第10回淡路黒帯合同合宿レポート
- anaoto
- 4 日前
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更新日:14 分前
8月23日(土)- 24日(日)にかけて、淡路創心館本部道場において第10回淡路黒帯合同合宿が行われた。東京、大阪を中心に26名の塾生が集い、宇城館長の指導を受けた。
稽古は榎本師範の指導するグループ、拓治師範が指導するグループの二つに分けて行われた。初日は三本移動の基礎から始まり、セイサン、クーサンクー、パッサイの順序で型稽古とそれぞれ代表的な技を取り出して分解で検証するという流れ。
特徴的だったのは高校生の参加者に対して、宇城館長が「内面でそれぞれ五つの型をやってみなさい」と指導したこと。高校生に触れている他の塾生は高校生のエネルギー変化が瞬時に伝わり、崩されたり、動かされたりした。この稽古はそれぞれのグループで大人の塾生同士でも行われたが、日頃の型の精度がそのまま反映され、どういう時にでき、どういう時にできないのか、それぞれの課題が明らかになった。型の他にも基本の天の型の動きに対し、「基本はどこまでも深められ、これで良いということはない」、と指導し、塾生の気持ちを引き締めた。

2日目の稽古は初日の復習に詳細な呼吸の指導が加わり、技一つ一つの所作、そして己の中心に向ける矢印の精度をより緻密にする稽古となった。頭で考えるのは論外であるが、身体も長年にわたって染み付いた頑固なクセがあり、いかに些細な思いや動きが全ての流れを台無しにしてしまうか塾生が実感する機会が続いた。エネルギーを生み出す空手になっていれば、触れても触れていなくても、相手に技は作用する。エネルギーを消費する空手では衝突の世界から抜け出せない。様々な検証を通じて、宇城館長は塾生に気づきを与え、次のステップに進めるよう指導した。

淡路創心館本部道場という空気感が全く異なる特別な場での2日間の指導を通じて、宇城館長は無意識、潜在意識への働きかけと繋がることの重要性を説くと共に、エネルギーを生み出す生産の空手への移行方法について指導した。参加した塾生の一人一人が、周りの人間にとってエネルギーのオアシスとなり、未来への希望となれるよう決意を新たにした合宿となった。

感想文
■NM
宇城先生。
この度も大変素晴らしい淡路黒帯合宿に参加させていただき誠にありがとうございました。
淡路本部道場という最高の稽古の場で、宇城先生、奥様、榎本師範、拓治師範、 創太さん、塾生の皆様と寝食を共にさせていただいたこの度の稽古合宿は、今振り返ってみても余りにも深く、余りにも多くの気づきをいただいた二日間でした。 「知らざるを知らずと為せ、是知るなり」という孔子の言葉にあるように、私が二日間の間にいただいた気づきの多くは、如何に自分が何も分かっていないのかを思い知る体験ばかりでした。
稽古合宿で得させていただいた気付きの一つ一つを改めて思い出すと、宇城先生の仰ったお言葉や検証の意味を半分も理解していないのではないか、いや、一 万分の一も理解していないのではないか、と考えてしまいます。
数多くの気づきを思い返す中で、真っ先に頭に浮かび上がってきたのが「宇城空手の次元の高さ」と「自分の甘さ」でした。稽古合宿で体験させていただいた検証や分解組手は、普段の実践塾においても稽古させていただいている内容が多くありましたが、全ての検証と分解組手が、初めて体験したかのように新鮮で、 これまでと全く違う稽古をさせていただいているような感覚になりました。
分解組手においては吉武さんと組ませていただきましたが、お互いに衝突の組手を繰り返すばかりで、全く技をかけることができませんでした。その中で、パ ッサイの回し取り投げの組手の際に、宇城先生が私たちのところへ来てくださり、 技をかけていただきました。
宇城先生が回し取りをされ、右手をほんの僅かに動かされた瞬間、私の腰は砕けてしまいました。宇城先生から技をかけていただいた後、それまで私たちがしていた組手を振り返ると、余りの次元の違いに、回し取り投げという外見は同じでも、全く別の稽古をしていたように思いました。
