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宇城教師塾開催 〈感想文紹介〉

去る2020年11月26日(木)、宇城憲治塾長による2020年度第3回教師塾が、ハートピア京都にて開催されました。

教師塾は、宇城道塾の塾生であり、教員である森島伸晃氏が、宇城先生の学びを一人でも多くの教師仲間と共有したいという願いで実現した塾で、年4回(4月から開催)行なわれています。





 

以下に、教師塾に参加された塾生の方々の感想文を紹介します。


教師が同じ仲間と共に学ぶ中で、進歩・成長・変化していく様は、閉塞状況にある今の日本において、止まらず迷わずあきらめず、希望を持って前進するひとつの原動力となっています。何より、教師の変化は子供たちの将来への大きな希望となっています。




第3回宇城教師塾 受講感想文



< 30代 男性  大阪  中学校 >

宇城先生、とても多忙な中、本日の教師塾にてエネルギー漲るご指導をしていただきありがとうございました。

全ての言葉が自分の心に深く落ちるような事ばかりで、自分の普段の指導内容、言葉掛け、自分の発するエネルギー、空気感を再確認することができました。


今日の中で特に自分の中で残ったのが、不使用の訓練の話でした。できないことを身体に教え込むことで本来の人間が持つ可能性を自ら潰してしまっていることにハッとしました。私自身はできないことをできるようにするためにしているものだと思い込んでいましたが、本当は全く逆でできないことを身体に教え込んでしまっているのだと初めて気付きました。学習においても同じことが言えるのではないかと思い、日々の教科指導の方法や伝え方を変えていかねばならないと痛感しました。我々は子どもの持つエネルギーを高めていかねばならぬ立場でありながらそれを落としてしまっているのは本当に次元の低いことをしているのだと感じました。


日々目の前にあることにいついて物事をぶつ切りで見てしまっている自分の視座を高く持ち、全体のエネルギーを高めていくことこそが自分とその周りの加速度を高めていくことに繋がると強く感じます。

本日先生からいただいたエネルギーをまた明日からの生活に活用していきます。 また今後ともご指導ご鞭撻のほどよろしくお願い致します。

ありがとうございます。



< 40代 男性  兵庫  高等学校 >

宇城先生、ご指導ありがとうございました。コロナで心身ともに影響を受けている中で、先生から直接学べる機会は明日への希望、エネルギーになっています。

生徒との接し方、指導について深く考えることができました。最近生徒との関わり、距離感に悩んでいました。コロナのせい? 自分はどの道に行きたいの? このままで良いの? 自分は? 生徒は? と自問自答を繰り返し考える日々でした。


手をかみ合わせて相手に引っ張って離してもらう検証では、まさに自分の指導そのものでした。無理やり力で離そうと対立する自分。離れないならさらに手をたたき厳しくする自分。よしよしと撫でて相手と調和することは自分のなかではあまりありません。厳しくする意味をもう一度考えないといけません。言うことを聞かない、指導に乗らない=悪い生徒。自分の言うことを聞く、指導にのる=良い生徒。自分の思い通りにいかないことに自分が腹を立てていただけ。そんな感じがします。もっと意見が言える環境にもしていかなくてはいけません。宇城先生は私たちのすべてを受け入れていただいています。男女、年齢、国籍、一切関係なくすべての方を包み込んで下さり、さらに明日への活力、希望を与えて下さいます。自分は……。生徒に申し訳ない。


いくら手を撫でて離そうとしても、前の行動がダメだと離れませんでした。良いとこ取りのかっこつけでは生徒、人を引き付けることはできません。前に立つリーダー、指導者がどうあるべきか。勉強しかありません。自分が生徒に映る。大きな役割があります。常識や偏りからなかなか抜け出せませんが、自分ではできない世界を先生から体験させていただき、実体をみせていただき、導いて下さっています。行動していきます。

今年もご指導ありがとうございました。来年もよろしくお願い致します。



< 30代 男性  京都  中学校・高等学校 >

昨日は、本当にご多忙の中、第3回教師塾でご指導いただき誠にありがとうございました。新型コロナウィルス感染が再拡大の中、教師塾を実施し、エネルギーをいただき希望の光を照らしていただいたことに心より感謝致します。


「実証ありき!」 地球は丸いが、丸いということを実際にみたことがあるのか。自分たちが生活をしている場所は、実際には水平で。止まっていて。ということ。それをあたかも自分が実際に体験・経験した実証したかのように錯覚して頭に違う形でインプットされある種のバイアスがかかってしまう。結果、身体も含め思考停止状態に。当然のことながら身体や発する言葉からはエネルギーが出るわけもなく、孤立する。周りを引っ張っていくことなどできるわけもないということを改めて学び、素直にオープンに、自然体でいることの大切さを感じました。


それを一番感じたのは、四つん這いになった人の手足を大人数で抑え中心の人が前に引っ張る検証でした。先生に気を通してもらうと引っ張ることができ、次にその人が前に立つと引っ張る人が増えても引っ張ることができる。「できた」という人からの波動・エネルギーがつながるということ。一番ハッとしたのは、先生が「人数が増えた方が簡単なんだ」ということ。私たちのこれまでの常識だと人数が少ない方が簡単というのが当たり前で、増えると無理ということがインプットされている。そうではないということ。仕事場でも同じことが言えると。エネルギーがあれば大勢の方が簡単。要するに今の現場が変わっていないということは、自分にその力がないということを教えていただきました。


