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東京実践塾 感想文 2025年7月~ 2025年9月

  • jht900
  • 11月8日
  • 読了時間: 22分

■N.A  会社員 神奈川

宇城先生

 この度も実践塾でのご指導誠にありがとうございます。


 今回、実践塾の稽古を通して私達の消費の力と先生が示してくださる生産の力の違いをはっきりと具体的な形で御指導頂きました。消費の力は私達が常識としている筋力の力であり、生産の力は細胞の働きによるエネルギー。その違いは全く次元の違うものであり、私達が普段から使っている筋力の力がいかに消費でしかないことを身をもって痛感致しました。


 先生が筋力の消費の力と細胞の生産の力の違いを実証してくださり、筋肉の動きは消費でしかなく、そこには全くエネルギーがありません。先生が実証してくださる生産のエネルギーの違いを具体的に体感させて頂き、あらためて自分達がいかに普段の仕事も仕事をしていないかがよくわかりました。


 先生を大勢で掴みに行く際、気づけば全員が倒されてしまいます。そして倒されたら立てない。先生が物理的に手で私達を立てないように押さえ付けているわけでもなく、目に見えないエネルギーが働いており、先生は私達を投げた後、別の事をしていてもその間ずっとエネルギーは働いています。


 先生がそのエネルギーを切るまではどう足掻いても立てません。違う誰かが手を叩いて音を鳴らしてもエネルギーは切れることなく、エネルギーを与えた人でないとエネルギーを切ることができないことを教えて頂きました。


 エネルギーのあり方は手を離そうが、物理的な力を加えなくても常に働いてくれています。ですが私達の筋力を主体とする消費の力は常に何かをしていないとそこに力が働きません。頭の考えも必然的にそうなります。しかし私達の心臓や肝臓、身体の臓器は常に働いてくれている。私達が起きているとき、寝ているときも何をしている時も常に働いてくれています。身体に元々そのような機能が備わっているのにも関わらず私達は頭(知識)で筋力を主体とする消費の力を力の概念として捉えています。今までの教育で身体と頭を切り離して考え、そう信じ込まされてきたのだと思います。


 私達の筋力的な概念は働いていないときや寝ているときは休んでいる時だと頭で勝手にそう思い込み、切り替えてしまいます。先生は「それならたまには心臓も休ませてやれ」と冗談で話されているときがありますがいかに私達が知識偏重の頭だけで考え、身体と頭を切り離されているかを痛感しました。


本来、生産的な身体を持っているのに関わらず自分で筋力主体の消費のあり方に切り替え、それを土台に物事を捉えてしまっている私達。私達の消費の力は対立であり、一人を投げようと思っても思う様にはなりません。ましてや人数が増えれば尚更です。しかし先生は塾生全員で、人数は関係無しで何人に掴まれようが一瞬で全員を倒してしまいます。いくら人数を増やしても先生のエネルギーの前ではなす術がありません。だから私達は言われたことしかできない、その程度の能力しか使えていない家畜と同じだということです。


 人間にはとんでもない力が元々備わっているのにも関わらず、その人間が本来持つ能力を私達は全く使えていないことをあらためて痛感致しました。同時に意識で認識できる部分だけを物事のすべてとして捉え、謙虚さの無い自分自身がいかに横着であるかをあらためて痛感しました。先生はその事実を私達に気づかせてくださり、また実証してくださいます。


 9月の稽古でも手鏡のように自分の手の平をパッと見てから相手を投げると投げが掛かりました。その身体が一つになるような感覚で腕受けも行わなくてはいけないと感じました。


 私達の筋力を主体とする力でいくら腕受けを行ってもそれは消費の力であり、意味がありません。筋力を主体とする消費の力での腕受けは型からくる力を壊し統一体を崩してしまうのだと思います。消費の力である筋力を使わない、筋力から脱却していくよう稽古していかなくてはいけないと感じます。


 しかし常に空手だという全体を忘れてはならないこと。その検証を行なっている際、私は投げに固執してすぐに空手を忘れている自分がいました。そのあり方は単に「投げができた」で終わってしまっている、まさに榎本師範が仰る「満足」というエネルギーの枯渇へ向かいます。


 私達の日常もエネルギーがないからこそいつもと変わらない日常の過ごし方となるのだと思いました。朝起きて与えられた仕事をこなし家に帰り、ご飯とお風呂を済まして寝てまた仕事に行く。エネルギーがないからこそ発展や進化が起きず現状維持となります。現状維持は退歩です。


