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宇城道塾 春季合同合宿が開催されました


去る2023年3月11日、12日、宇城道塾恒例の春季合同合宿が静岡県修善寺にあるホテルワイナリーヒルで開催されました。 東京、大阪、岡山、仙台、名古屋、熊本にある全国のクラスから、塾生55名が参加、寝食を共にしての2日間にわたる熱気あふれる講義・実践が展開されました。




初日3月11日は12年前に東日本大震災があった日であり、塾長は震災が発生した2時46分になると講義を中断し、東北方面に向かって全員で犠牲になった方々のご冥福を祈り黙とうを捧げました。

実践に先だち、まず「学と術」の違いについて、私たちが「学」と呼ぶものは、単なる知識であり、そこに実践や心は伴わないが、「術」は技術すなわち実践が主体で、そこに理論が統一され、さらに相手を思いやるという心が伴うものであるというお話がありました。

それを医療現場を例に、知識や資格で人を見る医学だけでは充分ではなく、そこに胃カメラやMRIといった人を助ける「技術」を実践活用することによって、格段と質の高い医療、すなわち患者に寄り添い、そこで築かれた信頼関係のなかで治療を施すのが医術であるというように、「学」と「術」の違いをわかりやすくお話しくださいました。 本来、人間は1個の受精卵が細胞分裂を繰り返し37兆個の細胞となって全体を成す個(人間)であるはずが、今、私たちは「学」すなわち知識・頭中心になってしまい、身体も心も部分化された状態にあること、「人は人(他人)、自分は自分」すなわち「自分さえ」というように、本来あるべき全体としての「人間」のつながりを自ら部分化して孤立を深め、そこから生じる不安や怯えが、今に見る様々な課題の要因となっている現状を指摘されました。 そうした「人に成り下がってしまった」状況から私たちが脱却し「人間」に立ち戻るためにどうしたらいいのか。「進歩成長とは変化すること、変化するとは深さを知ること、深さを知るとは、謙虚になること」すなわち「変容していく」ことが大切であると説いていかれました。それはまさに塾長が常に言われる実践です。 地球上のあらゆるものは目に見えないエネルギーを享受しており、特に植物や昆虫の世界では成り立っていることが科学的にも明らかにされつつあります。それは人間界でも同じで、2日間の合宿では、様々な検証を通して何度も人間が発揮する本来のエネルギーを体験し、「変容」に向かう実践が展開されていきました。

以下に、2日間の合宿の様子を参加塾生からの感想とともに写真と動画でお伝えします。


■調和による投げ(その1)


仰向けになり、両手足を4人が一気に掴まえる。

通常では4人に押さえこまれてしまうが、気をとおされ調和する身体だと、捕まえられる瞬間に投げることができる。





■調和による投げ(その2)

人数を増やして行なう。

「気」のエネルギーは、力の強い・弱い、人数の差などはまったく関係なく、相手を圧倒することができる。



両手足を、それぞれ3人ずつ12人に押さえられる 通常ではびくともしない

塾長が気を通した瞬間に、

12人は一気に崩されていく




■調和による投げ(肩を掴まれて)





■[動画1] 50人を引いて前進する





■[動画2] ① 50人を動かす

       ② 50人を「念」で回転させる

       ③ 自由自在の投げ






■サンチンで、気の通った身体をつくる


合宿2日目は、空手の型「サンチン」を稽古し、気が通り大地と繋がる身体をつくっていった。


塾長が示す手本をまねる塾生たち


型が正しくできているかどうかを、グループごとにじっくりと検証していく




2023年 宇城道塾 春季合同合宿 記念写真




<塾生の受講感想文>


●福島 公務員 54歳 HO


熱く、激しく、楽しい合宿をありがとうございました。


2日間、様々な検証を体験させていただき、心身にエネルギーがみなぎり、本当に元気になりました。


目に見えない波動、筋力ではないエネルギー、身体の調和力、人の真の力を幾度も幾度も体験させていただき、その素晴らしさ、次元の高さに心から感動いたしました。また、我々が、その真の力を封印する思考の刷り込みをずっとされてきたことも改めて強く認識いたしました。


「学」ではなく「術」

言葉だけの理論だけではなく、社会に意味を持つ実践こそ、我々が学び生きる目的なのだと思いました。それは経済という狭い意味にとどまらない、人の幸せの生産性に繋がるものなのだと思います。


デジタル化、コロナ禍により、リアルコミュニケーションが激減し、人と人との分断は一気に加速しました。昨今の悲惨な事件事故は、人と人との関係性が断ち切られ、孤立し、己も他者も尊重できない、自分さえ良ければなんでもいいという「ヒト」が増加したことが原因ではないかと感じます。