これまで宇城先生より『教師塾で学んでいるのであれば、他の先生たちとどんどん差をつけなさい』このことは何回も言われてきた言葉でした。差をつけるということは、決して引き離すということではなく、包んで引っ張っていく。ということだったのだと。

教師塾を開催し続ける中で、自分自身が果たすべき役割は、エネルギーある宇城先生に一人でも多くつなぐということです。引き続き、ご指導のほど何卒よろしくお願い致します。



< 30代 男性  三重  高等学校 >

「身体で感じる」

ずっと私の中でキーワードとなっている言葉です。

 今回、自分の身体の中で体中が熱くなっているのを実体験しました。今までの教師塾では全くなかった初めての経験でした。寒い中、外でランニングをしたわけでもないのに、身体は温まっていました。何か内から湧いてくるものがありました。それを確かに実感できました。宇城先生や同志の仲間の方、場の雰囲気によって引き出していただきました。


常日頃、自信をつけることの大切さをみなさんおっしゃられます。自信とはどうやってつけるものなのだろうか。優勝したら自信はつくのでしょうか。難関大学に合格したら自信はつくのでしょうか。

今までなら、結果を出してなんぼだと思っていました。結果が出れば、そのやり方は正しい、出なければ間違っていると。しかし、根本は当人の問題なんだと。その本人ができると思っていればできるし、思っていなければできない。まずは自分を信じることだと。その自分と調和し、前進していくことで自然と自信はついてくるものだと分かりました。創らず、飾らず、ありのままの等身大の自分自身と向き合い、正直に今を生きること。まずはここから始めなさいと宇城先生におっしゃられたように思います。


 私はこの3月をもって、高校の現場を離れます。4月からは新しいステージで自分自身と勝負していきたいと思っております。公務員を辞め、新しいことに挑戦することへの希望しか今はありません。自分自身でこれからの「未来」を創っていきたいと思っています。そして、本当の意味で「実力」が問われると思っています。綺麗ごとでは済まないこともよく分かっています。しかし、そこに挑戦することでまた新しい「何か」に出逢えるようにも思います。


誰が前に立つかで、映せるか、映せないかが決まるということも実証していただきました。実際、一番前で進ませていただき、エネルギーのある方が前に立たれると、不思議と自分自身に力が湧いてきました。やれるんだという気持ちにさせていただきました。自分が他の方を引っ張っているように見えましたが、自分自身が一番みなさんに引っ張っていただいていることもよく分かりました。 

これからやってくる若い人たちと接する者として、良い方向へ導くことのできる導き星となれるようこれからも日々、自分自身と向き合ってまいりたいと思います。

最後になりましたが、この教師塾開催にあたり、見えないところで汗を流してくださいました皆様、そして宇城先生、誠にありがとうございました。



< 40代 男性  奈良  大淀高等学校 >

昨日は、教師塾にてご指導いただきありがとうございました。会場で感じた宇城先生からの熱い想いに言葉にならないくらいの期待を感じています。

真実とは何か。私たち大人がそれを知らなくて、どのように子どもに接するのでしょうか。実体を知らなくて、教育に携わることは罪なのだと感じました。同時に、日本の教育がいかに完成形の子どもたちを破壊しているのかを知ると自分自身の毎日の活動がとても怖くなりました。宇城先生から学ぶことは、それまで私が是としてきたことと反対のことばかりです。生み出すエネルギー、つながるエネルギー、相対から絶対、と今までにない物差しを知ることができました。実体を知れば知るほど、絶望感を味わいます。その実体のない教育界には犠牲となっている子どもたちがたくさんいます。不登校、支援、暴力行為、低学力、学校が抱える悩みの全ての解決方法が宇城先生の教えにあります。今の学校現場に解決方法は見つかりません。だから、子どもたちが悲鳴をあげています。でも、実体は、希望は、この宇城先生の気にあります。


宇城先生が昨日の講義で、私たちを大きな愛(気)で包みこんでいただいたように、自分自身も学校で、クラスで、家庭で、職場で周りの子どもたちや同僚の方たちといっしょに成長していけるような存在になりたい。ならなければならないと思います。教育に答えはありませんが、教師塾には答えがあります。子どもたちは答えを知っています。子どもたちの未来のために、自分たちの出番という気概で「一人革命」に邁進します。


宇城先生からいただくものは、希望、勇気、元気、挙げればきりがありませんが本当にありがとうございます。

今年1年間コロナ禍のなか止まることなくご指導いただきありがとうございました。来年も先生のご指導のもと学ばせていただきます。よろしくお願い致します。



< 30代 女性  京都  中学校・高等学校 >

宇城先生、教師塾でのご指導ありがとうございました。まず初めに、コロナ化におけるマスクの危険性について述べているニュース動画を見て、専門家であっても問題の本質を捉えずに曖昧な見解を出していることを知りました。保育現場の先生方は、実態をもとに子ども達の変化を感じているにも関わらず、専門家である医師はそこに対して具体的な対策を提言することができていませんでした。酸素不足になると発達障害を引き起こす可能性がある。そういった情報を知らずに、ただなんとなく与えられた情報で物事を判断してしまっている。まさに死に体の状況は今の自分にも当てはまることでした。最前線で実践を行なっている私たち教育に関わる人間こそがきちんと学び、正しい知識を得た上で判断していくことをしなければ、子ども達の能力を奪ってしまいます。教師が学ばなければ生徒を救うことができない。まさにそのことを痛感した瞬間でした。


