東京実践塾 感想文 2025年4月~ 2025年6月
- jht900
- 7月14日
- 読了時間: 22分
■Y.T 自営業 千葉
大変学びの多い稽古の時間を頂きまして誠にありがとうございます。
今回検証のの中で棒にぶら下がったまま行う、空中逆上がりを気を通して出来
る体験をさせて頂きました。恥ずかしながら鉄棒は小学生の頃苦手で人生でほぼ
やってきた経験がありませんでした。記憶では普通の逆上がりも出来ていなかっ
たように思います。
そんな自分の経験の不可能を可能にする気の素晴らしさを体感させて頂きまし
た。気による細胞の活性化を感じたのも空中逆上がりを一回しか行っていないの
に体温が上がり、汗をかいている自分にビックリでした。その体温の上がり方も
今まで体感したことが無いくらいの熱量であり、細胞の変化を感じました。
これは筋トレやスポーツをやった時とは別の感覚であり、次元の違う細胞のエ
ネルギーを感じた瞬間でした。先生がこれを子供にさせたいと言われた想いが伝
わってきます。出来ないと思っていたことが出来た時の感動体験は頭で考えた感
動とは別の自信に繋がると感じました。
呼吸の重要性を改めて検証を通じて体感させて頂きました。どれだけ息が止ま
っているのか、、、こんなにも息を詰めている時は体の力みがあるのか?気を通
して背中から息を抜いた時に相手は関係なくスーと抜ける感覚。最近の稽古は今
まで以上に体感することが多い稽古です。
しかし、実感優位になってしまうと自分の価値観の中でしか判断ができなくな
ってしまう危険性が出てきてしまうとも感じています。そこに、自分のフィルタ
ーは要らなく、先日アカデミーでも送って頂いた資料でも思考というものは必ず
フィルターを通したものでしかなく、良いと思っていてもそれは今まで自分の中
で良いと思った経験での判断しかなく、進歩成長を邪魔する危険性が高くなって
しまいます。思考による実感ではなく、身体での体感を大切にしていきたいと思
います。
これは脳機能としても扁桃体というフィルターを通して感じたことは自分の好
き嫌いという感情が入り込み、大脳新皮質で思考を行う際の判断材料になってし
まいます。それが自我であり、自分というものが出た時は学びにならないと痛感
しております脳機能も正しく使うことが大切で思考優位になってしまった時は身
体は弱くなり、生命活動としても弱な造替になってしまう。
しかし思考しなければただの動物に成り下がってしまい、人間としての素晴ら
しさがなくなってしまう。そこをどちらにも偏り過ぎずちょうど良いところで行
き来していることが自然体なのではないかとここ最近思うところであります。
フィルターを外すということは本当に難しく、必ず色眼鏡になってしまいます
がその思考とは別次元、別ルートで体感させて頂けるのが先生による気の検証だ
と感じております。フィルターを通さないで、思考優位ではなく身体で動けるよ
うに今回検証で受けた衝撃を忘れず活かしていきたいと思います。
先生からお叱りを受けてから2ヶ月ほど経ち、仕事において人間関係や仕事の
状態はお叱りを頂いた時よりも確実に良くなっていると感じております。以前で
は考えられないような症状の相談を受けることも多く、どの様に対応しようかと
悩むような子供の症状ですが先生が常日頃からおっしゃられています生まれなが
らに完成形という事と子供の無限の可能性があるということを常に感じ、施術は
それに対して余計なことをしない。診断だけ間違えない様に検査を徹底的に行い
自分の業務外の領域ではないかだけはっきりとさせてあとは淡々と施術に入って
います。
そこに治してやろうという感情は一切なく、身体の赴くままに施術を終えるだ
け。そんな仕事の取り組み方になっています。
子供の抜毛症で、円形性に地肌が見えるほどになってしまい精神科に相談をし
に行っていた子も1度の施術で抜毛症状がなくなり、雰囲気が変化したりと以前
では起こせなかった効果や変化が現れる様になったと感じております。
これも、自分の我が出てしまう施術では起きなかったことだと感じています。
先生に気合を入れて頂き、今のままではダメだぞという事を常に考え、先生から
のご指導いただいた事を実践するようになったからだと感じています。
先生のおっしゃられたことに対して自分が正しい行動ができていたかは分かり
ませんが、明らかに自分行う整体の範囲が広がっと感じておりますのでまだまだ
未熟でしかありませんが、これからもご指導ご鞭撻よろしくお願い致します。
