東京実践塾 感想文 2021年4月~ 2021年6月

●静岡 自営業 Y.F 宇城先生、毎回、途轍もない世界を指し示して頂き、本当にありがとうございます。  この4月から6月の稽古では、ブラックホールの映像をもとにした御指導があり、その中で、科学者の映像で、ブラックホールに飲み込まれて回転すると新たな宇宙、次元に繋がる、というお話がありました。これこそまさに手を繋いで回転し、先生に気を通して頂くと、衝突という低い次元から調和、という高い次元へ上がり、お互いに技が掛かってしまう事がそれに当たると思いました。そのマクロが大宇宙におけるブラックホールで、そのミクロが宇城空手の「気」であると思いました。  その宇宙のエネルギーをその場に生み出し、そして相手にエネルギーを与える事が、人間の感情で示すと、「愛」であるという事。それを様々な形で見せて頂いております。それは同時に、宇宙には人間でいう所の「愛」が溢れている、という絶対的な事実を知る事にもなり、この宇宙にはエネルギーが溢れている、エネルギーが無い、と思っているのは自分の我欲なのだと。それを知る事が出来ます。  宇城空手ではまさに宇宙の真理、法則と言える事が、机上の推論などではなくまさに自らの身体を通し、感じる事が出来ます。それを感じれば、感じる程に、宇宙の偉大さ、身体の素晴らしさ、それを伝えてくれる師という存在の有難さ、そして尊さをかみしめます。  組手の際にはその場に生み出された強い重力により全く動くことができなくなります。しかしその状態は相手を守る事にもなり、自分に攻撃しようとしてきた相手を愛で守り、そしてその相手の次元さえも高めてしまうという事を身体でまさに体感する事ができます。それは高い次元に登った存在は低い次元の存在を守りそして高い次元に引き上げる事ができるという、宇宙のまさに真理の部分ではないのかと。そこに感動せざるを得ません。  この宇宙の真理を身体で感じる事の出来る、宇城空手。高い次元に登る為の、現代にて現存する唯一無二の手段ではと思います。自分はこの「宇城空手」に自分の人生で出会えた事に、本当に有難い事なんだと。ここに出会えただけで、天から命をもらい、生まれてきて良かったと。心の底から思います。  宇城空手は勝ち負け、という低い次元の事ではなく、自らとの戦いであり、それは自らの可能性を自らで決める、という真の意味で人間は自由であるという事を型稽古、分解組手を通して、まさに身体の自由を取り戻しながら少しずつ悟っていきます。そしてその過程で我欲を取り去る事をも学びます。大きくなるにつれて失っていった、子供の頃には確かに感じる事の出来たその可能性。奪ったものは常識であったり、知識やスポーツであったりしたと思います。その失った可能性を宇城空手を通し、取り戻す事ができます。そしてその道を歩めば、同じ道を歩もうと悩み、苦しむ人達の次元を上げる事もできます。  平和ボケし、健常者の病気を患っている自分は、やはり日々の中で、せっかく先生に稽古で次元を上げて頂いた(気を入れてもらった)のに、日常に戻ると、すぐに目が虚ろになり、今までの自分の人生の常識という檻の中に自ら無意識に入ってしまいます。そうなると身体を動かすと疲れが溜まり、人の事が気になりだして気を入れて頂いた時の清々しい心が無くなってしまいます。  先生の教えをいくら受けたところで、日常での実践がなければ、教えを受けていないのと同じです。5月の稽古でダウン症の男の子が稽古に見学に来られて、挨拶の検証を行い、見事に多人数を押してみせました。そしてその後、その子が毎日挨拶をするようになったと先生からお話がありました。これこそ、まさに稽古で学んだことがそのまま、日常に表れているという事だと思います。  小学二年生の女の子の映像を見せて頂いた時、本当に衝撃でした。あの目、姿勢、身体中に居着きが無く、本当に伸び伸びとしていて、如何に自分が固いのか、呼吸が止まっているのかを知る事が出来ました。そして思ったのは、空手が大好きなのだという事、真剣、真剣ではないなどの意識もないくらい、自然体でそのような状態である事です。また目、あの目が本当に真っ直ぐでいて、こちらに貫通してくるかのような真剣な眼差し。これは入られてしまうなと思いました。  剣の御指導では、剣の握り、など本当に、もうこれ以上はないぐらいの丁寧な御指導で、だけど内容はまさに極意と言ってもいいようなレベルのもので、本当に自分はその御指導を受ける、教えを受ける事ができて本当に幸せだと感じました。現代で、最高峰の剣の達人である先生から、剣の握りから、本当に丁寧に御指導頂けるなど、本当に、本当に有難い事だと思います。剣の稽古は(無論空手もですが)先生から御指導を受けるという事は本当に一番恵まれている事だと思います。  そして剣の稽古で得た身体の感覚を空手にフィードバックしていかなければと思います。この3カ月の稽古では剣、子供の真剣さ、ブラックホールと宇城空手と、本当に、今まで以上に、自分のこれまでの人生の中でも、本当に修行のためになる、自らを変化成長させる御指導が沢山ありました。そのような稽古、そのような時間を過ごさせて頂ける、あの場、あの時間は、本当に自分の人生の中でも尊い時間だと。そのように思います。  そしてその場で自分が何を学び、何をこれからしていくのか、自分は何の為に、この宇城空手を学んでいるのか。そのような自覚をもっと持たなければ、ならない。今までのスピードが遅かった分、もっと真剣に、宇城空手に向き合い、自らを変化、成長させ、幸せになり、そして周りの人々をも幸せにする事ができるようになりたいです。あとは自分がどれだけ深く、真剣に人間本来のエネルギーを引き出す事の出来るこの宇城空手と向き合えるのか。全ては自分次第だと、思います。  今年も半分が過ぎてしまいました。しかし、毎月の稽古では、本当に普通に生きていたら、絶対に、一生かかってもあり得ないくらいの経験、体験をさせて頂きました。そこで得た一触を、点を線とし、面として、と自分の次元も上げていきたいと思います。  この半年、本当に素晴らしい稽古、そしてその中でも素晴らしい経験をさせて頂きました。この稽古の一瞬、一瞬に本当に大事なことが詰まっています。あとはそれを自分が目盛りを増やして、気づく事ができるかどうかだと思います。  ここで得たものを更に深め、自らの成長に繋げていきたいと思います。  引き続き、御指導、御鞭撻の程、何卒宜しくお願い申し上げます。