四つん這いになった男性の両手をたくさんの人がつかみ前に進む実践では、前に立つ人によって前に進むことができるどうかが変わりました。一度前に進むことを経験をした人が前に立つと、次の人も前に進むことができました。宇城先生によって潜在能力を引き出していただいたことで自分の身体が持つ可能性に気付き、自信がついたことで前に立つ姿にエネルギーが宿った瞬間です。前に立つ人の姿勢で、そこにいる集団の空気が変わる。まさに、リーダーの姿勢が組織の姿勢になるということを実感しました。クラスの生徒が落ち着かない、学校に勢いがない、全ては自分の姿勢次第ということです。

一緒にやろうと言っても誰もついてこないのは相手が悪いのではなく自分の責任です。自分が変わることでしか、目の前の生徒や学校組織を変えることができないということを改めて感じました。たくさんの人と協力し共に歩んでいけるだけのエネルギーを自らが発する存在であれるよう、日々学びを続けていきます。

また、今回は様々な実践を通じて自分の中に対立の構図がすり込まれていることに気づくことができました。2人組で倒された人は倒されたままで相手を倒すという行動に出る気すら起こらないし、倒した側もその場に居ついてしまい、次は倒されるということに気づけていない。人数が多い=より引っ張られるので前に進めないと思い込んでいるが、より多くの人の応援をもらえると考えられれば、むしろ力に変わるということに気づけていない。どちらも無意識のうちに相手との勝ち負けや、正解・不正解を決め付けているから起こることです。自分へのすり込みを取り除くことができなければ、生徒達にも同じような構図をすり込むことになってしまいます。教育が果たすべき役割は、宇城先生が私達に実践してくださっているように、潜在する力を引き出すことで自分が持っている本来の力に気付き、自分を信じて前に進む力を取り戻すことです。良い生徒=エネルギーがない生徒という言葉を聞き、言うことを聞く良い生徒(生徒だけでなく教員もですが・・・)を量産してしまっていることに恐怖を感じました。今、学校現場が真逆の方向に進もうとしていることへの違和感に気づかぬふりをするのではなく、自分の身体が感じている違和感を信じ、前に進んでいこうという勇気をいただくことができました。行動することでしか周りとの調和を生み出すことはできません。たくさんの人を大きな愛で包み込めるような存在で自分があるためにも一人革命あるのみです。


「教師塾で学ぶ先生は差をつけなければならない。」

という宇城先生の愛あるお言葉に恥じぬ自分であれるよう、宇城先生から学ばせていただいていることを実践に変えていきます。教育が変われば子ども達がかわり、日本の未来が変わる。そのような責任ある仕事に関わらせていただいていることを心に留め、日々精進してまいります。


宇城先生という師と出逢い、同じ時代を生きることができることに心から感謝しています。宇城先生に学ばせていただくと、自分の身体にエネルギーが満ちていくことを感じることができます。教師塾での実践でも、実践を重ねていけばいくほど皆さんの表情が笑顔に変わっていきます。宇城先生の周りが笑顔で包まれるのは、誰よりも先生が相手を思い行動されているからです。私も宇城先生のようにたくさんの人を笑顔にできるように、頭でっかちではなく行動で示せる教師を目指していきます。今後ともご指導よろしくお願いいたします。



< 30代 男性  三重  高等学校 >

コロナウイルスの影響で、今までとは異なる生活を強いられている私達。そのコロナウイルスに表面上、形だけで対処しようとしている自分の浅い行いに気付かせていただきました。特にマスク越しのコミュニケーションからは感情が読み取りづらく、すれ違いがあることや共感、受容の面で子どもへの影響が大きいことを学ばせていただきました。この時代に育つ子ども達の今だけではなく先々のことを考えなくては危険であること。そして、マスクを外すことで人間が本来持っている力が発揮できること。そして人間の強さを宇城先生の実技指導を通じて真実として教えていただきました。マスクをするしないを場によって使い分け身体の密度を高め、自分自身のエネルギー、周囲のエネルギーを高めていくこができればと思います。マスクをしない生徒、マスクをする生徒が自分の目の前にはおります。マスクをしたがらない生徒の中には本当にエネルギーの高い生徒がおります。今までは、ただ面倒くさいからしない、気になるからしないのだと思っていました。ですが、その生徒なりに人間の本能としてそうしたくない何かが働いているのではないかと宇城先生のお話を聞かせていただき感じることができました。だからこそ、マスクの身体への影響と場に応じてマスクを付けることができる適応力を育んでいかなければいけないと思います。


