分を信じると書きます。どうしたら自分を信じることができるか。生かされている自分の身体・生命、宇宙につながっている身体を信じる、愛することができるようになりたいと思いました。
チンパンジーとボノボのお話も印象深かったです。コンゴ川の北側にチンパンジー、南側にボノボが生息しており、チンパンジーのリーダーは、たたかいに強いオスで、ボノボのリーダーは、メスや子どもを助けるオスで、ボノボのリーダーのあり方が日本人に向いているというお話でした。確かにチンパンジーのリーダーのあり方は西洋風でボノボのリーダーのあり方は日本人風のように感じ、親しみや希望を感じました。 宇城先生、教師塾でしか話せないようなお話やご指導ありがとうございます。
【SR 20代 東京】
この度は合宿に続き、教師塾でもご指導いただきありがとうございました。日々の指導の中で宇城先生ご自身が日本の未来のことを考え、行動しているのかを私たちに見せ続けていただけることが自分にとって一番の活力になっていることを改めて感じました。
今回の指導の中で、ボノボとチンパンジーの種分化の話がありました。ボノボのように助け合える子どもを育てられる教育でなければならないという言葉に教師としての責任を感じるとともに、まずは何より自分たち教師がボノボのように助け合いを実践していかなければならないと感じました。
指導の中で「身体が先にある学びでなければならない」というお言葉がありました。そして宇城先生は実際に机や椅子、ペンを使った検証を通して本人の間違いや可能性を気づかせる指導をされていました。学びのあるべき姿をみせていただいたと感じました。また、指導の中で「熱いものを触らせたら次から触らなくなる」という話がありました。
自分が普段子どもを指導する中で大切にしているのが『可愛い子には旅をさせよ』という言葉です。いかに実際に経験させ、自信に繋げ、自律を促していくかが教師の存在意義だと思います。今回のご指導を通して、子どもによって段階はありますが、そこを見極めながら子どもに役割を任せ、信頼し、成功に導いていくことが重要であると思いました。
また、先生の話の中であった「先生という仕事についているだけ」「先生と呼ばれているだけ」の教師が自分も含めて多くいると感じます。 宇城先生のご指導はいつも自分が無知であることに改めて気づかせてくださると同時に自分の可能性を教えてくださる貴重な場であると改めて感じました。
今回教えていただいたことを原動力に、少しでも多く実践に繋げられるよう試行錯誤しながら、子どもたちと向き合っていきたいと思います。 この度はお忙しい中、お時間をいただき、ご指導いただきまして誠にありがとうございました。
【SE 40代 神奈川】
宇城先生、この度は初めて教師塾に参加させて頂きましたこと、また貴重なご指導を誠にありがとうございました。
核の三原則への回答を自分の中で持っておかないと、という冒頭のお話を伺った時、子どもと関わるようになった当初、子どもは政治や歴史に関心があることを知り慌てたことを思い出しました。大人の無関心さが子どもの関心を削いでいくのだと痛感しています。
子どもを取り巻く環境は、教育・福祉といった行政ですが、非常に堅苦しい組織でありながら、現場の緩さは目に余るものがあり、そこから先生の仰る隠蔽はいつ起きてもおかしくないことを感じています。隠ぺいをさせない、日頃からの土壌づくりも危ういと感じるのは、隠ぺいを起こすのは私たちで、その一人である私自身の卑しさを、宇城先生のご指導のもと向き合わせて頂くからです。自分の姿を客観視させて頂くと、自分が身を置く環境や携わる人間性も客観視させて頂き、そこで強く感じるのが、根底に流れる自分さえ良ければという考えの強さです。そうした大人が集まる環境ですが、現場には子どもと向き合える時間があり、その瞬間を大事にしたい、逃したくない気持ちになります。その瞬間はいつ来るか分からないからこそ、反応できる身体で在りたいと感じています。
そしてそれは、今回の講義の中で繰り広げられた若い先生へのご指導そのものでした。初めて会った僅かな時間で向き合い変化させたお姿は、テーブルを衝突させる実証で拝見した、覚悟あるからできるのではなく、できる人が覚悟ある人というお姿そのものでした。僅かな時間で一人の人間が変化した一連の展開、その感動はじわりと残り、何度も思い出す中で、ふと、できないことを良しとする自分に気づかされました。宇城先生はできるようになるためのメソッドを示して下さっています。そして宇城空手では、できるかできないかという見える形になります。そうした絶対的世界に憧れを抱き学ばせて頂くのであれば、できるようにならなければ意味がないと、自身の甘い考えを痛感させて頂きました。