私たちの投げは、相手の正面へ物理的な接触により相手を倒そうとしていまし たが、宇城先生から技をかけていただくと、腰を中心に自分の身体全体が後方に引き落とされるように倒れました。
私たちは、姿勢や手足、目の動かし方をお互いに指摘し合いながら、衝突しないように心掛けていましたが、実際には衝突の組手をしていました。宇城先生がされた、後ろから目に見えない力で倒れてしまう技の次元から見ると、未だに衝突の稽古を繰り返している自分の組手のレベルが如何に低いのかを痛感いたしま した。
宇城先生は、私に技をかけるだけでなく、吉武さんの投げに手を添えて技を誘導されました。吉武さんも、私同様、あまりの技の次元の違いに大変驚かれておりました。それから、吉武さんが私に回し取り投げをされると、宇城先生の気が残っていたのか、淡路本部道場という特別な空間によるものなのかは分かりませんでしたが、急に技がかかるようになりました。
宇城先生に技をかけていただき、さらにその後も吉武さんに何度も投げていただいたことにより、あの時の後ろから引かれる様な感覚が今も自分の中に残っています。
合宿後の自主稽古では、あの時体験させていただいた感覚を思い出しながら型をするように稽古をしていますが、稽古をする度に、自分の姿勢や、手、足、目の動かし方が、宇城先生とはまるで違うことを日々痛感しております。
宇城先生がされた、後ろから目に見えない力が来る技や現象を、一列に並んだ人を前から引っ張る検証の際にも感じさせていただきました。検証では、引っ張る人がクーサンクーの型を内面ですることにより雰囲気が変わり、急に引っ張ることができるという貴重な体験を塾生全員でさせていただきました。
しかし、私たちの引き方は、相手の道着を手で握っており、宇城先生のご指導により列を引っ張ることができても、力が抜け切れていないことを感じました。 それを見た宇城先生が、先頭の人の襟に指を軽く触れ、空気全体を動かされると、 最後尾の人が最初に動かされました。最後尾の人が最初に動かされた光景を見たとき、宇城先生の回し取り投げを体験させていただいた感覚をすぐに思い出しました。
内面で型をすることで雰囲気が変わり人を動かせることや、内面でする型の種類によって変化するものと、しないものがあるという学びだけでも、今の現代武道やスポーツからすれば考えられないほどレベルの高い学びであり、宇城先生の技は、さらにその何段階もの上を行く高い次元の技なのだと感服させていただきました。
合宿では、「宇城空手の次元の高さ」の一端に触れさせていただくのと同時に、 自分の空手、仕事、実生活に対する姿勢が如何に甘いのかをあらゆる瞬間で感じさせていただきました。
一日目の分解組手では、私は突きをした時に親指を痛めてしまい、今も痛みが続いている状態となっております。このような情けない状態になるのも、自分の組手が甘く、衝突の組手から脱却できないことが原因なのだと今も痛感しており ます。相手がメリケンサックであれば私の指は骨折し、相手が刃物であれば指や手首を切られて死んでいたのだと思います。
その後のセイサンの両手はずしの検証では、宇城先生より、私が如何に危険な締め方をしているのかをご指摘いただき、「腰の骨を折るのなんて簡単」との厳しいお言葉をいただきました。プロの格闘家や、チャンピオンクラスの選手達と数多く実践、実戦をされてきた宇城先生の目から見れば、私の組手が如何に危険で甘いのかを、厳しくご指導していただいたのだと思いました。
宇城先生が常々仰る「真剣」の意味を、今もなお全く分かっておらず、本当の真剣勝負であれば、私のような甘い組手をしている者は、良くて骨折か半身不随、 通常なら死んでいるのだと思い知りました。
宇城先生よりいただいたお叱りは、組手だけではなく、周りが見えていないことや、仕事に関することについてもご指摘をいただきました。合宿の二日間にお いて宇城先生より聞かせていただいた様ざまなお話は、自分がお叱りを受けた意味を深く考えさせていただく貴重な学びとなりました。
