東京実践塾 感想文 2022年4月~ 2022年6月
■ M.M 会社員 東京
宇城先生、いつもご指導をありがとうございます。
今年に入って特に、実践塾の度に強く印象に残るのは宇城先生ご自身の真剣さであり、そして指導中も「真剣さ」というお言葉をよく使われます。私もおのずと「真剣さ」ということについて折に触れては思い出し、心の鏡に照らしておのれの姿勢を問い直しています。
宇城先生が前回のご指導で「真面目と真剣は違う。真面目は駄目だ」とおっしゃったことは、とても腑に落ちました。20代半ばで社会人になったときから30年にわたり、私は真面目を良しとしてきた時間がほとんどだった気がします。真面目は自己満足であり、他者からの評価を期待する欲得づくの勤勉さであり、正しさをわがものと勘違いする傲慢さに結び付きやすく、他者を安易に「不真面目である」と見くびったり、自分よりも効率的に実績を上げ、おそらくは自分よりも真剣に生きていたかもしれない同僚などに嫉妬して、「あいつは天才だから」などと深く相手を知ろうともせずに現実逃避するようなところが、残念ながら多少なりともあったのは間違いありません。結局真面目さは自己愛の延長であり、深化成長のプロセスとは結び付かないのだということが今にしてわかります。
それに対して真剣に生きるとはどういうことか。一日一日、一瞬一瞬の二度とは訪れない「いま」を、大切に生きつくすことだと感じます。ひとことであえて乱暴に言いかえるならば、それは「集中する」ことです。生死の境目にある武術における真剣さ、集中は本来無二の重さ、濃密さがあるはずです。ひとたび師の技を見ることができれば、たちどころにそれを身に着ける、という次元でなければ、乱世を生き抜くことはできず、実際に命を落とします。
見る、観る、触れる。一見、一観、一触はまさに一生に一度の一期一会です。宇城先生は文字通り「真剣」を居合の修行の当初から用いられ、刃の上に己を置くような真剣な生き様をそこに重ねて修行されたのだと感じます。だからこそ、実業でも技術開発でも大きな成果を上げられてきました。それと同時に、その真剣さのゆえに、武器を捨てて一撃必殺の剣技をもつ薩摩武士に徒手空拳で向き合った歴史を持つ琉球古伝空手の肚を感得され、深い知恵の源に到達されたのだと思います。
戦禍を身近に感じるヨーロッパの門下生や、東日本大震災の被災地から実践塾に通う門下生の中には、この「時の重み」、「いまの重み」を一般の日本人よりははるかに切実に感じている、感じざるを得ない人々がいます。私自身、そうした人々よりも平和な環境に身を置くことができていますが、それに甘えて「いまの重み」に対する感覚がぼけているようではいつまでたっても「真剣」に生きることはできません。いつまでたっても宇城空手の本質に近づくことができません。
私は最近実践塾がますます楽しいです。木刀の素振り、木刀での相対稽古。木刀による居合の型。これらは安全と私たちの力量に宇城先生が深く配慮してくださった上で、「本身の刀で修行」された宇城先生の武術の道の一端を追体験させていただいていることです。
宇城先生が塾生の木刀の振り方を見てしばしば叱ってくださるのも、真剣でなければ意味がないからです。たとえ一人で木刀の素振りをするときでも目の前の敵がどんなに強大であろうとも一刀両断する気構えがないと、ただの腕振り運動になってしまうからです。一刀入魂でなければいけません。当然集中力には限りがあるからこそ、質を量化しないといけません。たくさん振ればいいというものではなく、気剣体一致を目指さなければいけません。
木刀の指導をしていただくことで、そういう感覚で物事をとらえやすくなってきました。そしてその感覚で空手の型、分解組手をすることで、初めて宇城空手の入り口に立つのであり、最近稽古の終盤で徐々に制約の少ない組手を短い時間ご指導いただいているのは、非可逆的な武術空手のステップを一段上り始めるように、宇城先生が手を差し伸べてくださっているのだと感じます。