今回重くなったテーブルに触れさせて頂きましたが、あの衝撃を日常に見ようとすることができるか、誰と居てもどこにいてもなのだと思いました。私の中の邪魔するものは何か。分かったら徹底的になくしていく。一択と進む場面が一日の数回しかないのだと気づかされ、自身のいい加減さに愕然とします。
一方で、教師塾の後から不思議なほどに子どもとの距離感が変わり、教師塾が即現場に繋がるというその貴重さを実感しました。如何に普段のご指導を日常に繋げられていないかと感じつつ、自分に負けたくない、勝ちにいきたいと思える場所があることの有難さを感じました。
今後も教師塾に参加させて頂きたく存じます。今後とも厳しいご指導を賜りますよう、何卒よろしくお願い申し上げます。重ね重ね、誠にありがとうございました。
【FN 50代 東京】
第5回関東教師塾の開催、並びに、ご指導いただき誠に有難う御座いました。教育。そして学校教育の現状を踏まえて教育の未来を作っていかなければいけないことを冒頭でお話を伺いました。 食料が希薄な環境で進化したチンパンジーは攻撃的で食料を奪い合う習性に、一方、食料が豊かな環境で進化したボノボは、穏やかで食料を分け与え合う集団に。
アウシュビッツ、ロシアウクライナ戦争、台湾有事、その他争いの歴史を振り返りながら、富の奪い合いや我欲に溺れることが、地球、宇宙の法則から逸脱を広げ子供達の豊かな生活を奪っていることに他ならない事をお教えくださいました。
子供達の未来を共に作っていくためには、より、学びを深め、ファクトに基づいて常に気づきを供与できるような会話力や、目に見えない心の動きを感じ取ることのできる繊細な心身の状態を保つことが必要であることをお教えいただきました。
宇城先生が一瞬で空間を変化させるさまざまな検証では、冒頭、「知の入り口は身体」とお教えいただいた通り身体を通して得難い事象の数々から感じ取ることができました。そして、参加した教員の皆さんが宇城先生から注がれたエネルギーによって変化した様子は、まさに、我々教員の目指すべき時空であると改めて強く感じました。
宇城先生が作られた調和融合の空間の感覚を、日常に落とし込んでいくことができるよう、日々、子供達の未来のために精進して参ります。ご指導賜り、誠に有難う御座いました。今後とも、ご指導ご鞭撻のほど、よろしくお願いいたします。
【IK 60代 東京】
今回もエネルギーに満ちあふれた教師塾でのご指導心より感謝申し上げます。
「人間の可能性」をテーマにご指導いただき、私たち教師はどうあるべきか、子どもたち(未来)の姿はどうあるべきか、はっきり示されたように思います。
AIの進化が凄まじく、人間の能力を超える「人工知能」の可能性を視野に入れた人間の生き方を考えなければならないと思いました。知識偏重の暗記教育は終わっています。教育の中に取り入れ、AIを補助的に活用しなければならないことは明らかです。AIにはできないこと、人間にしかできないことに特化した教育も同時に開発しなくてはならないと思いました。
米国は「ゴールデンドーム計画」に巨額の国家予算を注ぎ込み、国防におけるAI革命を起こす準備に入ったと聞きます。AI国防産業によって、再びあらゆる分野で世界の優位に立とうとしています。自動車、大型飛行機、インターネット、GPS等々国防産業から生まれていますが、日本は国民を守るためにAIをどう活用するのか、国家予算を何に注ぎ込むのか、ほとんど考えていないように思えます。国家が衰退か繁栄かの岐路に立たされているように思えてなりません。
「人間の可能性」(エネルギー)を引き出した世界最高の例として、「量子もつれ」を実証していただきました。人間は「エネルギー」を発することができることを実証していただきました。そしてこの世界に唯一無二の独創的実証を体験させて戴きました。
AIには絶対できないもの、それを考えなければ人間そのものが生き残れなくなります。そうした分野が必ず出てきますが、ここに絶対生き残れる人間存在を根底から守ってくれる「エネルギー開発」があることを実証して戴きました。
日本は「人間の可能性」を、ボノボの争うことがなく、協力し合う社会に習って、人類の共存共栄のために、一人一人が「調和エネルギーの開発」に真剣に取り組み、未来(子どもたち)の平和な暮らしを築いて行こうと、その役に立とうと心に誓いました。