宇城先生がお話しされた「学生時代の豪快かつ豪胆なお話」「座波先生、川崎先生との厳しい修行時代のお話」「経営者、技術者として桁違いの仕事量をこな し、武術の真剣さ、先を取る速さで常にトップを走ってこられたお話」など、お話を聞かせていただく度に、自分の甘さを身に染みて感じました。
宇城先生は、武術修行を登山に例えたお話をされることがありますが、そのお話を聞かせていただく度に、自分はまだまだ一合目、二合目あたりを上っている段階だと感じていましたが、この度の稽古合宿に参加させていただき、自分は登山口にさえ立てていないのではないかと、つくづく自分の甘さを感じました。
葉隠聞書に、「年三十も越したる者は、教訓する人もなし。されば教訓の道ふさがりて、我儘なる故、一生非を重ね、愚を増して、廃るなり。道を知れる人には、何とぞ馴れ近づきて教訓を受くべき事なり」という一節がありますが、厳しい言葉をかけてくださる師の存在がどれだけ有難いことなのかを深く感じました。
「30歳を過ぎると忠告や指導をしてくれる人がいなくなる」と書かれた葉隠聞書は、江戸時代中期の書物ですが、今の平和ボケした時代においては、忠告を受ける人の年齢以前に、道を知る「本物の師」に出会うことさえ大変難しい時代 だと思います。そのような時代において、本物の師である宇城先生より、今もなおご指導をしていただけることは、この上なく幸運なことだと改めて深く感じま す。
昨今の世界情勢を見ると、未だ戦争や紛争が絶えない中、各国の軍事開発や核兵器配備が止まる兆しは全く無く、この先、AGI、ASIなどを含む新しい科学技術などが開発されても、人類の破滅の道は止まらないように感じています。
そのような混沌とした世界情勢の中、今の日本は、諸外国の草刈り場と成り果 てており、かつてないほど厳しい局面を迎えているのにもかかわらず、日本人はかつてないほど愚民化し、私を含め甘い考えで生きている人ばかりのように感じ ます。
このような、いつ世界が崩壊してもおかしくない状況のなかで、世の中を調和、 融合の次元にまで引き上げることができる方法は、政治や科学技術ではなく、宇城先生の仰る「人間性」「人間力」を多くの人間が取り戻すことしかないと強く感じております。
先日、「葉隠聞書」に関する本を読み、「武士道」について調べる機会があっ たのですが、色々と調べていく中で、フランスの「アンドレ・マルロー」の話に目が留まりました。
1958年、日本文化に造詣の深いマルローが初めて昭和天皇に会見した際、 マルローがフランスの騎士道と日本の武士道に関する発言をすると、昭和天皇は 「あなたは、日本に来られてから、武士道のことを考えさせるようなものをひと つでも見たことがありますか?たったひとつでも?」と答えられたそうです。 昭和天皇とマルローとの会見は、1958年を含め四回あり、昭和天皇のご発言 を深く受け止めたマルローは、その後も日本文化に対する造詣をますます深めて いきました。
そして、晩年を迎えたマルローは、「21世紀は霊性文明になるだろう。もし、 霊性文明の時代に入れなければ人類は滅びる」と予言し、さらに、「霊性文明を引っ張れるのは日本だけ」と述べたそうです。昭和天皇のご発言は、戦後急速に失われていった日本人の「人間性」と「人間力」を憂いているお言葉であったように感じました。また、マルローの言った霊性の意味も、武士道に代表される、 かつての日本人などが持っていた「人間性」と「人間力」であるように思います。
「霊性」を英訳すると「スピリチュアリティ」となりますが、厳しい大戦時代を生き抜いたマルローの言う「霊性」は、今の平和ボケしたスピリチュアルなどではなく、厳しい時代の中で培われてきた武士道や騎士道の中にある、目に見えないエネルギーや実践哲学のことだと思いました。
先日お送りいただきました小川三夫棟梁との対談にあった「武術の技は一度途絶えたらそこで終わり」「いくら資料、写真、映像などが残っていても全く意味がない」という宇城先生のお言葉のとおり、武術は身体で覚え学び、師の技を映していくことでしか伝承されないことを深く感じます。