 だからこそ常に宇城空手という全体を忘れてはならないこと。そのことは自身が全くフィードバックが掛からないことを表しており、自分自身の学び方が全くできていないことを痛感致しました。満足という自分の横着さ。宇城空手を通して自分は何を学んでいるのか。本質的に自分自身が変わり謙虚になっていくほかありません。


 また10月の稽古ではiPadのペンシルで足の親指を押された際の全細胞が悲鳴を上げるような、強烈な衝撃を体験させて頂きました。足を前に出して座っている状態で、上から何人もの塾生が覆い被さるように自分を動けない状態にします。通常その状態では身動きが取れず、強引に動かそうとすると返って自分が危険な状態になることを感じました。


 その状態で先生から足の親指をiPadのペンシルで押されるとその衝撃で全細胞が爆発するような勢いで自分を掴んでいる全員を一気に跳ね除けることができました。


 意識の力では絶対不可能な状況下から桁違いなエネルギーで掴んでいる全員を簡単に弾き飛ばせるエネルギー。その後、一気に全身から汗が吹き出してくることを感じました。同時に疲れが一気に吹っ飛びました。


 iPadのペンシルのペン先は特に鋭利に尖っているわけではないのに悲鳴が上がるほど強烈でした。しかしその時の細胞のエネルギーで人生を歩んだら従来の生き方とは全く違うものになるのだとあらためて希望を頂きました。仕事や家庭がうまくいくといった次元のスケールではなくもっと大きな人生の生きる道を先生は照らし、導いてくださっていることをあらためて感じました。


 足の親指を押されたときの爆発的な細胞のエネルギーを体感したらいかに自分が本来持っている人間の力を全く使えていないことを思い知りました。それなのに私達はその小さな生き方しかできていないのに自分自身と向き合おうともせず、イキがろうとする私達の愚かさを痛感致します。消費の今の私達のあり方がいかに生き方を小さなものにしているか、自分自身がいかに横着であるかを改めて知りました。

 先生から生産のエネルギーを体感させていただくと筋力を主体とする消費の力になるのは私達が不安であり、怯えているからそうなるのだと思いました。分解組手でも相手の突きに対して私達は怯えているからつい力に頼ろうとします。それは自分の不安と怯え、自分の弱さでもあります。


 自分が弱いからこそ強さを見せようとする、自分が凄くないから凄さを見せようとするのと同じです。しかし先生はすべて分かった上でそんな私達を受け入れてくださいます。誰一人と見捨てずエネルギーを与えてくださいます。


 師匠という太陽は常に私達の人生を照らし、幸せの方向へと導いてくださいます。筋力を主体とする消費のあり方から細胞を主体とする生産のエネルギー的あり方に方向転換できるよう少しでも謙虚になり、自分自身と向き合い精進して参りたいと思います。


 この度も貴重なご指導を誠にありがとうございました。


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■K.S 自営業 沖縄


宇城先生、7月〜9月の貴重な御指導誠にありがとうございました。

 冒頭から「山谷ブルース」を聴かせていただき、高度経済成長期に人足寄場に集まる日雇い労働者の悲哀が伝わってきます。「人は山谷を悪く言う だけどおれ達いなくなりゃ ビルも ビルも道路も出来やしねぇ」というフレーズは労働者達のアイデンティティを感じさせます。「今日の仕事は辛かった」けど、自分はかけがえのない人間だと他者から認められたいという思いが明日への活力になっていると思います。


 しかし「誰も分かっちゃくれねぇか」とスティグマが芽生えればアイデンティティの危機が訪れます。また、最後のフレーズ「だけどおれ達ゃ泣かないぜ 働くおれ達の世の中が きっと きっと来るさそのうちに その日にゃ泣こうぜうれし泣き」は希望を見出しています。「工事終わればそれっきりお払い箱の」どん底で生きる日雇い労働者にも希望があればエネルギーが湧いてきます。


 一方で、どんなに大きな企業に就職できても、自分で考え工夫し創造することをせず、ただ与えられた仕事を従順にこなすだけでは希望もなく、奴隷、もっと言えば家畜と同じです。エネルギーがなければ奴隷や家畜と何ら変わりません。会社が傾いた時、真っ先にお払い箱になるのは目に見えています。