懇親会の終わりに、楽しいなあ、と先生は仰いました。好きなことに徹し、道を究めた、存分に生きた、真剣に生きた、だから楽しいのですね。ゲラゲラしなくても先生といると本当に楽しいです。好きに徹する、道を楽しむ子どもたちを守っていきます。
ご指導ありがとうございました。
【ST 40代 埼玉】
今回も大変充実した時間を過ごさせていただき、ありがとうございました。
教師塾の後、数年前に卒業した生徒が訪ねてきてくれました。彼は、職場の人間関係が上手くいかず、現在休職中ですが、話をしている中で危機感を感じたことがありました。休職する前の半年近く、上司との関係がギクシャクし、毎週末に歌舞伎町へ行き、東横キッズと接していたと言います。「道」での先生と岩井さんの対談記事で東横キッズのことを知りましたが、卒業生とはいえ身近に関わりをもつ子がいたことに驚きました。グレーゾーンの子達がそういう場へ行くことは知っていましたが、知的障害のある子達も巻き込まれる可能性があることを知り、他人事ではないと感じました。その生徒はしばらく通っているうちに、オーバードーズや売春をする子達と間近に接するようになり、自分も薬を売ることを勧められたと言います。誘いに乗らず踏みとどまったのは、在学中に私から聞かされたことが頭をよぎったからとのことです。私が言ったこととは、先生から度々聞いていた「薬を使って行きつく場所は『刑務所、病院、棺桶』。」ということです。彼はその言葉を思い出し、怖くなって関わるのを止めたと言います。先生からそのことを聞いていなければ、彼に伝えることもなく、もしかしたらそっちの道へ行っていたかもしれません。間接的にではありますが、先生に守っていただきました。ありがとうございます。
彼は母子家庭で育ちましたが、母親との関係が希薄で身近に相談できる人があまりいません。私達教師には、学校にいる間だけではなく、一生涯に渡って寄り添う姿勢、守る姿勢が必要だと感じました。
「覚悟があるから技が使えるのではなく、技があるから覚悟ができる」ことを教師塾で実証していただきましたが、精神論ではなく、守れる技を身に付けられるよう努力していきます。
教師の役割は子ども達の「『人間性』を育てることだ」という先生の一言に目が覚める思いがしました。
受験指導であれば、学校の授業ではなく、塾や予備校に通う方が効率的だと言えます。また、スポーツ指導に関しても学校教員が部活で指導するよりも、専門家の外部指導員が指導する方が、上達への近道だと言えます。近年では、AIが目覚ましい進展を遂げ、知識を得る為であれば指導者は必要ないとさえ言える状況です。
私達教師は「何ができるのか」、「何をすべきなのか」。そんな迷いに対して、先生の一言でやるべき道がパッと開けたように感じます。
チンパンジーとボノボを例に説明してくださいましたが、奪い合うのではなく、分け与えるような「人間性」を育む指導ができるような教師になりたいと思いました。
ただ、ぼうっとしていてその役割が果たせるわけではありません。先生から繰り返しお伝えいただいたように「勉強」を重ねなければなりません。
勉強の内容については、先生が発した「不易流行」という言葉が心に突き刺さりました。不易というのは時代が変わっても揺るがない、普遍的な価値・本質・心です。先生が世界で最も優れていると言われた「江戸時代の武術哲学」が代表だと言えます。一方、流行というのは、次代ごとの価値観・方法・手段などを意味します。教師塾でもお話にあったAIの進化やロシア・ウクライナ問題、日中関係等に関する理解がこれにあたると考えます。
そうした多岐に渡る知見が、子どもを指導する私達には必要なことが、痛い程分かりました。自分は全く勉強が足りていません。
頭でっかちの勉強ではなく、身体を通した学び、実践と繋がる学びを深められるよう統一体を心掛けでやっていきたいと思います。
「進歩成長するとは変化すること、変化するとは深さを知ること、深さを知るとは謙虚になること」という先生のお言葉を旨に、日々勉強と実践を重ねていきます。
今回の教師塾では、自分の身体が硬く閉じていることを感じました。公立学校にいた時と気持ちの中では、変わらずやってきたつもりですが、附属学校の仕組みの中に長くいることで無意識のうちに傲慢になっていたのだと思います。それに気づかない程、自分は重症だったと思います。心を入れ替え、謙虚に、謙虚に、真心で子ども達と接していきたいと思います。
本当にありがとうございました。


コメント