その合間には必ず気を通していただき、また床に寝て背中側に重心を落とすなど統一体にもどる時間を作ってくださいます。それによって、実戦、真剣勝負においても、本当に使える技は衝突せず、力を使わない調和の術技であることを体感させてくださっています。なんと贅沢なことでしょうか。ほかの場所ではありえない、古今東西にもなかったであろう奇跡の一期一会のご指導です。問われているのはただひたすらに私たちの真剣さです。
甘ったれた平和ぼけの自分でも、その自問自答は喜びに満ちており、時間が愛しく楽しくなってきました。卑近なところでは、どんなに仕事が忙しくても、別の仕事のチャンスや、思いもかけず持ち込まれた相談事や、突然の貴重な食事や飲みのお誘いがどれもありがたく、「時間が足りなければ寝なければいいだけだ」という感覚で過ごしています。
あいかわらず私的レベルで抱えていることはありますが、そんなことはもはや空気と同じように何とも思わなくなりました。この状態が本当に100パーセント望ましいことなのかどうか、確信まではもてておりません。ただはっきりしているのは、宇城先生に導いていただき、そのわずかな一端にふれさせていただいている宇城先生の真剣さのエネルギーが私を元気にしてくださり、人生の可能性を切り開く原動力を与えてくださっていることです。
宇城先生、本当にありがとうございます。
■ C.N 自営業 千葉
宇城先生この3ヶ月間も貴重な稽古をいただきありがとうございました。
朝、小学生たちがこの暑さの中、マスクをしっかりしたまま通学をしている光景を目にします。不安な雰囲気を子供達も感じとり過ごしているのかと思うと、大人としてのあり方、責任を考えさせられます。
宇城先生が私達に与えてくれる絶対の安心感、コロナが一番猛威を振るった時期においても、何の心配もなく稽古、合宿に参加出来たように、子供達に希望を与えられるような生き方をしていきたいと思います。
稽古の場で思う事ですが、あらためてどのように稽古までの日々を過ごしてきたのかという事です。それは先生が稽古中に「こうやったらみんな出来るからやってみ」というような声をかけていただき、組んで稽古に入ることがあるとお思います。
この時、自分の中に「できないな」「こうやるのかな」など頭に浮かんでしまう時と、そのまま取り組める時、大きく分けるとそのようにわかれます。出来る出来ないはまた全く違うのですが、どの様に自分が1ヶ月空手と向き合ってきたのか、という事が浮き彫りになるような気がします。
道場に教わったことを置いて帰るというのは、時間が繋がっていかない、稽古が重なっていかないという事であると思います。時間が繋がるというのは自分の中では、どれだけ心で先生と繋がっている時間を切らさないかという事があります。実感としてあるのは、何かトラブルが起きる時、体調を崩してしまう時程、調子に乗っていたりと先生との繋がりを自分が切ってしまい、時間が繋がっていかない時です。
しかしそんな時であっても常に先生に助けられていると感じます。戒めとして自分が気づく事ができる、これは先生という師がいるからこそ気がつかせていただける事です。途方もない存在の師匠に出会えている事は、人生を過ごしていく中での財産です。そんな師を伝えられないのは弟子としての自分の力不足でしかなく精進していかなければいけません。
そんな中ですが、先日昔働いていた整骨院の院長から「生き生きとしている」「最近お前を見ているととても感銘を受ける、その根底にあるのは、あの先生がいるのだろう?」と言われた事がありました。そして「自分もぜひ学んでみたいんだ」との事で体験会に参加することになりました。
自分では全く予期せぬ出来事であったので驚きましたが、自分の中から何か少しでも感じるものが出ていたのだとすれば、それは嬉しく思います。そして何より一人でも多くの方が先生と繋がり、本当の希望を持ちながら人生を豊かに過ごしていける事で、またその周りの誰かに繋がっていくことになると思います。
稽古がしっかりと重なり毎回毎回成長があるように、あらためて気を引き締めて進んでいきたいと思います。
今後ともご指導よろしくお願いいたします。
■ D.S 会社員 東京
宇城先生、本期間も大変貴重な御指導を賜り、誠に有難うございました。