■M.N 会社員 神奈川
宇城先生
いつも大変すばらしい実践塾の稽古に参加させていただき誠にありがとうござ
います。
実践塾において、宇城先生の高次元の技と検証を体験させていただくたびに、
自分の感性を高め、身体感覚の目盛りを増やしていかなければ、宇城空手の技を
身に付けるどころか、宇城先生がお話しされるお言葉の真意を掴むことさえでき
ないと日々感じております。
自分の感性を高め、身体感覚の目盛りを増やすとは、「子どもにできて大人に
できないこと」のDVDにあった、「気を感じる、気が流れる、気を流す、気を
発する」の「気を感じる」であり、西田幾多郎氏の「純粋経験」であると思いま
した。反対に「気を感じる」「純粋経験」などの心の価値観を失わせるのが、今
の教育、メディア、マスコミ、社会システムです。
明治時代に義務教育が始まった頃、学校に行かせるのを反対した親が多かった
と聞いたことがあります。学校に行かせるのを反対したのは、農家などの労働力
が奪われるという理由などがありましたが、それ以外にも、「学校に行かせると
理屈ばっかり覚えて頭が悪くなる」という意見もあったそうです。
一説によると、明治政府が導入した教育制度の目的は強い軍隊を作ることにあ
り、その為、軍人に必要な基礎知識(国語算数理科社会)を画一的に国民に身に
付けさせるカリキュラムを作ったそうです。「日本の教育は画一的で個性を伸ば
さない」という批判を目にすることがありますが、調べてみると、明治政府が富
国強兵の中央集権体制を整えることが急務と考えていたため、最初から分かって
いて画一的な教育制度を導入したことが分かりました。
ある海外の軍人が、日本の小学生が「気をつけ、前ならえ、休め」をする姿を
見て、「なんで日本では小学生に軍事教練を教えているんだ?」と質問したとい
うエピソードもあります。明治政府のした政策は功罪両面があったと思いますが
欧米列強の脅威の中で急速に国防力を高め、日露戦争に勝利したことなどを見る
と、当時の学校教育が全て間違っていたと安易に言うことはできないと感じます。
しかし、令和の時代になった現代においても、未だに旧態依然のままの教育を
している日本の教育制度は大きな問題だと思います。兵士を作る教育は、悪く言
えばロボットを作る教育です。ロボティクス分野、AI分野の開発が目覚しい進
歩を遂げている今、頭でっかちの知識だけの人間や、指示待ち人間はこれから淘
汰されていく時代に入ると思います。
にもかかわらず人間をロボットにする教育を未だに続けているのが日本です。
ロボットは、指示があれば忠実に動きますが、指示がなければ何もできません。
以前、宇城先生が、「日本はリーダー不在の状態である」と仰られていました。
かつての日本には、宇城先生のような「人をリード(導く)する人間」、「無か
ら有を生み出す人間」がたくさん居たのだと思いますが、今の日本は、エネルギ
ーのないロボット人間ばかりの状態になってしまっています。
宇城先生のお言葉「進歩成長とは変化すること」、ダーウィンの言葉「激動の
時代に生き残れるのは変化に対応できる種である」の通り、明治の日本は変化し
たからこそ生き残れたのだと思います。
しかし、今の日本は全く変化しておらず、先人の残してくれた遺産をひたすら
食い潰し、退化の一途を辿っています。メディア、マスコミの代表はテレビです
が、「一億総白痴化」と言われたように昔の親は「テレビを見ると馬鹿になる」
とよく言っていました。
先日、久しぶりにテレビを見る機会があったのですが、チャンネルを回してみ
ると、相も変わらず、グルメ、お笑い、クイズ番組、お金や収入に関する番組ば
かりで、内容の解説は理屈やノウハウばかりでした。テレビの番組内容が著しく
低俗なのは、多くの現代人の生きる目的が、物質と金による享楽の追及と、理屈
と知識で承認欲求を満たすことだからなのだと思います。
昔の日本人が、学校教育やテレビなどを問題視していたのは、理屈や知識では
ない「純粋経験」のような目に見えないものの価値観を潜在的に理解していたか
らではないかと思いました。
「純粋経験」を調べると、「純粋経験」は「主客未分」を意味すると説明され
ていました。「主客未分」とは、主観(自分)と客観(対象)を分け、自分の頭
で対象に理屈をつける前の状態です。
私もかつては理屈と知識でしかものを考えられない人間でしたが、宇城先生よ
り長年学ばせていただいていることにより、理屈と知識で得られるような考えだ