●東京 会社員 K.I


私は、奥歯の歯肉が痛んで夜に眠れないことが何度かありました。脂汗を流し、身もだえする痛みが走ったときの私は無力さを痛感しました。病や怪我に苦しむ人の気持ちに共感できたほどに。


 そのときに稽古での学びを思い出しました。木刀を握る手つきにし、手のひらで頬を包み込むようにしてみました。マジックで描かれた、つかむ部位2か所を痛むところに当ててみました。その2か所の間にある、気の通り道にはすきまを空けるようにしながら。


 不思議なことに、痛みがいくらか和らぐのを感じました。耐え難い痛みが数時間続いていたところ、わずか数分で変化が訪れました。同じ痛みも持ちこたえれる程度になり、次第に収まりゆく希望を持てました。痛さの中、次のことを計画できたり、楽な方向に進むプロセスを感じました。そのまま眠りに落ち、翌朝の光で目がさめて不思議な感じがします。


 寝ている間には、木刀をつかむ感触が手元に感じられました。色や質感をそのままに、生々しい感触とで現実と区別がつかないほど鮮明に稽古時の様子が目に浮かびました。木刀を握るときのコツを思い出すときでもありました。握るというより、手をそえる、支える感じで力まない自然体を実感できました。


 相手方との稽古で、教えていただいたことが再現された余韻があります。つかまかれたときにもひとつになる、衝突の力や雑念を鎮めることなどで。偶然のできごとで終わらせず、再現性のある学びと実践を心がけたいです。


 焦りを自分から消し、状況の変化にも同化できるかどうか、が大切な課題です。意識では分かったことすらも、現実的にはどうしても固く反応してしまう私。明らかに無効な事は初めからせず、お手本を無心に映し出そうという心持ちが増えてきて、新たな心持ちで取り組めるようにしたいです。


 今ここでどうするのか、専心する心がけが大事なのだと。明確な指針を支えに、試行錯誤のプロセス、フィードバックを繰り返すことで、同じ事でも、出来不出来の度合いと幅から、密度の深め方に目標ができます。先輩方の背中を見て実感し、助言いただいたことに重みを感じられます。自分の心身を整えつつ、内面を充実させていくことに希望を持てます。


 日頃の予防、適切な対応を基本とし、状況と一つになる感覚を体験できます。

このことも稽古の一環に、心身の安定や物事との調和につなげていきます。




●東京 会社員 D.S.