 稽古で、私たちは消費するだけの存在だと先生からご指摘がありました。エネルギーが枯渇し無から有を生む生産性がありません。他者から必要とされる人間にはエネルギーがあります。高い山を目指す向上心と実践する行動力です。昨今は働き方改革などという生ぬるい法改正があり、日本の衰退は誤った改革によりますます拍車がかかるのではないかと危惧しております。


 先生がホワイトボードに書かれた「進化」と「劣化」。「劣化」の先には「自滅」しかなく、エネルギーがないのでそこから這い上がるのは不可能でしょう。今が進化に方向転換する最後のチャンスだと思います。


 医療に目を向ければ、医学が発展し、昔は助からなかった病気も治せる時代になりました。しかし、政治が絡んだ医学ムラとでも呼ぶべき利権構造は依然として根深く「進化」からの「劣化」を辿っています。


 巷に溢れる「くすり」の多くは、病院や薬局にある、人間が作った西洋医学のカタカナの「クスリ」です。もう一つの「くすり」は漢字の「薬」です。上に草があって下に木があります。草というのはご飯、野菜、海藻類で、木というのは果物、木の実です。


 医者に依存せず「薬」を使って治すのが本来の形だと聞いたことがあります。下にある果物や木の実を少量、上にあるご飯や野菜、海藻をたっぷり摂って、体を楽にするのが「薬」だそうです。全体を見る「薬」に対して、部分で見る「クスリ」には必ず相反する作用があり、例えば別の病気を引き起こすような矛盾を孕んでいます。目先の利益ばかりを追うのではなく、全体を見る医学に変化していくことが「進展」だと思います。


 フルコンタクト空手しか知らない人は殴り合いや瓦割りを空手だと信じ込んでいます。まさに「洞窟の比喩」です。生まれてからずっと縛られて動けないまま洞窟に住んでいる人々は、背後で燃える炎の影が目の前の壁に映し出され、影を実体・真実だと思い込んでいます。洞窟の外に解放された人は、太陽の光を浴び真実の世界を知りますが、洞窟の仲間たちにその真実を伝えても影こそが真実だと信じているため誰も信じません。


 かつてフルコンに熱中した私はまさに洞窟の住人でした。否、途中でおぼろげながらにもっと高次元の世界があるのかもしれないと勘づきながらも、自分が長年信じた世界を否定したくないと思う小さな小さな器の自分がいました。


 そんな時期に宇城先生という太陽の光を浴びて、「自滅」に向かう前に真実の世界を体験させていただいたことが私にとっての救いでした。出来ないけれど希望を持たせていただき、限りなく高い山の頂上を見せていただいています。ぶれずに頂上に向かえることは「進化」です。


 班分け稽古で型や分解組手をして、出来ないのは「進化」の途中の「劣化」ですが、希望がある以上エネルギーは降り注ぐと信じています。班分け稽古では、黒帯を取る前に出来ていなければいけないことが出来ておらず、今まで何をしていたのかと情けない気持ちになりました。まずは正しい型をマスターしなければなりません。すなわち質を高めていく必要があります。


 時間や労力をかけて不良品ばかりたくさん製造しても意味がなく、高品質の商品だからこそ量を作ることができます。同様に、間違った型をたくさんやったところで量から質への転化はあり得ません。これからはもっと質を高めていく稽古をしなければいけないと思いました。


腕受けは手鏡を見るようにパッと手を返すだけだと先生から教えていただきました。腕受け投げが出来ないのは腕受けが出来ていないからで、腕受けが出来ないのは手鏡が出来ていないからと、一つ前の段階に戻り自分がどの段階で出来なくなっているのか確認が出来ました。


 出来る時は自然に事理一致が出来ています。3%の力しか出せていないのは、「自分さえ」が優先し、それが電波のように無意識に相手に伝わっているので、仕事でも何でも事理一致が出来ていないことになります。


 初めて営業の仕事をした時、最初の月はビギナーズラックで自分でも驚くほど契約がとれました。翌月には最初の月の半分しかとれず、翌々月はさらに半分、そしてついにゼロになりました。上司からは「営業トークは技術だ」と叩き込まれ、当時は話術に問題があるのかと話の順番を変えてみたり表現を変えたりしていましたが、一番の問題は技術ではなかったと今ならわかります。