けでは、本当の意味で自分が成長することは絶対にないことを身に染みて感じる
ようになってきました。
昔の自分と比較し、理屈と知識で得られるもののレベルの低さを感じるように
なるにつれ、理屈と知識で説明したがる人がいかに多いのかを感じるようになり
ました。現代人の多くは、病的と言っていいほど、主客を分離し理屈をつけない
と我慢できず、理屈で分かったことに優越感を感じ、分からないことには劣等感
を感じます。
座波先生のお言葉「のりと理屈は何にでもくっつく」の通り、遥かに次元の高
い宇城空手の稽古においては、理屈は何の意味もなしません。純粋経験を体験す
る方法は、何かに「没頭」することだとありました。没頭する、頭を没するとは
宇城先生の仰る「身体は完成形だが、それを頭が邪魔している」というお話と全
く同じです。
純粋経験に似た概念に、プラトンのイデアがありますが、アイデアの語源がイ
デアであることを最近になり初めて知りました。理屈と知識にまみれた日本人か
らアイデアやインスピレーションが失われ、無から有を生じさせることができな
い民族に退化してしまった理由の一つが、知識偏重の社会システムにあることを
改めて深く感じました。
去年、私は、世界遺産である「三内丸山遺跡」と「大湯環状列石」を見に行く
機会がありました。遺跡や資料館を見て周る中で、1万年以上前から、私たちの
祖先が漆を使っていたり、翡翠を新潟と青森で交易をしたり、20メートルもの
巨木を組み上げる建築技術を持っていたなど、技術立国である日本のルーツが縄
文時代からあったことを知り大変驚きました。
そして、さらに驚いたのは、縄文人が生活の為に使っていた労働時間が2、3
時間程度であったという話でした。ガイドさんのお話では、労働時間以外の時間
は、土器、装飾品、美術品の製作や、儀式、祭祀、音楽、踊りをしていたのでは
ないかと説明していました。
これからAIの進歩により、AIが人間から労働を奪う時代になると言われて
おり、私も含め不安や怯えを感じている人が多いと思います。しかし、縄文時代
まで歴史を遡れば、不必要な労働こそが、人間が本来持っていた大切なものを奪
ったという見方もできるのではないかと思いました。
人間が本来持っていた大切なものとは、目に見えない純粋経験などであり、その
究極が宇城先生の「気の世界」なのではないかと感じました。本来ならば、日本
人こそ、目に見えない「気」を感じたり、無から有を生み出す「調和のエネルギ
ー」を持っていたにもかかわらず、皮肉にもこれら「目に見えないエネルギー」
を最も感じられなくなってしまったのが現代の日本人であるように思います。
一度、理屈と知識にまみれた人を、本来の「人間」に戻すことは容易ではあり
ません。それは、長年に渡り宇城先生より学ばせていただきながら、中々変化で
きない自分を見ればよく分かります。頭でしか考えられなくなった私たち弟子達
を、忍耐強く、長年に渡り教え諭してくださる宇城先生には感謝の言葉しかあり
ません。
AIが台頭していくこれからの時代こそ、宇城先生の仰る「人間力」「人間性」
を取り戻す最高の時代だと捉え、引き続き稽古に励んでいきたいと思います。
■N.S 会社員 千葉
宇城先生、いつもご指導ありがとうございます。
鉄棒ができない人が、宇城先生のご指導ですぐ鉄棒が出来る様を見た時、衝撃
と感動を感じました。理由はわからないのですが、新鮮な衝撃を感じた瞬間でし
た。鉄棒ができない人が宇城先生のご指導で練習なしでできてしまう、宇城先生
のご指導の素晴らしさ、本物の指導を改めて、見て確信しました。
出来なくしているのは自分であり、それが自分で気づく事が大切だと。いつも
宇城先生は出来る稽古をオープンにしてくださっているのに、変わらない、出来
るようにならないということは、自分でブレーキを踏んでいることです。
また、宇城先生のオープンセミナーでみせてくださる姿、ご指導は、宇城先生
のわずかな一部にすぎないことにも気づきました。
稽古で呼吸の使い方を学びました。
5月の稽古では、宇城先生の稽古に対する厳しさ、深い思いが身体にしみるよ
うに伝わってきました。椅子に座った私の膝を押す列を、跳ね返す検証について。
同じ体験を以前させて頂いた時は、沢山の人の攻撃がきても動じない自分がいる
ことを気づかせていただきましたが、今回の検証では、それ以上の事を体験させ
ていただきました。
合せることを教えていただきました。宇城先生に気を通された後、私の身体全