葉隠聞書を始め、日本の武士道を伝える資料はたくさんありますが、実践に裏 打ちされた本物の武士道が今もなお残っている武術は、私の知る限り「宇城空手」 しかありません。マルローの「霊性文明の時代に入れなければ人類は滅びる」という言葉を見たとき、「宇城空手が後世に伝承されなければ人類は滅びる」と言 われているように感じました。
榎本師範、拓治師範、海外の塾生の方々、創太さんを始めとする子供達は、宇城先生と両師範のご指導により目覚しい成長をされておられます。
これから益々厳しい時代を迎えていく世界の中で、自分の甘さを克服し、一歩でも宇城空手の真髄に近づけるよう引き続き稽古を重ねていきたいと思います。
■GY
宇城先生
この度は淡路黒帯合宿に参加をさせて頂き、誠にありがとうございました。
淡路道場のエネルギー溢れる空間で、先生や師範方から少人数で稽古をつけて頂き、終わってみればあっという間の時間でしたが、非常に実りのある合宿とな りました。
今回の合宿での一番の収穫はニュートラル化とゼロ化の感覚が少し見えてきたことです。これまでも稽古の中で何度も先生に教えて頂いておりましたが、掴みどころのない感覚でした。これまでも何にも考えない、脱力する、仙骨を入れてまっすぐに立つなどいろいろと試しても全くうまくいかない感覚でした。
今回の合宿で、並んだ相手を押す時に、相手を押そうとするのではなく、内面で型をやった後に相手を押すと押せるというのを体験出来たのは非常に貴重な経験でした。
『宇城空手の真髄と継承(二)』の中で、榎本師範が「最近はゼロ化をする時 にサンチンをやるしか思いつかない」と述べておられましたが、それは榎本師範のレベルだから出来ると思っておりました。しかし、今回の合宿にて先生が創太君にそのやり方を教え、その変化を目の当たりにすることでの学びは貴重でした。 また、型を行うでもどの部分でニュートラル化が起こるのか、型によってやりや すさの違いがあるなど、改めて型の奥深さを知ることが出来ました。
グループに分かれての分解組手においても、内面で型をやることにおいて相手をゼロ化し、技を掛け投げることが出来ました。ただこれは自分の実力というよ りも、淡路道場で宇城先生もいらっしゃるという非常にエネルギー溢れる空間だ ったのも大きいと思います。それでも、ここで得た感覚やポイントを日々の型の 稽古に取り入れていくことで、型の稽古に対する意識や感覚も変わったのを感じております。
今回の合宿を通して、改めて型の奥深さを知り、空手が面白いと思えるように なりました。そしてなによりも、宇城空手を通して、自分自身のエネルギーを高めていくことが出来、それを日常に活かしていくことが大切と思いました。このような空手を学ばせて頂いていることに、心より感謝致します。
今後ともご指導の程、よろしくお願い致します。
■HM
宇城先生、淡路本部道場でのご指導ありがとうございました。
淡路本部道場は、通常の体育館での稽古と空間がまるで違い、身が引き締まる思いでした。そして、宇城先生が道場に入られると、さらに道場の空気が変わり ました。
稽古では、三本移動において、前後の足幅、左右の足幅が、身についていないことを自覚しました。さらに宇城先生が、動画を撮られて指導された時、受けをしていた自分自身の未熟さにも気づかされました。移動の時に腰と姿勢が崩れて いました。客観的に自分を見ることの大切さを実感しました。
分解では主に、パッサイの型の回し取り投げとそのポイントをご指導いただきました。いつもの体育館の稽古では、技が掛かったことはないのですが、淡路道場では、普段と違う感覚がありました。技が掛からなくなると意識が強く出てしまいましたが、宇城先生のご指導を身体に染み込ませるよう努めました。分解組手を通して、型の未熟さを実感しました。意識から無意識への入口である型を繰り返し稽古して参ります。