 最初の月はとにかく無我夢中で欲もなく必死で、相手の悩みと真剣に向かい合っていました。営業成績はその結果でしかなかったのに、思いの外成績が良かったため、今度は成績を意識しだしていつしか真剣に悩むふりに変わった、3%の器の卑しさだと思います。


 「自分さえ」は相手のみならず自分をも不幸にし、消費の連鎖を加速させてしまいます。さらに、たちが悪いことに3%の対立の世界にいる人間は「相手が悪い」「会社が悪い」と、悪い結果を他人のせいにします。そこに気づいたのなら変わらなければいけません。宇城空手は一切の言い訳が通用しない、100%自分と向き合える世界です。


 自分ではわからない微妙な動きを修正していただき、先輩方にも感謝いたします。型がぴたっとはまれば、相手を無力化するほどのエネルギーが出てきます。宇城空手には自力でエネルギーを生み出すプロセスがあり、まだまだ出来ないのですが白帯の頃より稽古が楽しくなってきたと最近感じるようになりました。


 フルコンを続けていたら間違いなく「自滅」していた自分が、宇城空手に出会い確実に「進化」へ向かっていけるのは私の幸いです。そこに気づかせていただいた宇城先生をはじめ、師範、幹部の諸先輩方には感謝しかありません。


 稽古も言われたことだけを愚直に守り修正する以外に、考えて創意工夫し、何故この形なのか一つ一つ掘り下げる作業が重要だと思います。それが私たち一般の塾生と幹部の先輩方の稽古への取り組み方の違いだと思いました。


 先生、今回も唯一無二の御指導をありがとうございました。

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■K.U 会社員 福島


宇城先生、いつもご指導のほど誠にありがとうございます。

 「なぜ、我々は進展しながら自滅に向かうのか」という教えであり、問いを与えていただいたことを感謝いたします。先生のホワイトボードを使用してのご指導と、これまで稽古の中で見せていただいてきた子供達が自然な動きの中で大人達のスクラムを崩す姿と、スクラムを崩そうとして崩せない大人の姿がとても分かりやすく結びついてきました。


 頭や意識、その元にある欲ということが人間の可能性やエネルギーをどれだけ奪っているのかと思いました。子供達の姿が希望であり未来であると素直に思えます。そして改めて未来があることが、今という時間での希望になるということを思いました。


 宇城先生から気を頂いた時に何かをする前に感じる「できる」という気持ち、それこそが希望であり未来なのだということにも繋がりました。子供達の姿から感じる知識や力ではない、人間としての根本的な物。心でありエネルギーであり、先生がお話しくださる人間性ということかと思いますが、人が生まれ持ってきた根本をベースに空手を学び、生き、人と接しなければならないと思いました。


 子供達のような動きはできないにしても、子供達が発する自然体で作らない、しなやかな動きを学び、日常にもフィードバックしていきたいと思います。


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■T.K 自営業 神奈川


前略・・・

古来より「心」を説く言葉は沢山ありますが、この僅かな時間で出来る検証に全てが詰まっていると思います。高次元なことを瞬時に思い付く先生に感嘆するとともに宇城空手の技の出発点を観た思いでもありました。


 人間と身近に共生している動物に、イヌ、ネコ、ブタ、ウシがいますが、共通しているのは家畜化遺伝子が発現されたことです。オオカミからイヌになる過程で、人間を獲物とするよりもすり寄ることの方が身の危険を晒すことなく食料を得ることが出来ることを長い年月の観察の中で身に付け家畜化遺伝子が発現されたと言います。また、ブタやウシに対しては恐怖を植え付け、支配されることで食料を得ることが出来る。そこで家畜化遺伝子が発現されたとなっております。


 家畜化遺伝子は哺乳類に存在しており、人間も哺乳類です。飼いならされる、恐怖を植え付けられる、人間の社会にもあふれていることです。また今後は食糧難にもなって参ります。


 そして、「AI」による様々なことに対する効率化が進んで行きます。 効率よくその時だけを好きなように生きるのであれば、善人より悪人の方が生きやすく、物資を素早く得るには良いことよりも悪いことの方が手中に収めやすくなります。しかし、そこに細胞の活性化がないことは先生の検証を経験していれば身体で解ることです。教育の大切さということになるのでしょうが、現代はカリキュラムで作り上げられた共通の過程を皆が順で進むことを強いています。知識は膨大に得ることは出来ても実体験とはかけ離れたものとなり社会では使えないということに陥りやすくもあります。