面から空気砲のようなエネルギーがずっと出ている事も感じました。この体験か
ら、日常でおこる様々な体験に対しての勇気をいただきました。ありがとうござ
います。そして以前は、今回のように感じ取る能力がなかったことに気づきまし
た。
いつも様々な体験をさせていただきありがとうございます。今回も、勇気と希
望と自身の未熟さを教えていただきました。
宇城先生の稽古から得た気づきを、日常で実践していきます。
これからもご指導、よろしくお願いします。
■ T.S 教師 埼玉
宇城憲治先生
いつもお世話になっております。今回も様々な検証を体験させていただき、あ
りがとうございました。
棒を縦にして、上からと下からと反対方向に押すという検証がありました。通
常だと棒は簡単に動き、両者の位置が入れ変わることが容易に想像できます。と
ころが、先生にエネルギーを入れていただいた途端、棒を押すことができなくな
りその場に膠着してしまいました。
また、体育館の中を歩く検証では、先生が離れた位置からエネルギーを入れる
と真っ直ぐに歩けなくなってしまいました。「空間がゆがむ」ような不思議な感
覚でした。他の人達も同じように千鳥足で歩いていたので、思わず笑ってしまい
ました。
エネルギーの実在、そしてエネルギーを自由自在に操る先生のお力を強烈に感
じさせていただきました。
その他にも、関節蹴りをすることで投げ技ができること、仰向けに寝た状態で
下方向に蹴りを行うことで立った相手を倒せることなど、様々な形での「できる」
体験を通じて、理屈ではなく、身体で学ぶ貴重な機会をいただきました。
先生が言われるように、エネルギーは私達一人ひとりにもあります。しかし、
そのエネルギーを十分に発揮できていないのが現状です。そして、その「できな
い」原因は、他でもない自分自身にあります。意識のレベルで「できる」と思っ
ていても、無意識のレベルで私は自分のことを「できない」と捉えています。結
局、私は自分自身を信じていないのです。
先生が、様々な方法で無意識のレベルに「できる」ことを訴えて下さっていて
も、自分の無意識は殻に閉じこもり、先生からの働きかけを受け入れようとして
いませんでした。
先生が宇城空手は「努力でできるような世界ではない」と仰っていた言葉の意
味が腑に落ちました。無意識の蓋をしたままいくら努力を重ねても、できるよう
にはなりません。それはまるで、底の抜けたバケツに水を溜めようとするような
行為だと気づかされました。無意識の蓋を開き、先生のエネルギーが入ってくる
状態にしたいと思いました。
型でニュートラルな状態を作ることができれば、無意識の蓋が開くように感じ
ます。繰り返し体感させていただくニュートラルな感覚を自分でも再現できるよ
う、真剣に一人稽古に取り組んでいきたいと思います。
6月の実践塾では、テレビ撮影がありましたが、その場面でも多くのことに気
付かせていただきました。まずは「型」についてです。野球をはじめとするスポ
ーツには型がありません。だから、スランプに陥ると戻る場所がなく彷徨ってし
まいます。フォームをいじり続けて悪化を続けるケースがスポーツではよく見ら
れます。
型があることは本当に大事なことだと感じました。とはいえ、その「型」も、
宇城空手の型だから実践に活かせることができるのです。我や癖を捨てて宇城空
手の型にはまれるようにやっていきたいと改めて思いました。
次に、先生の細やかなご配慮に感動しました。撮影に際しての物の配置や、撮
影スタッフへのお心配りなど、その一つひとつが緻密で行き届いていてただただ
感服するばかりでした。空手、居合、そして仕事、どの分野でも超一流を極めた
先生は、細部に至るまで全く違うということを、改めて実感しました。
編集され、放映される尺が短いことを十分にご承知のうえであっても、先生は
常に全力で言葉と実践をもって真理を伝えてくださいました。そのお姿を間近で
拝見でき、大変勉強になりました。
「日本はもうダメだ」と諦めている方が少なくない中、先生はどこまでも本気
で何とかしようとされています。そうした姿勢がテレビ撮影の一コマ一コマから
感じることができました。
私達は、空手だけでなく、宇城先生の全てのお姿から学ばせていただくべきだ
と強く感じました。本当にありがとうございました。
■ A.K 公務員 千葉
宇城先生、この3ヶ月の稽古、ご指導どうもありがとうございました。
たいへん多くを学ばせて頂きましたが、私自身が学んだと感じていることは、