多人数の列を最初は型をして、次は内面で型をして引くという稽古は、出来た時と出来ない時の違いと自分自身の未熟さを実感しました。クーサンクーの型において、最初自分は腕受けまでしかしなかったところ、宇城先生より「逆突きまでしなければいけない」とご注意いただきました。それは、逆突きまですることに意味があるのだと感じ、反省しました。稽古に対する姿勢として、到底自分の浅はかさでは、宇城先生の空手を頭で理解できることはありません。師を映すしかありませんが、映す姿勢の至らなさを実感しました。そして師の言われたことを、師の言われたとおり繰り返すことの大切さを認識しました。
クーサンクーの型をして、次に内面で型をした場合は、多人数の列を引くとき、 力や引っ掛かりをあまり感じませんでしたが、天の型をした時は、列は全く動かず、力の衝突しか感じませんでした。呼吸による場合においても、サンチンをしましたが、力による衝突が生じてしまいました。どこかに間違いがあるはずですので、自分自身をよく振り返り、検証して参ります。
淡路道場では、エネルギー創出法として、型と呼吸をご指導いただきました。 そして、できる自分とできない自分をより明確に自覚しました。そこには、淡路本部道場の特別な空間と宇城先生の存在の影響が大きいです。宇城先生は、エネルギーがなくなると不安と怯えに繋がることも指摘されました。
確かに自分自身もその通りであると感じております。小さなことではあります が、合宿の後、仕事においてお客様のクレーム対応が発生しました。最初は、苦手なタイプであったため、少し気が引けましたが、内面で型をしてから対応すると落ち着いて対応できました。
淡路本部道場では、二日間に渡り、大切なご指導を頂けたことに感謝しております。できない自分とその課題も多々認識しましたが、合宿での稽古を都度振り返り、身体に刻んで参ります。今後ともご指導、よろしくお願いいたします。
■NS
この度も、創心館淡路本部道場合宿という、大変貴重な場に参加させていただ きまして、誠にありがとうございました。並びに、奥様のお心遣い、榎本師範、 拓治師範のご指導、ありがとうございました。
エネルギーの創出について、三本移動から始まり、型、分解、そして2日目は 総まとめとして進んでいきました。今、世の中の全てがエネルギーの消費しかされていない事、そして例に漏れず私達も消費するだけになっており、創出をしていないという事。車もガソリンがなくては動かない、コンピューターは電気がなければ動かない、ではなぜ、人間は内臓も筋肉も、全て人間として動く事ができるのか。
先生が何度も言われていたのですが、この合宿に来てはっとしました。何とも言えない感覚なのですが、頭の理解との違いというのが体感としてはあります。部品を集めても人間は一つになる事はない、機械はパーツの組み合わせであるのに対して、人間は一つの細胞から始まり細胞分裂をして36兆個の細胞になる。
今まではその神秘を知識でしか捉えられておらず、凄いな、先生の仰る通りだなと思ってはいましたが、どこか自分ごととして捉えられていないのを感じていました。あまりにも膨大でとてつもない神秘に対して、自分の世界では知識、情報でしか受け止められていなかったんだとよくわかりました。
道場に入り、稽古が進んでいく中で、自分の中に何か違った経路からの理解に なっていく感覚を覚えていました。これも、淡路道場という神聖な場所における先生のご指導の実感なのかと思います。
淡路道場において、宇城先生、榎本師範、拓治師範、創太さんの姿を見せていただける事は、時代や背景が違っても継承されていくこと、まさに時間、細胞などが立体的に浮かび上がり、希望となって自分達に繋いでくれているように感じます。そして3世代に渡りという実証であり、命を賭けてという事の実践でもあると思います。
創太さんが「ここは身内だから」と言われたエピソードがありましたが、先生がここはファミリーだからと仰る事がそのまま映されていて、一分一秒と無駄にできない全てが学びの場である、この有り得ない環境に感謝しかありません。
私は榎本師範の班でご指導をいただきましたが、師範の目、眼差しがとても印 象に残りました。それはまさに先生の眼差しそのもののように思えました。ただ 強いでも厳しいでもなく、シャープで貫通するような洗練された眼差しに、どうしたら、どんな日常を送っていくとこんな眼差しになるのだろうと思うと同時に、 空手における戦闘モードについての理解が変わりました。
