「子どもの邪魔をしないで」 ― 小林信也 道塾見学記 ―
- chiba
- 7月10日
- 読了時間: 7分
更新日:9月12日
この日の道塾では冒頭、かつて宇城憲治先生が出版された単行本《子どもにできて 大人にできないこと》の付属DVDを見せていただきました。
チューリップの球根の未来は、球根を見ただけではわからない。科学的に分析しても、球根が将来どんな変化を遂げるのかは推定できない。
そんな「研究」や「分析」より、《球根を土に植えてしまえば答えが出る》というのがひとつの結論です。必要な環境下に置けば自然に芽を出し、やがてチューリップの花が咲く。球根は生まれながらに完成形。同様に人間の赤ちゃんも成長し、秘められた能力を発揮する。真理を鋭く提示し、示唆に富んだ映像を初めて見た時の衝撃を思い起こしました。
言われてみればご指摘の通り。だけど、人は赤ちゃんの体内に無限の能力が予め秘められている事実を忘れがちで、潜在能力を自然に育もうとするのでなく、〈どんな大人にしようか〉〈どうすれば親の望む未来像に近づくか〉など、勝手に外圧を加え、親の願望で子どもを引っ張り上げようとします。〈塾に通わせ〉、〈受験戦争に飛び込ませ〉、あるいは〈プロスポーツ選手を夢見て熱心にスポーツをさせる〉など、およそ球根を自然に栽培するのとは対極的な強制を、誠意ある〈子育て〉のように思い込み、勘違いしている大人が大半ではないでしょうか。社会全体もそういう思い込みで〈教育〉を捉えています。
〈教育〉とか〈子育て〉の概念が根本から間違っているのだ、私は全身に衝撃が走る思いでした。この本とDVDが2010年に創られていたことに改めて驚かされます。15年も前に、宇城先生はいま社会が必要な真理の目覚めと方向性を明確に表現されていたのです。
続いて始まった講座では、いつものように〈およそ常識では考えられない〉、だけど〈宇城先生にかかると当たり前のように人の動きが変わる〉幾多の事実が展開されました。
最も衝撃的で言葉を失った、頭の理解では追いつかない実例のひとつは、《気で膝から下を切り落とすと、人はどう変化するか》という、気を前提にしなければ想定さえ不可能な問いかけでした。
左右二人が肩に担いだ棒に、鉄棒の要領で一人が飛びつき、しがみつきます。その人の脚(膝から下くらい)を宇城先生がレーザー・ライトを当てて「切り落とした」という想定です。おそらく気のエネルギーを受けた人は本当に自分の足が失われた感覚に襲われたのでしょう。宇城先生が、切り落とされた脚を前方2メートルくらい前に動かすよう指示されました。両脚を並べて2メートルほど前に並べると、鉄棒にしがみついて、実際にも足が床に着いていないその人が、「あの足のあるところに行かなければ!」と、強い気持ちでエネルギーを動員したのでしょう。左右の二人を動かして、担がれたまま脚のある場所へと動き始めたのです。エネルギーが二人を動かした、通常考えられている〈力〉の概念ではとても理解できません。
「力には大別してふたつある。ひとつは目に見えるパワー、もうひとつがエネルギー」と宇城先生はしばしば言われます。
筋力などのパワーは、自分にも他人にもその動きが見えるもの。近年は、誰もが目で見て確認できる筋力のようなパワーだけが「人を動かす力」だと勘違いされています。
しかし現実には、目に見えない《エネルギー》が存在します。テレビが映り、携帯電話が通じるのは目に見えないエネルギーのお蔭です。人間にも目に見えないエネルギーが内在し、そのエネルギーを受信する能力も備わっています。それを宇城先生は気のエネルギーで体感・体験してくださるのですが、「自分の脚がある場所に移動しなければならない」という強い意志だけで二人の男性を動かしてしまうエネルギーが人間にあるという現実に改めて目を見張りました。
重要なのは、目に見えないエネルギー。それを人は誰もが生まれながらに持っている。しかし、大人になる過程でそれを閉ざす方向にばかり教育や社会は誘導してしまう。現在の教育と社会の価値観の重大な過ちを改めて突き付けられました。
「3歳の子どもができる。それなのに大人はできない。潜在能力を失わせるのが現代の教育です」
今回強調されたのは、「日本の財産」「人間性と人間力」という視点でした。