今回、四つん這いの姿勢で手足を複数人に押さえられた状態から前進するという検証がありました。他の塾生の方々は、先生に正しい姿勢や動き方を指導されると、何人で押さえていても前に進む事ができていました。しかし私は、何度か挑戦しても上手く進む事ができませんでした。
さらにその後、先生に気を通して頂いた上でサンチンの腕受けにより相手に入る稽古がありましたが、これも、私は相手に入れず衝突を繰り返してしまいました。先生から直々に、もっと大きく動くようにとの御指導を頂きましたが、結局その回のうちに動きを修正する事は叶いませんでした。自分の出来なさ具合、レベルの低さを痛感する経験でした。
なぜ出来なかったのか、稽古後に繰り返し考える中で、ふと先生の御著書の一節にその原因が書かれていた事を思い出し、改めて見返しました(御著書 宇城憲治に学ぶ気とは何か)。そこには、初心の塾生が気の力と勘違いするものに、枯れた力というものがあると記されていました。
枯れた力は一点に集中するので一見強いが、限度を超えると折れてしまう脆さがあり、かつ気の力で包まれても変わらない、救われない力であるとの事でした。私はまさしくこの状態にあり、自ら救われない方向へ向かっているのだという事実に直面しました。最もレベルの低い段階にある事を、本当に恥ずかしいと思いました。
同時に、例えば先生に「大きく動け」「丁寧にやれ」と御指導頂いた時、それは自分なりの大きさ、丁寧さではなく、先生ならどれほどの次元で大きく、また丁寧に動かれるか、それを考えなければならないと思いました。そしてそれは自分の意識でどうにか出来るものではなく、先生が示してくださる型、実証、一挙手一投足を映し、自分の物差しから脱却しなければならないと感じます。
レベルの低さに気付いても、自分の身体でありながら動きを修正できないという点が本当に難しいですが、まず自分のレベルに改めて気付いたことだけでも収穫とし、諦めず前に進みたいと思います。
剣の御指導でも、心に残る事がありました。それは、相手に自分を曝け出す、切らせてしまうつもりで前に出るという事です。切り結ぶ 太刀の下こそ地獄なれ 進みゆけば極楽との教えを正に実証する御教示でありました。そしてこの検証については、僅かではありますが自分を曝け出す事による変化を感じ、相手に入ってゆく感覚を実感する事ができました。
これは日常の仕事においても同じで、自分を庇わず曝け出す事で相手と心が通じ、上手く行く事を実際に体験しました。先に挙げたような失敗の後なだけに、こうした僅かな進歩が殊更貴重に感じられます。以前先生が仰っていたように、こうした種火を大事に育てていかなければ、と感じています。
その他にも、剣を振る時最後に手首を効かす、腰を落とす、伸び上がらない、胸を張る、相手から逃げていると足先が開く、といった非常に細やかな指導をして頂きました。
そしてさらにその後、サンチンでもナイファンチンでも、型の運足は軸足にグッと体重を乗せ、腰を落として、反対の足を弧を描くように動かすとの御指導があり、やってみると非常にスムーズに足を運べることが実感できました。実はこの点、一人稽古の時ずっと課題になっており、どうしても足の自由が効かず筋力に頼った動きになっていました。この課題に対する明快な解決法を授かり、自身の動きの変化に大変感動しました。
またその時先生が、この指導はそれ以前の剣の稽古や実証を踏まえる事で、初めて皆さんに理解される指導であり、そこまで考えて稽古を組み立てたと仰ったのを聞いて、改めて先生の先を読む力、先を取る事の重要性を感じる事が出来ました。
今回も本当に充実した稽古を、有難うございました。己の未熟さに落ち込む事もありますが、それでも先生が希望を示してくださるので、また立ち直り前を向く事ができます。どうぞこれからも御指導の程、宜しくお願い致します。
■ Y.F 自営業 静岡
この三カ月も毎回、毎回、本当に素晴らしい稽古、御指導をつけて頂きました。ありがとうございます。
5月の稽古では、お話の中で、大人は今までにない体験をしなければ、自分の中の常識という檻を破る事が出来ない事を本当に分かり易く解説して頂き、理論としても、本当に納得してしまいました。身体では気の指導により、体感させておりますが、頭でもこのように理解させて頂けるという事は本当に有難い御指導を受けさせて頂いていると思います。