先生が我々に伝えようとされていること全体のほんの僅かな部分なのだと思いま
す。しかもその僅かな部分でさえ、自分にできることは何一つありません。
この3ヶ月は自分の学びの遅さや無力さを感じる一方で、それほど次元が高い
世界を毎月学ばせて頂いていること、それも実際に示して下さる師がいることの
有り難さと素晴らしさを感じた3ヶ月でもありました。
とくに印象に残ったのは、6月の実践塾での木刀の稽古で、先生の「斬ってか
らの突き」を体験させて頂いたことでした。「切り下ろした剣を横に倒し(刃が
左向き)、真っ直ぐ突く」とのことでしたが、実際に先生の突き体験させて頂く
と、いつ突かれたのか分かりませんでした。
「斬る」と「突く」の間が無いように感じられ、先生の動きを目で見て追って
いるのに気付いた時には突かれていました。
過去の稽古の中で、先生が「斬る中に突きがある」という意味のことを仰って
おられ、当時はその意味が分かりませんでしたが、6月の稽古での体験でその意
味するところの一端を感じることができました。
また、通常の木刀の振りと無力化される振りの二通りの振り方で、斬られる感
覚の違いを体験させて頂きましたが、通常の振りが何も感じない(こちらの方が
木刀を振る速度は速い)のに比べ、無力化される振りは斬られた体が溶けて勝手
に落ちていく感覚(力が入らない)になりました。
これは意識で倒れないように堪えられるものではなく、それが私の思い込みで
はない証拠に私を後ろから支えていた人も同様に倒れました。どちらかと言うと
後ろの人の方が倒れるのが早く、それに引っ張られて自分が倒れていくようにも
感じました。
さらに倒れるところを木刀で軽く突くかれると、やはり列全体が一気に後ろに
崩されました。木刀による無力化のエネルギーがその場全体にそれも同時に作用
しているということだと思います。
実際に人を殺傷することなく実力の違いを人に分からせるわけですから、まさ
に先生が仰る戦わずして勝つという次元だと思います。
これまでの稽古でも同様の技、検証を見せて頂いておりますが、6月の稽古で
の体験から、戦わずして勝つという次元とそれを具現化する技術が実在するとい
うことを改めて確信させて頂きました。
このような次元の存在を確信できることは、自分の稽古や修行の方向性を確認
する上で重要なことだと思います。自分の稽古や日常のあり方がそこに向かって
いるのかを自分自身に問い、自分の間違いや未熟さに気付き、それを正す努力が
できるからです。
このような体験でハッとするのは、自分の稽古の間違いや、現状の自分のやり
方が先生の示す次元に向かうものではないということに自分自身が本能的に気付
いたからだと思います。見方を変えれば先生の指導はそれを否応無しに気付かせ
る指導であるということだと思います。有り難いことです。
また、5月の稽古では、自分が閉じていると気が伝わらない、気が通らないと
いうことを教えて頂きました。閉じているということがどういうことか自分では
分からないのですが、気をかけて頂いてもできないという体験により、自分の何
かが間違っていることを感じることができました。
今思うと、本来できるはずのことを妨げているものが自分の中にあることに気
付けという先生の指導だったのでははないかと思います。目指すべき方向と自分
の姿の確認ができました。どうもありがとうございました。
今後は現状に一喜一憂することなく、先生に示して頂いた戦わずして勝つ武術
の次元を目指して歩みは遅くとも稽古を続けたいと思います。引き続きご指導ご
鞭撻のほど宜しくお願いいたします。
■ K.S 自営業 沖縄
宇城先生
4月〜6月の御指導、誠にありがとうございました。
空手の基本中の基本ともいえる腕受け逆突き、腕受け投げを徹底的にご指導い
ただき、また思う存分稽古させていただきました。同時に、「できない」自分を
思い知るわけですが、日本という国自体の危機が叫ばれている中で、相変わらず
「できない」ということは自分の中の時間が止まっていてエネルギーがない状態
であり、自分自身が国の滅亡に拍車をかけているのではないかと、かつてない危
機感が込み上げてきました。
それは過去を生きていることになり、以前できなかったことが今もできないの
は停滞ではなく、先生が仰る通り「現状維持は退歩」ということになります。人
間の細胞にはATPエネルギーなどの想像を絶する莫大なエネルギーがあり、あら
ゆる活動の供給源になっています。