「日本の財産は何だと思います? それは人間性。そして人間性から創られる人間力。真面目さ、勤勉さ、約束を守る、だから新幹線も電車も時刻表どおりに運行される。それが崩れかかっている。《人間性》という、世界に誇る日本の財産を失ったら、日本には何も残りません。人間性は、衝突でなく《調和》が生み出す人間力につながります」
例に挙げたのは、思いやりの心が生む力です。大人たちのスクラムを筋力で押すのではビクともしない。けれど、傍らにいる腹痛に苦しむ人に寄り添い声をかけてから押すと簡単にスクラムは崩れてしまう。
「気は細胞に働きかけるからです。37兆個の細胞が瞬時に変化する。人間は95パーセントが自動操縦だから、気によって身体が統一体になった方がずっと重くなる」
そして鋭くこう話されました。
「自分さえ良ければ、という発想が国も人もダメにする。日本は《思いやりの国》。ところが権力者は庶民を騙そうとする。騙されない庶民になるには勉強が必要。頭で作った知識は役に立ちません。身体で知を作らないと」
子どもにはできる。大人にはできない。大人は《頭で考える訓練》ばかりを重ねてしまった。その結果、DNAの扉を固く閉ざす作業ばかりを熱心に繰り返し、感知する能力を減退させてしまった。
「子どもはみんなできる。信頼関係ができれば、どんどん潜在能力を開花させる。それはいまも変わりません」
続けて宇城先生は冗談半分に言われました。
「いまこうしてみなさんに体験してもらっているのは、みなさんを変えたいからじゃありません(笑)。子どもたちを変えたい、子どもたちはすぐわかる。だから、その邪魔をしないでくださいよ、と言いたいんや」
なるほどそうかもしれない。子どもたちが理屈抜きに感動しても、大人の余計な解説で開花が鈍る。あるいは、「気なんて胡散臭いから信用するな」と遠ざけようとする親もたくさんいる。せめて、子どもの感動にブレーキをかけない大人を増やさなければならない。
そうは言っても、宇城憲治先生が自在に操られる気のエネルギーの一端だけでも、自分で感じられるようになりたい。宇城先生がいない場所でも、気のエネルギーを活用し自分を変える、誰かの役に立つ、そんな実感を得たいという望みは捨てきれません。小さな一歩でもいい、自力でその扉の中に入る手がかりはないのか。そんな思いを携えて、この日の道塾に臨みました。
手がかりがひとつありました。道塾の数日前、宇城先生から送ってくださった資料です。それはエックハルト・トール著『さとりをひらくと人生はシンプルで楽になる』の一節。
《思考力(中略)が得意とするところは、情報の収集、保管、分析、さらにほかの思考に対する攻撃と防衛です。これらは、決して創造的な性質のものではありません。真の芸術家というものは、本人が自覚しているか、いないかは別として、思考がピッタリと止まった状態、すなわち「無心状態」で芸術を創造しているのです。思考活動が止まっていないときには、わたしたちはクリエイティブなひらめき、洞察力をかたちに出来ないのです》
これはまさに、文章を書く時の心の状態です。文章を書く時の感覚がどうやら多くの人と違うようだと自覚したのはここ数年です。気づいたのはもちろん宇城先生からの学びがあってのことでした。簡潔に言うと、文章を書く時、ほとんど何も考えていません。頭は使っていない。《思い》と《体の中に創った文章の生まれるメカニズム》がつながって自然に言葉が生まれます。自動筆記とは違います。書く時に強い意思も情熱もあるからです。けれど、考えてはいない。
文章を書く時の感覚で宇城先生の気のエネルギーを受け止めたら、これまでと違う目覚めに出会えるのではないか。そんな期待を抱いて、できるだけ頭で考えない、宇城先生の言葉を意味で捉えるのでなく心で感じる姿勢でこの日の道塾を受けました。すぐに何かが起こった実感はありません。けれど、ぼんやりとでも手がかりをつかめたようなときめきは感じました。
先生はこの日、再三言われました。「子どもはできる。だから邪魔をしないで」と。
私は邪魔をしない大人になるだけでなく、少しでもいい、自分もできる大人になりたい。そう願って、ひとつ閃きました。そうだ、子どもになればいいんだ!
道塾での学びと実践は続きます。ありがとうございました。
小林信也
(2025.7.8受講)









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