宇城道塾 2019年度 夏季合同合宿が開催されました
去る2019年8月31日(土)、9月1日(日)、宇城道塾夏季合同合宿が静岡県修善寺で行なわれました。
東京、大阪、仙台、熊本、岡山、名古屋の各クラスより、九州から北海道までおよそ70名が参加。
宇城塾長のもと、全国から志を同じくする仲間が集い寝食をともにし、2日間にわたる集中講義・実践を受講しました。
今回は、「宇城式呼吸法」と「サンチン」で、調和する身心を色々な応用検証を通して徹底的に学び、またそれを身体に染み込ませる実践が繰り返されました。
応用検証では、相手や周りと調和できた時の対立の全くない感覚を得ると、塾生たちから思わず感嘆の声が上がります。
調和する身体・統一体は、塾長に気を通してもらうほかに、各自の所作や呼吸法によってもつくられることを学びます。
この2日間、様々な実践検証の中で、呼吸法を繰り返し行ない身体に落とし込む機会をたくさんいただきました。
「最も大事なことは、『変化』することです。
変化は今という瞬間の時間の中にあります。
その瞬間の時間操作法の一つに呼吸法があります」
呼吸法の所作は丁寧に丁寧にすることが肝要です。呼吸法を行なう時の所作や手の動きががさつであると、身体に気が通らず調和も生まれません。
変化すなわち「できる未来」を自ら先取りし、かつ呼吸法にはさらにその上があることを塾長に示してもらうことで、呼吸法の一見単純な動作にも、毎回丁寧に取り組んでいくことで惰性にならずステップアップしていく。そういう心構えを植え付け、本質に向かう道筋を、塾長は示してくださいました。
― 「宇城式呼吸法」と「サンチン」の型を、2日間にわたって稽古 ―
(応用検証)
椅子に座って両足を押さえられる
→ 立ち上がることはできない
▼
→ 気を通されると簡単に立ち上がることができる 植物の根が固い土の間を探って伸びていくように
"すき間”ができ相手に入っていけるのだと言う
< 呼吸法での調和 >
呼吸法を行なって押すと、一列はすっと動く
ところがガッツポーズをしたり気合を入れたとたん
列は動かなくなる
全員が呼吸法での調和を実践
< 相手との間(ま)>
① 一人が一列先頭者から徐々に離れ、先頭者は「合った」と感じたところで合図する
② そこで第三者が列を押すと、簡単に崩れる。これが、間が合う、フォーカスが合った状態(調和)
③ そこから半歩でもずれると、列はまったく動かなくなる
この、間が合った一点から少しでも動くと切れてしまう課題への答えの一つとして、次のような検証が行われた。
① 一列との間が合ったところで、
② 離れたところにいる第三者を気遣い、歩み寄って声をかける
③ 間が合ったところから動いたにも関わらず、一列を押すと簡単に動く
< 調和力 >
十数人ががっちりと支えているが塾長にあっけなく崩されてしまう
塾長が「まったく力は使っていない」のが見て取れる
不思議としか言いようがないが、まさにこれが今の常識が非現実だ
ということの証しとも言える
< 人間の潜在力 >
両肩にそれぞれ4人ずつぶら下げて屈伸をする
→ 男性でも膝を曲げたところで動けなくなるか崩れてしまう
→ しかし、気を通されると女性でも簡単に屈伸し
さらには腕を広げて8人を弾き飛ばしてしまう
< 相手との調和 >
横になっている相手を起こす場合
→ 相手との調和がとれていると手を添えるだけで起き上がる
→ しかもこの時、相手は背中に乗られても何ともない程強くなっている
しかし、ただ引っ張るような場合
→ 相手は起き上がりにくく、かつ身体は弱くなっている
「宇城式呼吸法」の検証が教えてくれていること。
① すべてと調和する、すなわちそれは仲良くすること。
→ そのことによって潜在力が引き出されるということ。
② 調和の逆、すなわち自分さえという対立は人間力を劣化させていくということ。
講義と懇親会で途切れることのない学びの時間を過ごした塾生たちは、身心にエネルギーを充満させて、日常においての変化・成長を目指します。
宇城道塾 2019年夏季合同合宿記念写真
参加者の感想を紹介します。
●福島 公務員 51歳 男性 HO
熱く、深く、楽しく、希望に満ちた二日間でした!
凄く元気になりました!