自分は余裕がなくなると、生徒とのやりとりが特に横着になります。その際に、ふと出る心ない言動や行動が生徒からの反発を生んでいます。力ずくで相手を引っ張ることの愚かさ。脆さ。頭で考えて、感情で物を言う自分が作る空気。自分に足りないものを宇城先生の実技から学ばせていただきました。相手を想い、手を肩に差し伸べることで、信じられないほどのエネルギーがお互いから出る。何も分かっておりませんが、気付きをいただきました。子どもは大人をよく見ています。目の前にいる生徒は忖度をするような生徒はあまりおりません。直感で生きている生徒がたくさんおります。空気は作ろうと思って作れるものではありませんし、作るものでもないと思っています。生徒を愛すること。自信を持つこと。謙虚になること。それらが今の自分には大きく欠けています。教師塾という場は宇城先生をはじめ、そのような空気をお持ちの先生方がたくさんおられます。その場で学ばせていただけることに感謝するとともに、起こっている事実を自分の小さい器で判断する横着な自分を少しでも変え、誤魔化すことなく受け入れ、知らないことの深さを知ることが大切だと感じています。


最後になりましたが、いつも御指導をいただく宇城先生、見えないところでたくさんのご準備をしていただいているどう出版の皆様、事務局の先生方、教師塾の先生方、ありがとうございます。この学びを深めて、未来のある子ども達とともに精進していきたいと思います。本当にありがとうございました。



< 20代 男性  京都  小学校 >

先日の教師塾では、大変貴重なご講義をありがとうございました。

教師塾の全体を通して、実体でないものが世の中にたくさんありふれていると感じました。その中で、自分が生きており、子ども達も生きています。特に、このコロナ禍では、色々な情報が溢れ、何が実体なのかもわからないまま生きていると思います。実体が何かを掴まなければ、また、知らなければ、全ては部分体となってしまいます。ご講義の中で、身体に気が通った人が四つん這いになった前に立つ場合と、何もしていない人が前に立つ場合とで大きな違いがありました。四つん這いの人の顔も目つきも、パッと瞬時に変わる。一目瞭然でした。そして、自分自身はと言うと、後者の何もしていない側の人間であると感じました。身体に気が通り、実体を掴んでいる人が、教室の中で、学校の中で必ず必要な存在になると感じます。その存在に自分がなれているのか。それは慣れていないと感じます。なぜなら、「地球が丸い」「マスクでコロナウイルスを防ぐ」など、知識として知っているだけの存在だからです。その知識も正しいとはわかっていない場合もあります。知っていること、これまで学んできたものは、全て共通して実体ではないと感じます。しかし、宇城先生に気を通していただいた際の自分の変化は、実体そのものであると思います。その自分に近づいていく努力が必要だと思います。「1に勉強、2に勉強、教師は人の何倍も勉強しなければならない」というのは、まさにそのことであると感じました。


現在、小学校の教諭をしておりますが、その中で強く感じることは、「担任」という肩書きに頼っている自分がいると言うことです。「担任だから」と言って子ども達に言い聞かせている自分がいます。子ども達を導く際に必要なことは、全ては「信頼」と言うことに尽きると思います。宇城先生のご指導の中で、子ども達と接する場面をたくさん拝見してきました。その際の子ども達の輝いた目は忘れられません。その目こそ、「信頼」の証であると感じます。自分には、到底宇城先生のようなことはできません。無知で、横着ばかりです。それを受け止めて、今の自分にできることを一生懸命に取り組んでいきたいと思います。そして、子ども達の目を輝かせるような教師になれるように努力していきたいと思います。



< 50代 男性  京都  中学校・高等学校 >

「空気が違う、雰囲気が違う、その場はなにか違うものが漂っている、どうしてこんなに投げとばされるのか、どうしてこんなに投げとばすことができるのか、この力はどこから来るのか、いや確かに自分の力でもある、エネルギーが湧いてくる、身体が活性化してくる。」

宇城塾に参加していつも私が感じるものです。普段の自分の世界とのギャップを感じます。普段いかに自分がボーっと生活しているか、甘い環境に身を置いて周りに対して不平・不満を言っているのか、そんな自分と接している生徒はどうなんだろう、思い知らされる時間でもあります。


また、今からこのギャップを埋めるために動きます。まずはまっすぐ立ち姿に勢いを持たせ、しっかり周りを見ることからし直します。「少しでも持って帰って」のお言葉、ありがたくいただきます。

 宇城先生ありがとうございます。スタッフの方々ありがとうございます。



< 20代 男性  京都  中学校・高等学校 >

今回はこのコロナ禍の中、わざわざ京都までお越しいただき、ありがとうございました。また、非常にご多忙の中に置かれましても、我々のために貴重なお時間を割いていただき、本当にありがとうございました。感謝の気持ちでいっぱいです。


まず感想についてですが、「書けない」というのが本音のところです。時間がない、書く気がないなどではなく、「書けない」のです。今までも教師塾などで宇城先生のパワーを感じることをしてきました。その時は感想というものを書けました。目で見て感じたこと、肌で感じたこと。体験して思ったこと。自分の心境の変化。それを文字で表現することができました。ですが、今回はパワーが凄まじく、自分が感じたことをうまく頭でまとめて表現することができません。こちらの受け取る器を大きく上回るエネルギーだったのからだと思っております。このような表現でしか自分の浅さを表すことができないことすら悔しく思います。


ただ一つ言えることは、間違いなく宇城先生のパワーが以前に比べて非常に大きく深くなっているという事です。もちろん、宇城先生に自分が出会う前、そのもっと前から宇城先生は私たちには想像のつかないような努力(この表現が正しいのかはわかりませんが…)をされているのは明白です。ですが、今現在において、またこのような状況下でも、自分を見失わず、ただただ自分のすべきことに実直に取り込まれ邁進しておられる。今でも間違いなく一日一日成長しておられるという事です。