身体は自動操縦であるはずなのに頭を介入させてしまう悪い癖が抜けず、それ
が無意識領域にまで入り込み、身体の自由を奪っているのが天の型の分解で嫌と
いうほどわかります。
いろいろな方法で先生に「気」を入れていただくと五次元の世界を疑似体験さ
せていただけます。かけがえのないこの時間帯は、こんな簡単なことができずに
苦しんでいた自分が嘘のように楽しくて視界が明るく広くなり、まさに過去を捨
て未来に向かうとは、三次元を捨て五次元に向かうことだと身体で気づかせてい
ただきました。この感覚を忘れずに持ち帰り、またブレずに稽古を続けていかな
ければなりません。
6月の稽古はNHKの取材も入りインタビューに答える先生のお話も勉強になり
ました。
五次元に向かう道程は本来の人間に、そして本来の人間力を持ち合わせた日本
人に戻るための修業であると思いますし、それは歴史に学ぶことでもあるのでは
ないかと思います。
現代人の悩みや苦しみは、時代によって形は違えど長い歴史の中ですでに先人
たちが経験し解決してきたことばかりで、型も然りですがたくさんのヒントが埋
もれています。
稽古の中で先生がお話に出された長谷川平蔵からも学ばせていただこうと思い
ます。長谷川平蔵は「鬼平犯科帳」のモデルになった人物で、平蔵が火付盗賊改
役として活躍した時代は天明の大飢饉があったり、米価の高騰により全国各地で
同時多発的に打ちこわしがあったり、どこか現在と似た大変な時代でした。
天災や飢饉で江戸には無宿人が入り込んできていました。無宿人の多くは大飢
饉などで農業ができなくなった百姓だといわれています。平蔵は「人足寄場」を
設立し、無宿人を収容して職業訓練させ労働に対する手当も支給し、手当の一部
は積み立てられて出所後の資金になりました。
寄場では大工、左官、炭団作り、草履作り、紙漉、藁細工などの職人仕事の他、
百姓を望む者には農業もさせたといいます。幕府から人足寄場に支給される経費
は僅かな額だったらしく、不足分は平蔵が私財を投じて運営したそうです。
また、寄場では精神的な教育に心学が採用され道徳を学ばせました。犯罪者は
減り、この制度は明治まで続いたといいます。そもそも、無宿人に仕事を与え賃
金まで支払い、賃金の3分の1は強制的に貯金して出所後に渡すなど、今では当
たり前にやっていることでも当時は画期的で斬新なアイデアだったはずです。職
業訓練と心の教育、この2本柱で人間を育てていました。
過去にとらわれず、責任を持って自分が正しいと思う革新的なことを実践、行
動して結果を出したのが長谷川平蔵です。失敗を恐れて行動しなかったり変化を
拒んでいた人間で歴史に名を残した者はおりません。
職人の仕事も百姓の仕事も武術も上を見ればきりがなく終わりがありません。
「ここまででいい」と自分で線引きをすれば、それ以上の進歩はなくなってしま
います。
宇城先生も由村電器時代にビデオカメラの電源開発の責任者として、常に最先
端の部品を開発し、他社よりも小型、高性能、高品質を実現されたといいます。
私たちからは想像を絶するほどのご苦労もあったかと思います。妥協が許されな
い世界に身を投じると自然に「誇り」が生まれるのだと思います。
誇りとよく似た言葉に「プライド」があります。プライドは簡単に他人から傷
つけられる脆弱なものです。なぜならプライドには、他人を意識して他人から評
価されたいという欲がある相対的な心だからだと思います。
プライドが頭でつくった心であるのに対し、誇りは先生や長谷川平蔵のように
自らの信念に従って生きる絶対的な心で、身体と一致した心だという言い換えも
でき他人に傷つけられることがありません。
国は誇りもプライドもないですが、物価高対策と称し1人につきたった2万円
程度の現金給付をする案があります。物価高対策なら消費税をなくすことです。
実際は選挙対策としか思えないバラマキで多くの国民がひっかかるのではないか
と危惧しております。
長谷川平蔵が、百姓も賢くならなければならないと考えていたのと同様に、日
本人ももっと賢くならなければなりません。この3ヶ月の稽古を振り返って、実
践を伴った勉強を自分自身が率先して行い、自分の周囲から変えていこうと強く
思いました。
なかなか成長できない弟子ですが、今後とも御指導のほど宜しくお願い申し上
げます。ありがとうございました。


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