8月下旬から9月上旬は繁忙期で、猫の手も借りたい状況なのですが、私に合宿を欠席するという選択肢はありません。
それは、この合宿に参加することでエネルギーをフル充填できることを身をもって知っているからです。
情けないことに、合宿参加前の私の身体の中はドロドロしたモノで一杯になっており、気持ちの悪いものを抱えたまま会場に向かったというのが正直なところです。
それが、宇城先生にお会いし、全国の塾生の皆さまの顔を見たとたん、ドロドロの嫌な感覚はどこかに消え去り、身体中が透き通った感覚になりました。
あとは、ご指導を通して、宇城先生のエネルギーがとめどもなく流れ込み、そのエネルギーが塾生の皆さまとの交流で増幅され、まるで生き返った気分です。
古来、人はこういったことを「ケガレ(気枯れ)」「ハレ」といった気の循環で回してきたとのだと思います。
しかし、現代社会はケガレしかない状況です。ハレの日は、ハロウィーンや何かのイベントで暴れるだけ。香港のデモが正しいのか否かわかりませんが、日本の若者にあのエネルギーがないことは確かです。
集団の人数を増やせば増やすほど、伝わる何かが増幅するという検証を体験しましたが、それは、導くもの、指導者の力と方向性によって、集団はどうとでもなってしまうのだということを強く感じました。
それは指導者の重要性、指導者が集団を成す一人一人の心を抱えられるか、それを正しく導けるかということだと思います。
私は合宿で、宇城先生の、全国の塾生の心をいただきました。その心を、三島駅に置き忘れることなく、熱海や新横浜の駅でポロポロ落とすことなく、自宅まで持ち帰り、明日からの日常、仕事で活かしていきたいと思います。
宇城先生
全国の塾生の皆さん
本当にありがとうございました。
私はもっともっと前に進めます。
やれることを全力でやります。
もちろん楽しみながら。
それがエネルギーです。
●兵庫 会社員 28歳 女性 NT
この度の合宿でも、本当に濃く、エネルギーに溢れた時間を過ごさせていただき、誠にありがとうございました。
呼吸、サンチン、その他さまざまなやり方で、エネルギーを取り込んで検証することを体感させていただきました。
印象に残っている検証の1つ目は、5人が1列に連なり、1人が列の先頭の人と向き合って少しずつ後ろに下がり、間がぴたりと合うと、5人の列が軽く押すだけで後ろに倒れるという検証です。間が合っている地点から少しでも動くと、5人の列とつながりが切れてしまいますが、困っている人を助けるために移動すると、つながりが切れずに調和したままでした。妨害しにくる人を投げることもできていました。しかし、助けようという気持ちだけで素通りしたり、困っている人がいない方に助けにいくつもりで走ったりしても、つながりは切れてしまいました。
どんなにエネルギーを保とう保とうと思って動いても、それは相手のない自分中心なことで、調和できずにエネルギーも保てないということ。しかし、困っている人の力になるような目標に向かって行動をしていくことで、周りと調和し、エネルギーを保って、周りから見守られながら、困難も乗り越えていけるのだということを体験させていただきました。また、気持ちがあるだけでもダメで、行動をしているつもりでもダメで、本当の現実の目標に向かって行動をしていかなくてはいけないと改めて気づかされました。
また、立った状態で曲げた両腕をそれぞれ男の方数名に押さえられ、腰を落とす・再び立ち上がる、を繰り返したり、その後、腕を左右にぱっと伸ばして腕を掴んでいた男の方の列を倒したりする検証もさせていただきました。どれも、自分の力では絶対にありえないことです。目の前に先生がいらっしゃるから、できるんだ、大丈夫だと、自然と思えて、動くことができました。
2日目の初めにも、先生を見たまま瞼を閉じると、正座の状態で上から押さえつけられていても、立ち上がることができるという検証をしました。
師という存在があるということ、信じるということ、それによって、自分では決して出せない力を出すことができるということを体験させていただきました。
たとえ、先生が目の前にいらっしゃらなくても、瞼を開けていても、日常のなかで先生を見続けられるように、自分の日々の改めてまいりたいと思います。
それから、丁寧に、丁寧にすることが大切だというお話も印象に残っております。呼吸も、丁寧に丁寧にとやる方が、強くなりました。私は、日常の中で、自分ががさつだと思うところがたくさんあります。呼吸を丁寧にして、仕事をはじめ日常の全ても、丁寧に行うように、自分を変えていきたいと思います。
そして、座っている人や寝ている人に手を添えて、立ち上がってもらう検証では、私はなかなか立ち上がってもらうことができませんでした。それは、自分が起こそう起こそうと意識して、手を引っ張ったり押し上げようとしたり、自分中心に動いてしまったからだと思います。自分中心ではいけないと頭で考えていても、実際には自分中心になっているということ、これも、日常のなかの自分のことだと思いました。全員で腕を組んで回るときも、隣の人と手が離れてしまうことがありました。これも、離してはいけない、という自分中心の意識が生まれるからだと気づかされました。
しかし、二人で手を繋ぎ、先生に気をかけていただいて、ものすごいスピードで回転したあとだと、何の抵抗もなく、座っている人を起こすことができました。そのときは、自分中心にどうこうしようという意識も、それではいけないという葛藤も、そもそも起こる暇がなく、その前に起こせてしまって