それに対してこの一年の自分は何をしていたのか、何もしていなかった、なにも成長していなかった、という事実が明るみに出たという事です。恥ずかしながら宇城先生にお会いするまでその感覚はありませんでした。毎日前に進んでいると思っていました。自分がその場に居着いているという事に気づいていなかったことが本当に悔しく恥ずかしいと思っています。


教師塾にて宇城先生にお会いすることは感想を書くことがすべてではないと思っております。感想を書くという事は非常に重要かつ意味のある事です。しかし逆にこの「感想を書けない」という事が非常に重要であり、今の自分にとって一番意味のある事なのではと思っております。

次宇城先生にお会いできる時、自分は何を感じるか、感じれるようになっているか。そのために何をすべきか。もう一度自分を見つめなおしていきたいと思います。



< 30代 男性  京都  中学校 >

先日は教師師での御指導ありがとうございました。

『教師塾で学んでいる先生方は、他の先生たちと、どんどん差をつけないといけない』

あの言葉に凝縮されているように思います。


宇城先生の講習会を受けた後に湧き上がるエネルギー、参加した方との一体感。バラバラの一人一人が一つになる。なりえる。それが、人間の持つ力。

先生が、手足をはがいじめにしている状態から前に進むことができるようにしてくださり、それを体験した方が前に立つと、前に進めるという不思議な空気にいっぺんに代わり、それを体験していないものが立つと、絶対に前には進めないと言える空気、雰囲気になります。全てはそれが事実です。全てです。子供たちはそうして変わっていく。子供たちを元気に、明るく希望を与える。それが教師の使命。

そのためには、今までの自分で理屈や経験値というどうしょうもない物差しでは、エネルギーは与えられない。素直に真っ直ぐにただ事実と全てを受け入れることこそが大事だと気付かされました。そのためには悩むこと疑うことではなく、ただ行動あるのみです。やるしかありません。真面目では決してたどり着けない世界です。真剣しかありません。エネルギーを生み出す人間の本当の力を見せていただき、希望を頂き感謝します。

本日は貴重なお話、体験をさせて頂きありがとうございました。



< 30代 男性  京都  中学校 >

今回もご指導いただきありがとうございました。

講演会の後には、元気がみなぎり、やる気に満ち溢れすごくエネルギーをいただくことができました。

翌日の生徒たちへの関わりも、昨日までとは違いさまざまなところに気を回すことができたように感じました。自分の内面のエネルギーが落ちていることを改めて気付くことができました。自分自身に余裕を持ち、生徒たちにエネルギーを注ぎ、また、生徒たちからエネルギーを与えてもらい、日々過ごしていこうと思います。

また、自分の授業も、説明ばかりになってしまっていると反省しました。生徒たちが興味を持ち、考え、答えを導きたくなる問いや発問を考え、思考が止まることのないようにしていきたいと思いました。

今後とも、ご指導ご鞭撻のほどよろしくお願いいたします。



< 20代 男性  奈良  高等学校 >

第三回の教師塾では、常に私たちは常識を疑わなければならないという学びを得ました。私たちが日頃から何気なく口にしている常識や概念といったものは例えば社会的、あるいは主観的なバイアスがかかっていることを認識する必要があります。これを無視して生徒や人と接することは自分自身恐ろしいことだと思います。なぜならその世間一般で言われている常識が嘘で作り上げられている可能性があるからです。生徒との関わりの中でヒドゥンカリキュラムとしてそのようなある種間違った常識を植えつけてしまうことは恐ろしいことだと思います。まさに負の連鎖、悪循環ではないでしょうか。だからこそ私たち教員がそのような常識、概念を認識した上で生徒に本質的なものを見る力を養ってもらうため、私たちの日々の関わり方も変えていく必要があると感じています。


今回の教師塾でも実践を通して体で感じることをまさに「体感」しました。まだ自分でこうするべきだという確固たる答えを持っていませんが、正直に接していきたいと思います。そして自分自身が学びを止めないことを肝に銘じたいと思います。

ありがとうございました。



< 20代 男性  奈良  高等学校 >

今回もコロナ禍の中、また、大変お忙しい中、貴重な体験をありがとうございました。

先生が見られている次元では、世界はどのように見えているのか、また、気の流れは見えているものなのか、それとも感じるものなのか。ただただ疑問に感じる時間でした。

周りと差をつけるが、勝つ負けるではなく、あくまで一人革命によって周りを包み込んでいく取り組みを実践していかなければならないという責任を感じました。


毎回、教師塾が終わった後は、どこか清々しく、身体の芯からポカポカと温かな熱を感じます。その状態がエネルギーを頂けた感覚なのではないかと思い、生徒たちにもぜひ体験してみてもらいたいと思います。


しかしながら、未だ教師塾で先生に体感させていただいたことを「やってみせる」ことがなかなか難しく、教師塾の中では「できていた」自分が、生徒の前では「できない」ことが多くあります。その度に、「また頭で考えてしまっている」と気付くのですが、エネルギーの足りない自分に、まだまだ勉強が足りないと実感させられます。