戦闘モードというのはその名の通り戦うために切り替えるものと思っていまし た。しかしそれは平和ボケが作ったものであると気づきました。本来戦闘モードというのは生きるエネルギーなのではないかと思いました。
自然界において試合などの概念はありません。小さな生き物に至るまで、身の危険を感じ守る、生きるために戦わなければならないときの迫力は、生きるエネルギーによる結果であると思います。小さな蟻や蜂、猫や犬においてもその時に発するエネルギーには、圧倒されるものがあります。
スポーツなどで自分を鼓舞するために奇声を上げたりするのは、まさしくエネ ルギーのない証拠であり、筋トレなどにおいても同義であると。より理解しdました。生きるとは真剣であることが前提である筈なのに、それがわからなくされてしまっているということは、命や尊厳といったものがバーチャルになり、リアリ ティーのないものになっていく、人間の劣化であると思います。
作ったものではない真剣な目になるということは、生きるエネルギーであり、 だからこそ見るから観える、先が観えるになっていくのかもしれないと、先生、 師範の眼差しから感じました。
三本移動の稽古では、総じて足の幅が狭い自分で思っている倍くらい、なるべく両足の横の幅も狭くとご指導いただきました。自分ではかなり開いたつもりで もまだ狭く、実際に脛長プラス拳に至っておらず三倍くらい広くやるつもりでやっと丁度良い距離でした。しかし、それで三本移動をするとまた徐々に詰まっていく、自分の体感は勿論なのですが、外から他の方達を見た時に、より自分がどなっているかがよくわかりました。
師範が「大事なのは素直に先生が言われた通りにやってみること、それが出来ないのはプライドが邪魔をしているから」「いつものやり方の先に未来はない、やり方を変えたことにより、今一時的に上手くいかなくてもそれは未来に繋がっていくための修正であるから、それが出来ないのは、プライドであり我を捨てきれないから」というご指導が、まさに日常生活においてもそのままであると気づかされました。
今まで三本移動が上手く出来ていると思ったことは一度もありませんが、その修正もできずにいました。そして何ならあまりやりたくないとさえ思っていた所があったと思います。出来ていないことを強烈に突きつけられるのが嫌だったんだと思います。
それと同じように、できた振りをして蔑ろにしてしまっている事が日常においてもある事に気づかされます。その裏にあるのはまさに、無駄なプライドや我であると思います。その先に未来はありません。大事なものを見極め、そこが足りない出来ていないなら、辛くても逃げずにしっかり受け止め変えていく覚悟が足りていないのだと稽古を通じて気づく事ができました。
大きな人生への示唆を示してくださる宇城空手の素晴らしさ、奥深さ、私達弟子として学ぶ側は本当に覚悟を持って挑まなければいけません。本来ならば指導をいただけることのないものなのです。昔の空手は弟子は一人か二人であったと、 しかし先生は気により多人数であっても指導を実現されているというお話の意味が、またより一層深く入ってきます。
そして、腕受け突きという基本が基本であり一番難しく、終わりがないというお話も全てが繋がっていきます。基本を本当の意味で疎かにしない、一番難しく大事であるという事は、先生が仰る「一に勉強、二に勉強」「謙虚に謙虚に」という事そのものであると感じました。先生が常に日本人の心、心の発動と言われますが、師の心を映して進んでいきたいと思います。
この淡路合宿には奥様、両師範、そしてお孫さんまでが勢揃いされます。本当に全てが学びであり、気づきであり、家族、親子、師弟と様々な形で全てを見せ ていただいているこの有り得ない貴重な学びを、しっかりと受け取っていきたいと思います。
何にも変えられない最高次元のご指導を常に常にいただける事を本当に感謝いたします。今後ともご指導のほど宜しくお願い致します。
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