 一方、自然界では実体験という経験則の積み上げにて身体での学びが先となっています。人間であれば膨大な体験の集積を知識とし、伝え残すことを可能としています。前者とは間反対であり、どちらが生きていく上で必要な教育なのかは明白です。


 しかも私達は、実体験において常識を超えた「出来る」を身体で学べているという、今までにない本来の教育を受けられております。


 先生が仰る、『日本の財産と、人間の資質は「人間性」と「人間力」である』今後の時代においてその大切さは増すばかりであり、宇城空手には、それに対する明確過ぎるメソッドと答えがあります。唯一無二であることを学べているという自覚を忘れることなく精進したく思っております。


 宇城先生、今後もご指導ご鞭撻の程よろしくお願い申し上げます。

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■C.N 自営業 千葉


 この度も実践塾での稽古をいただき誠にありがとうございます。


 帰納法、演繹法、宇城式実証法の話を先生からいただきました。帰納法は複数の事実、事例から共通点から結論を導き出す.演繹法一定のルールや法則から結論を導くもの。


 家に帰ってからあらためて調べてみると、先生のおっしゃる通り世の中はほとんどこれが使われていますし、自分のやっている事も演繹法に当てはまると感じました。その場合は、そこの問題点としてはその法則に当てはまらないものに関しては、エラーとして扱い、そこのなぜ?を深掘りしていかない、もしくはあえてそのデータは無いものとしてしまう、要するに都合良い事実につくりあげてしまう事が往々にしておこなわれているとおもいます。


 先生がされている実証法は、まず紛れもない事実が先にあり、そこに様々な事を加味して仮説を立てる、という先に実証ありきです。まさに身体が先であるということを、このような形でも示されています。


 思い起こしてみると、子供の頃の拙い経験でありますが、自転車や鉄棒などでも全てできた時にできた、出来たら簡単、実際バク転なども、部活に入った初日に見たままやってみたら出来た経験があり、この時はまさに、できる気がしていました。しかし、この後失敗して怖い、と思ってしまってからは上手く出来なくなったことがあり、頭で先に恐怖を感じていたのだと思い出します。


 そのような体感が自分達にもあったことを思いだしたのと同時に、ではなぜ今出来ないのか、これが大人になるまでに壊してしまったものだと思います。


 常に常に実証先にありのため、毎回の稽古の際の実践も、他のどこでも見たことも聞いたこともない検証ばかりです。過去にやったことのある検証であってもその深さや角度の違いによって、また新たな示唆をいただきますし、そもそも自分達が何もわかっていなかったことを徹底的に気づかせていただきます。


 このような現場で常に最先端が生み出されるような場に居合わせることも、通常ではあり得ない事です。毎回毎回の自分達の真剣さが問われますが、まだまだ真剣が身についていないことを思い知り、変化していきたいと思います。


 8月実践塾では、発展しながら何故自滅にむかうのか、中心という事をテーマに稽古をいただきました。この日の稽古を通して、いかに自分が自己中心的なのかを徹底して、気づかせていただいたような気がします。


 要素還元主義的な全体をバラバラにしていく事で答えに繋がる、何かがわかるようになるという世界も最初は純粋な探求だったのかもしれません。しかし、いつしかそれは作り出したストーリーを都合よく組み立てるのに利用されるようになったようにも思います。


 まず理屈が先行する、言い換えれば理屈無しで得られる実力が無いからこそです。先生の実証法という実践先にありという世界、先生の若い頃のビジネスの話でもまさに、先に実践が常であり、現在の先生の存在にしても、まさに実践という疑いようのない世界です。


 それがどれだけの人に希望というエネルギーを与えてくれるのか、私達1人1人が身に染みて味わっております。それでも、今までの教育や環境の中で植え付けられてきた常識という病気は根深く自分に巣食っています。そこからの脱却には、脳からの知識ではなく、身体からの知識、知恵、身体知が絶対に必要でありその気づきの際に頭が強烈な邪魔をします。


 検証や講義の中で先生の目の前の座らせていただく機会がありましたが、言葉にするには難しいのですが厳しくも優しく全てが包まれるような、大自然に抱かれるような安心感と畏怖というのでしょうか、昔は自分で過度な緊張を作っていたのだと気づきました。そして何がその緊張をつくっていたのかもわかったように思います。