また、寝た状態で身体をニュートラルにしてからゆっくり立つと掴まれた手で相手を投げられるという検証では、如何に自分の身体の呼吸が止まっているのか、がよく分かり、その感覚を元にして型稽古、分解組手をしていかなければならないと思いました。
相手の蹴りに対して下段払いで入っていく稽古では、どうしても手で受けにいってしまい、それを先生に言われるまでもなく、自分でその事に気づかなければ直る事のない事だと思い、自分の至らない部分を感じる事ができました。
他の方の下段払いは基本通りに綺麗に入っていて、姿勢、目、引き手など、まさに基本通りの動きで、真っ直ぐに入っていました。それは以前、先生のお話で、子供の頃に、御父上から習字で「の」の字を書くときに、「真っ直ぐかけ」と叱られたというものがありましたが、そのように、内面、自分の心内を真っ直ぐにしなければならないのだと。大人はまず、身体、そして内面。子供はそれがまだ一つになっているので、姿勢を直せば内面も直る。だから子供は真面目でもいいが、大人は真剣でないと駄目。まさにその通りだと。これも頭、身体の両面で納得してしまい、そのような学びの場などは他には無いと断言できます。
「大人は真面目なふりをしている」というお言葉がありましたが、まさに今の日本社会はそうであると思います。本当に様々だと思います。真面目なふり、心配しているふり、仕事をやっているふり、人格者のふり、実態は全て根底に怯え、や自信の無さがあり、それを社会的な仮面で隠しているだけだと思います。それは宇城空手の修行を通せば、それがすぐに分かります。そしてそのような自分を素直に受け止めて、そして真剣にそこから変わっていく事が真の人間としての成長、進化なのだと思います。
そういう面からしても、今の日本社会は無論、世界的にも科学は発達しても人間としては、どんどん衰えていると感じます。人間としての進化とはやはりエネルギーが増えていく事だと思います。そしてできない事ができるようになる。寝た状態の3人が棒を持って、その上に人が乗る、という検証がありましたが、そこから更に腕を曲げても、普通に会話ができ、力を入れている感覚も無い、今までのスポーツという人間の常識外にある事です。
先生の肚を棒で押させて頂きましたが、これも普通ならば、すぐに痛さに耐えられなくなりますが、むしろ押し返されてしまいました。自分でやってみましたが、その感覚の糸口さえ、掴めません。痛み、しかありません。何かをしようとすると途端に棒が肚に突き刺さってきます。この事からも、頭で何かしよう、ではなく身体が先なのだ、という事を感じる事ができます。
またお話で事理一致資本主義というお言葉があったかと思いますが、まさに今の資本主義は、その中身、事理一致、の部分が無いのだと。言わば不完全なものであると、先生のお言葉を聞いたら感じずにはおられませんでした。自分の仕事、農業で自然栽培で野菜や米を育てる事はこの事理一致が無ければ、ならない。その事理一致を崩せば、農薬を使用して、虫や微生物を壊滅させ、自然環境を破壊する、化学肥料もそれを作り出す事で二酸化炭素の排出が増える、また環境破壊に繋がると。
そうならない為に水や太陽光、土の中の微生物、その自然の循環の中で育てる事でエネルギーが入り、良いものが生まれてくる、育つのだと思います。このような考えも、無論、宇城空手の修行を通さなければ自分には生まれてこなかったと思います。
宇城空手の修行をする事により、自分自身も本当に、人間という存在として、正しい方向へ導いて頂いている、それを感じています。毎回、宇城空手の持つ、人間の可能性を引き出す、その世界に増々魅了されていっている自分がいます。自分が変化していると、前にやった同じ検証のもっと深い意味を身体で感じ、その感動が大きくなる。そのカギは自分自身の中にあるのだと。それも気づかせてくれます。それは自分自身が自分の可能性を決めている、生き物としての真の自由を学ばせて頂いている、その自由が無いように錯覚させるのが、現代社会とりわけ今の日本社会なのだと思います。