生徒たちにはぜひ、1月の実践講習会に参加してもらい、直接感じてもらいたいと感じました。

自分自身がエネルギーをもって行動していかないと、生徒たちにうつすことができないので、これからも勉強を怠ることなく、しがみついていきたいと思います。今後ともよろしくお願いいたします。



< 60代 男性  大阪  大学 >

「真の愛情は、寄り添う中にある」。

宇城先生のこの言葉がすべてに繋がり、自分がこれからも大切にしていかなければいけない中心(軸)と気づかせていただいた。頭で分かっていても、自分は出来ていると思っている自分自身がまだまだ浅いと実践を通して感じる時間となりました。寄り添う中には自分自身の「覚悟」がいると学ばせていただいた。簡単ではない、しかし簡単ではないことに実践を通して本当の大切なものがあり、そこに真理があると気づかせていただいた。そして自分の在り方を見つめ直す機会をいただいた気がしました。太陽から見た月、太陽から見た地球、これは昔から「お天道様が見ている」という言葉とも繋がる。すべてを包み込む、分け隔てがない中にすべてを照らす太陽があり、例え曇っていて目では見えないとしても、そこには必ず太陽がおられる、その存在がある。雲で隠れていてもそこには必ず在る。隠れているからいい加減にいるのではなく、例え雲がかかっていても自分の存在は常にそこにある。それが今を大切にするということだと繋がる。すべては繋がっている。それを気を通していただく中で実証していただけ、今の自身を知ることができる。こんなありがたい機会、空間はない。そこを自身がただ「すごい」と感じるのか、自分は「まだまだ」だと感じるのか、自身の内なるエネルギーを信じるのか、まさにこの教師塾を通して、自分の中心に光を当てていただいているのだと感じる。そのためには自身に中心が必要である。


「対立からは何も生まれない」というお話があった。お互いの気が調和融合してこそお互いが繋がり、この繋がりとはお互いが気づき合い、引き出し合うことにあると実感できる。自分だけではなく、気が通ると、その気がどんどん連鎖してエネルギーが繋がれば繋がるほどすごいスピードで加速し高まっていくのを感じる。気が通っている人は簡単に人を投げることができ、投げられた人はまた投げることができる。簡単に途切れることがない、ずっと繋がっていく。この人との繋がりが今はない、自分中心になり大切にしていないということを、実証を通して気づかせていただいた。


二人で手を繋いで回る、先生に気を通していただくと、回れば回るほど自然にスピードが加速し、恐怖感ではなく快さを感じるようになる。更にスピードが高まって行けば行くほど軸(中心)ができ周りが止まって見える。相手の表情だけではなく、その周りまではっきり見ることができる。こんな経験、感覚は日常ではなかなかない。それだけ自分自身が鈍くなっており、エネルギーが下がっている。普段、自分はこういった見え方はしていない。自分だけになっている。頭で考え、気が通っていないことがまだまだ多い。日常ではどこかでスピードを無理に上げようとしているのかもしれない。気が通れば、上げようとする必要もなく、上がってくる、繋がっていく、笑顔が増える。まさに一人ひとりの人生そのものに繋がると感じることができた。


コロナウイルスにも畏れる必要はない、畏れ、怯えがどんどん負のエネルギーを拡大しているのだと。気がない、エネルギーが下がっているから何かあるごとにどんどんエネルギーが下がっていく。変化に付いていけない、すべてにおいて遅れる。先取りができない。これでは結局、後付け、言い訳しか出てこないし、どんどん波動が下がっていく。子どもはエネルギーが高く、失敗・成功という捉われがない中でどんどんチャレンジする。行動を起こす。感性が磨かれていく。大人のエネルギーが下がっていると子供自身の高まるエネルギーを止めてしまうことになる。


このタイミングで「日常の軌跡」のご紹介をいただいた。その中で『育ってきた環境や自分が持っている価値観など、あらゆることがガイドに影響してくるので、ただ単に論理や哲学を学べばガイドになれるわけではありません。人としての生き方や立ち回り方までちゃんと見ていかなければならないので、人材教育ほど難しく手間がかかることはないと思っています。しかしこれほど価値のあることはありません。これからの若い子にどう伝えていくかが鍵だと思っています。私はもともとペンションではなく幕末の私塾のようなことをやりたかったので・・・。色々な人が学びに来て議論したり、専門家の先生方に来ていただいて対談したりしています。また世界を旅するということは自分の実力を発見したり、同時に世界には「こんなすごい人がいるんだ」ということを知ることにも繋がっています。都会(東京)にいてすべてが揃っているのは勘違いだと、ガイドをしていてつくづく思います』

(「日常の軌跡」…安藤誠に世界…p93~95「教育が鍵」より)


まさに安藤誠さんの生き方を通して気づかされることがあり、今回の教師塾のお陰で宇城先生が気を通して実証の中でお伝えいただいたことがこの本の内容(安藤さんの生き方)に重なりました。また安藤さんが撮影されている動物たちの表情は、すべてが穏やかな目をしており、厳しい自然界の環境で生きているはずなのに、すべてを受け容れ、捉われのない生き様すら感じる。簡単ではないことに本質があり、実践(実証)があるからこそ人に伝わり、空気を変えていくことができる。まさに気を出そう、気を伝えようとするのではなく、その人から発せられる「波動」こそが、その人の在り方、生き方だと感じました。忙しい、時間がない、疲れる、上手くいかない、、、こういったことを感じているうちは、まだまだ自分のエネルギーが高まっていない証拠であり、決してスピードが上がることはありません。上げようとせず、高めようとすることなくどういった波動であるか、それこそが自分自身の人としての生き方そのものであり、更にエネルギーが高まって行くのを感じます。