 先生の前で緊張をするのは仕方のない事だとも思いますが、過度な緊張は自分が閉じている証拠、何故閉じるのかは、自分を偽るため、良く見せたい、良くみられたいという、非常に低次元な理由が必ずあるという事です。


 稽古の中で椅子を持った列に対して、先生も椅子を持ちわかりやすく中心を合わせるという事を実践して見せてくれました。側から見れば、本当に正面に立つだけです。しかし、実際は全く違うものでした。あんなにもしっかりと向き合うというのは、本当に言葉では無理です。向き合う、あわせる、何も伝えられませんが本当に全く違いました。


 師匠が太陽のような存在であるという事をより深く実感するとともに、自分がいかに違うものを使って誤魔化しをしてきたのか、突きつけられたようでした。


 分解組手でも、中心をとれていない、ずれる、結果ぶつかる、全く出来ない、それが空手だけで起きてるわけじゃないと。息子が人見知りや最初目を合わせないなど、これは自分が映ってるわけじゃないと本気で思っていました。なぜなら自分はそういうところは割と出来ていると思ってきました。他の事も上手く行ってないわけではない、そう思っていました。


 でも、先生の検証、まだまだとは思いますがさらけ出すという中で、突然見えてきた一日でした。良く考えれば、日常の中で少しずらして向き合わないようにしている自分、そこに気づかないように言い訳や理由をつけていた自分、それが子供に出ている。いや、家族に出ている。本当にズレたまま正面を向いていると勘違いさせてきたのだと思います。


 そのうえきっと受け入れるのが怖かったんだと思います。一生気づくことのなかった気づきです。宇城空手での身体からの気づきでしかありえません。頭や知識からの気づきと思えるものは、結果真実を隠していくための自己都合と感じです。身体からの気づきは誤魔化す事はできません。


 現在3段をいただいています。本当に焦りもあります。段だけがあがっていくだからこそ少しでも変わりたい、どうにかしたい。元々絶対に続けますが、一生出来なくても絶対に絶対に続けていきます。3段でも全然出来ない、恥をかいてもやります。先生が仰る通り自分の事ではなく、子供達の未来のために、絶対諦めません。あり得ないご指導を本当にありがとうございます。


 全体を見る、マクロからミクロを見る、これもまた本当に頭の理解だったんだと何度も何度も気づかされますが、なかなか結果を出せていけない事を悔しく思います。奴隷化、家畜化、人間性を失う方向に加速していることがよくわかります。


 よく先生がオレオレ詐欺の表現をされますが、実際に現在は稼ぐ力をつけるというよりも、儲ける事ばかりに偏っていると思います。しかも、根源が誰かのためではなく、楽にお金を得る為にどうすれば良いのか、というような発想から始まっているものが多く、お金を増やせたら中身に実がなくても良い、というように感じます。


 そしてそれを成り立たせるために多用されるのが言葉です。本当に言葉巧みにと言いますが、実力以上のものに見せるために表現や言葉を使っています。言葉遊びや過大表現、これでは詐欺じゃないかというものまであり、本当にオレオレ詐欺そのものであると思います。


 元々は正しく価値を伝えるためだったものも、現在はどのように気を惹きつけるか、その為なら嘘をついても構わないというような事も多々あり、言葉は嘘をつく為にあるというのも本当にその通りと思う状況です。


 技術の進歩も人間性がなくなっていけば、単に手を抜くための道具に成り下がり、結果として様々なトラブルや事故などに繋がっていくのは明らかです。そんな中で、知識や言葉でなく、この困難な時代を生き抜く為には宇城空手しかありません。


 型や分解などの稽古を通して、「自分」というものがいかに揺らいでしまうのか、その逆しっかりと「自分」を持つことが出来たらどれだけのエネルギーが出てくるのか。その底なしの次元の高さに驚愕することが多くなりました。


 そしてその度に「どうして、どのような事から先生はこんなことに気づかれたのだろう」と神秘としか思えません。まさに自分には全く、一生知り得ることすらなかった世界に導いていただいているという事だと実感します。


 何かができなくとも、稽古の実践の中で先生に投げられた人のエネルギーが次の人に伝播し延々繋がっていくように、列の先頭の最初に投げられる人のように先生に最初に投げられた状態を日常生活でも維持していくだけでもエネルギーは繋がっていくと思います。


 同時に自分を諦めずに宇城空手を精進をしていきたいと思います。

 今後ともご指導をよろしくお願いいたします。

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