誰もがその自由を感じる事のできる宇城空手、その素晴らしい存在、そしてそこへ導いてくれる師に出会えた事には本当に感謝しかありません。本当に凄い世界に出会ったと。そしてそこで学び、そのエネルギーの輪を広げる事が、真に守る、という事にも繋がり、そして真の世界平和への道であると。そのように思います。
今年ももうすでに半年が過ぎてしまいました。この限られた時間をどのくらいの熱量で過ごすのか。それは「今」をどれだけ真剣に生きるのか。それを教えてくれる、気づかせてくれる宇城空手と師である宇城憲治先生に、改めて感謝するのと同時に、今年後半も、更なる進歩成長を目指し、精進して参ります。
引き続き、御指導、御指導、何卒よろしくお願い申し上げます。
■ K.S 会社 東京
いつも実践塾にてご指導いただきありがとうございます。世界中で感染症や戦争が起きているこの時期に宇城先生の異次元の世界に触れられる機会があることを心より感謝しています。
試行錯誤が成長につながる。6月の実践塾で先生からいただいたお言葉です。空手の型、剣の型はもちろんですが姿勢や身体の癖も日常の中でふと思い、こうではないかと繰り返しています。先生は今でもさらに深さを追及されていてそのことを我々に示してくださっています。先生ほどのレベルに到達された方は歴史上ありえないと思っていますがそれでも生涯成長というお姿を先生から感じます。
これでいいはありえない。現状維持は退歩である。今まで先生からいただいた数多くの言葉が繋がっていきます。反省ばかりの日々ですが、こうではないかという自身への問いが成長に繋がっていくと聞き大変励みになりました。
「経過年数」ではなく「修行年数」が大切である。ただ単に日常を繰り返すのではなく今を生きる、今を生ききる。地球やご先祖からいただいた命をどう燃焼させて次の世代に紡いでいくかを先生のご指導の中で感じました。そのようなことを考えると私はまだまだ狭い世界に自分勝手に閉じ込めていると思いました。
もっと心を開き師の心を映し、外に動いていく。寄り添っていく。先生がその道を示してくださっているにも関わらず自分の居心地の良い場所に留まっています。見せかけの平和や大事な事を知ろうともせずに。先生はまさに太陽のような存在です。先生にいただいたエネルギーを自分勝手に切ることなく一人革命により周りに繋げていけば自ずと先生を中心に世の中が変化していくと確信しています。答えはすでに自分の中にあるはずと思い行動していきます。
脳が閉じている状態と開いている状態のことをホワイトボードにわかりやすく記載いただきご指導いただきました。閉じた状態でいると知識や刷り込まれた常識に捕らわれ本質を見抜くことさえできないでいる。情報は一切入ることなく自分勝手な考えで決めつけてしまう。脳が開いていればわからないまでも本質であるということを知り、そこから広がりをみせていく。頭での知識ではなく身体知がいかに変化・成長に繋がるかはたくさん経験させていただきました。
また真面目ではなく真剣にということを何度もご指導いただきました。子供は真面目イコール真剣。大人はそうではない。私は真面目だけではいけないことを嫌というほど野球時代に学びました。いくら努力しても無駄な努力は無駄である。積み重ねのきく努力をしないといけない。そのことに気づかせていただいたのも先生でした。
仕事においても同じで今の立場で社員を見ていると真面目にやっているだけでは成果が出ないことを学んでいます。もちろん私も同様です。先生ほどの真剣のレベルでは到底ありませんが、仕事も同じで真剣に取り組まなければ成果はでない。真剣ということがどういうことか。今は自身のレベルでしか理解できませんが、常に本質を追及される先生のお姿のほんの少しでも映し実践できればと思い今後とも精進して参ります。
梅雨の時期となりましたが、先生におかれましてはお身体ご自愛くださりますようお祈りいたしております。
ご指導ありがとうございました。
引き続きご指導ご鞭撻のほど宜しくお願い申し上げます。
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