「コロナウイルスは敵ではない」、コロナがあって気づかされることがある。学べることがある。日本人としての原点に立ち返る機会でもある。現代社会、人の動き、在り方、そして自分の今を感じることが出来る。畏れ、怯えからは何も生まれない。自分に正直に生きる。分け隔て、捉われがエネルギーを下げ、自身を弱くしている。強い弱いは勝ち負けではなく、愛情の深さにあるということに気づかせていただく時間になりました。私自身が中心をブラさず、足元を見失うことなく、すべてを包み込めるように精進して参ります。今回も、本当にありがとうございました。



< 50代 男性  大阪  中学校 >

宇城先生。先日も御指導頂き、誠に有り難う御座いました。最初に、海外の女性ボーカリストの歌声と盲目のピアニストの演奏を交互に聴かせて頂きました。内心…(宇城先生はどういった意図があって、我々に聴かせて下さっているのだろうか?…と、疑問に)思っていたのですが、後程,宇城先生が解説して下さいますと、宇城先生がおっしゃるように波動の高い音楽は共振し違和感がないように感じるのだという事が分かりました。そして、以前にも(…大阪道塾だったと思います…)波動の高い音楽の事に触れておられました。その折りには「そういった事もあるのだろうなぁ」と思ってはいたのですが、今回、最初に皆さんを代表して検証を体験させて頂きました。


私の腕を二人の方々が持ちます。何もないところでは私は自分の腕を動かせません。しかし、波動の高い音楽が流れたあと、宇城先生のアドバイス通りにまずは腕を動かす前に“思い(心)”を動かせてから腕を動かすと,本当に力は要らずに自由に動かせる事が出来ました。本当に自由です。自分の身体で実感させて頂きました。でも、音楽が鳴り止むと、とたんに不自由になってしまいます(笑)。

波動の高い音楽のエネルギーを頂けるからこその現象だという事が如実に分かります。そして、この現象は、(江利チエミさんを引き合いに出されて)日本の音楽では起こらない…と、宇城先生はおっしゃいました。少し残念に思いましたし、日本の音楽のレベルがまだその域に達していないのだと理解しました。


ただ、今、この感想文を記していると、2つの疑問が湧き上がってきます。

1つ目は、宇城先生と対談された美輪明宏さんの歌ではどうなのだろう?…という事です。あの方も、目に見えないものの存在を実感され、『ヨイトマケの歌』や『愛の讃歌』などを「心で歌っておられる」と推察います。

そして、2つ目の疑問は…。私の腕を掴んでいるお二人も同じ音楽を聴いているのに,私の腕を押さえられないのはなぜか?…という事です。的外れだとは思うのですが、私が邪推するに…、それは「心」の違いかと思いました。押さえつけよう…という相手を不自由にさせようという「心」と、私はただ単に自由に伸びやかに存在しようという「心」。その違いなのかな…と思いました。


音楽のエネルギーを頂き、自由に動けた私ですが…。その後の、4人一組になり、1人が残りの3人をひっぱる…という検証では、(以前の道塾で本当に力が要らないでひっぱる…というより導く事が出来たのに)全然ダメでした。やはり、少しでも頭が介在するといけません。

あと、今回、印象に残ったのが、初めて体験させて頂いた、合掌した両手の間にもう一方の人が手を入れて引き抜こうとする検証です。

宇城先生のおっしゃる「手の内」にもつらなっているものなのでしょうが、宇城先生が示されたその合掌の形を見たときに、私の脳裡には奈良・東大寺の法華堂(三月堂)の日光,月光(がっこう)菩薩像の合掌のお姿が思い浮かびました。“一刀三礼(いっとうさんらい)”…天平(てんぴょう)の奈良の仏師は御存知だったのかも知れません。今回の感想は、少しまとまりのないものとなってしまいましたが、宜しく御判読頂けましたら幸いです。

有り難う御座いました。

弥栄。



< 20代 男性  奈良  小・中学校 >

今回もお忙しい中、教師塾を開催していただきありがとうございました。最近ではコロナウイルスによる第3波とも言われるほど、感染者数がとても増えている状況です。その中でマスクのお話しを聞いた時、「マスクをしても殆ど意味がない」と改めて感じました。マスクをして大丈夫だと勘違いしている人も中にはいらっしゃるかもしれませんが、私もあのニュースを実際に見ていたので、マスクをするよりも有効なことがあるはずだと感じました。ただ、私自身ではどうすれば良いか分からないまま、自分なりにできることをやっていたつもりでしたが、今回の先生の実践を体験し体の密度を高くするこの実践を通して、本当に意味のあるコロナウイルスへの対策に気づくことができました。


また、私自身たくさんの不安がある中、今回の教師塾に出席させていただきましたが、宇城先生の実践やお話しを受けて何か進むべき道が明確になったような気がします。それは正解か分かりませんが、まず自分自身が変化する「一人革命」を大切に子どもたちと共に学び、共に成長していきたいと思います。