本年4月より、稽古に参加させて頂いております。宇城先生、榎本先生、御指導誠に、有難うございます。本当に沢山のエネルギーを頂いて、感謝と感激で一杯です。


 初回の稽古では、冒頭のブラックホールと重力のお話からその後の実践まで、全て一貫して筋があり、「エネルギーと時間・重さ」というテーマが根本にあることをはっきり認識することができました。事理一致の稽古とはこうあるべきなのかと、新鮮な感動を覚えました。


 稽古で最初に御指導頂いた木刀を扱うときの手の内の繊細さには、ただただ驚くばかりでした。掌(たなごころ)を最初にあて、その後静かに小指~中指を巻き、同時に親指をかぶせる。手の平の中心から気が発するので、そこと柄のあいだには空間がなければならない。相手に木刀を握ってもらって崩す検証をするときは、押すことを意識せず、木刀に触れた瞬間にゼロ化する稽古に努める。このような御教授を頂きながら、稽古への参加をお許し頂けた幸せを噛み締めておりました。


 レベルの低い師に就いたり、我流であったりすると、一生出会うことのない学びだと感じました。これから更に多くの発見があるのだと思うと、文化、宇城空手の偉大さを感じるとともに、次回の稽古への希望を覚えます。


 自由組手の時に、私の中で気が途切れてしまった瞬間があったのですが、まだ気が通った状態を保っておられる方先輩に投げを打たれると、再び私にも気が通って、技もきまるようになるという体験を致しました。できた、との実感から思わず喜んでしまいましたが、そのすぐ後に先生は、「できた」と思った瞬間にできなくなるのだということを、実践で示して下さいました。 


 まさに「できた」と思ったばかりの私の慢心を、即座に戒めて下さる御指導でした。多くの塾生を相手にしながら、個別に言葉を交わすわけでもないのに、何故このように、個々に合った指導を実現できるのか。しかも、同時に。底知れない宇城先生の人間力に、唖然としてしまいました。そして、謙虚であれというのはただの精神論ではなく、人の脳と身体の仕組みに沿った、極めて実践的な教えである事を学びました。


 御講義の中で、仕事と時間軸のお話をして頂いたことがありました。その場しのぎを繰り返す短期視点、そこから少し進んで3~5年を見通す中~長期的な視点、そして一生を見通す武術の視点。世間的には、3~5年のビジョンを持つことすら困難なこととされています。とすれば、武術の視点を持つ宇城先生がどれだけ次元が違う存在であるかがわかります。師には、世の中はいったいどのように見えておられるのだろうか。少しでも師の視点に近い目を持ちたい、精進しなければ、と思った御講義でした。


 初回の稽古以降、頂いた火種を大切に反芻し、しかし自分の中に閉じ籠るような反復動作、独りよがりの考え込みにならないように注意しながら、一人稽古に挑戦しています。剣を握る時の手の内の感覚を足の裏にも持って行ったらどうなるだろう、などと工夫しながら、稽古に取り組んでいます。


 剣を持つと、徒手の時いかに自分が好き勝手に動いていたかがわかります。最初は、剣を真っ直ぐに降ろすことさえ、ままなりませんでした。しかし無心に繰り返すうちに、剣の存在を忘れ、気が周囲の空間に広がるような感覚を覚える瞬間がありました。この時、身体の動きは特に意識せず、ただ型をなぞるような心持であったように思います。このような瞬間を日々の稽古で繰り返し体験するうち、段々と剣を真っ直ぐ振れるようになってきました。この変化がまた嬉しく、かつてない充実感を味わっています。一人稽古が、こんなに楽しいものだとは知りませんでした。


 そして徒手での空手の稽古では、剣を持った時の感覚を蘇らせながら、基本稽古・型を行います。しかしすぐ勝手な動きに戻ってしまうので、剣の素振りに立ち返り、少しずつ空手の動きにフィードバックできるよう心がけています。


 空手実践塾への参加をお許しいただく前にも、筋力による力と武術の力(気)の違いは道塾で4年間体験させて頂いておりました。しかし、なぜこんなに違うのかがおぼろげで、その違いを人に伝えようとしても、上手く伝えられませんでした。


 しかし、実践塾での稽古を経て、筋力は危機(周囲の環境や迫りくる敵)に対して耐えるという対処しかできないのに対し、武術における力は相手を変化させる、極端に言えば自分を殺そうとする敵ですら友達に変えてしまう様な次元の違う力なのだと思いました。


 稚拙な感想ですが、しかしようやく、両者のレベルが違う理由が腑に落ちました。相手を包み込み、調和し、相手のレベルを引き上げることによって自分へ危害を加える存在ではなくしてしまう。これは愛であり、宇宙の真理だと思います。高みへ向かえば、そこには愛があり、争いはない。だから宇城空手は武道の究極形である。


 その宇城空手を、学ぶ機会に恵まれたということは、私は奇跡だと思います。そしてその奇跡を授かった者は、一人革命を通じて、その恩恵を社会に還元せねばならない。これは我々塾生の使命であると、強く思いました。


 初めての稽古からまだ2か月、無限の希望と、底知れぬ深淵を探究する道に立った緊張感とが交錯しています。そして、これから毎月、稽古に参加できる事が本当に幸せです。


 宇城先生、榎本先生、実践塾の諸先輩方、どうぞ今後とも、御指導の程宜しくお願い致します。