今回も貴重なお時間をありがとうございました。これから寒い時期が続きます。お体ご自愛下さい。ありがとうございました。

また次回の教師塾もよろしくお願い致します。



< 40代 男性  奈良  中学校 >

今回の教師塾でのご指導ありがとうございました。宇城先生の実践によるご指導でエネルギーを頂き、心より感謝致します。

 今回のご指導は、すごく心が痛かったです。マスクの必要性の有無を調べた動画で、マスクが絶対ではなく、予防の一部であることが分かっているのにも関わらず、コロナが感染したかどうかの責任をうやむやしてしまう国のやり方が、自分が働いている学校と同じような印象を受けたことにすごく心が痛みました。全体のことを考えず、自分勝手な行動をとられている先生、子どものことを考えず、平気でうそをつくことなどがすごく多く、結局子どもに一番影響を与えてしまっていることにも気付かず、どうしたらいいのかと悩んでいたところでした。先生にご指導頂いた四つん這いになって、腕を持たれて前に進めない時に、腕を持っている人を応援する人とおっしゃっていたのが印象的でした。対立をしていても、思いがあるので対立しているように見えますが、一つになればものすごい力になるので、「勝った、負けた」の世界ではとても小さく見えてしまいますが、「学校をよくしよう」という思いの中であれば、どちらも同じ方向を向いていることになるんだなと思いました。しかし、対立もなく、周囲の顔色を伺い、間違った方向を修正せず、変に合わせる習慣があり、本当に心がない状況が見られます。私も同じだと思いますが、こんな身体が死んでいる状態で子どもたちに指導など出来ないと思いました。そして、その四つん這いの状態で、私の前に気を通して頂いた方に前に立って頂くと、自分も身体が素直に動き、前に行くことが出来ました。場の空気が変わった気がします。このようなエネルギーのある方がおられると、自分もよい方向に向くことが出来るのだと思いました。身体が生きている状態であれば、みんながこんなに正しい方向に向かうのかと思うと、自分のレベルの低さを痛感しました。少しでもできれば、たくさんの人が正しい方向へ向かうのかと思うと、宇城先生に頂いたエネルギーを伝えていきたいと思いました。


いつも先生がおっしゃる指導は、「やってみせる、やらせてみせる、気づかせる」と言われますが、そのやってみせることができ、やらせてみせて、気づかせるそんな存在になることが出来れば、学校は変わっていくのではないかと思います。今の学校は知識ばかりを詰め込んでいる状態で、私自身のレベルの低さを気づかせて頂きました。

出来ないことを悔やむのではなく、今の自分を素直に受け入れ、未来ある子どもたちに愛情を持って、少しでも実践し、実行することで、気づかせることができるように頑張っていきたいと思います。また、学校全体を一つに調和して、実践を通じて世界を広げ、学び続けていきたいと思います。

引き続き、ご指導のほど宜しくお願い致します。



< 30代 男性  京都  中学校・高等学校 >

今回の教師塾では、「身体が先、行動が先」ということが1番心に響きました。今年は、自分でも原因はまだよくわかっていませんが、子どもたちの様子がこれまでと違っているような感覚があります。特に今年は中学1年生の担任をしており、4月、5月はコロナ禍でのオンライン授業、その後は学校で行われるイベントにおいても、縮小または中止となり、その影響もあるのか、子どもたちのエネルギーが低くなっているような感覚があります。(イベントなどに関係なく、子どもたちのエネルギーが下がらない、上がるような環境にしなければならないということも今回再確認することができました。)中学1年生なので、これがもともとの子どもたちのキャラクターなのか、それとも教師(自分)や学校も含めたコロナの影響なのか、まだ私にはわかりません。ただ、例年に比べて、良い意味においても悪い意味においてもエネルギーが低いというような感覚があります。そしてここ数ヶ月間、これに対して私自身のエネルギー、行動の変化を考えつつ、子ども達には「行動が先であること」、「行動により心やエネルギーが高まっていくこと」を話ししてきました。そんな経緯もあり、先生の言葉がこれまで以上に心、身体に染み込みました。


これまでもマスクの影響について、宇城先生から動画や検証を通して学んできました。マスクをつけるということ、表情が見えないということの弊害について考えれば考えるほど、宇城先生のおっしゃることが納得でき、さらに現場の子どもたちを見ていても大きく頷くことができます。以前から先生が警鐘を鳴らしていたように、すでに崩れている状況の中に、コロナが現れることで、子どもたちのエネルギーへの影響があるだけでなく、現時点での教育、日本がいかに良くない状況にあるかが、顕在化してきているようにも感じています。私も含め、宇城先生に学びを受けていない人たちも、こうなることで危機感が湧いてくるという意味では良いことかもしれませんが、大事なのはここからだと思います。ここで力んでも、余計崩れていく。どうしたらいいのか。そんな私たちに対して、今回はさらに、先生はヒントをくださったのだと思いました。それが「共振」だと思います。これまでの「調和」から、今回先生は「共振」という言葉を多くつかっていたように思いました。未来の希望は子どもたちにある。答えは大人ではなく、子どもたちにあると思いました。子どもたちがより自分たちらしく生活を送れるように、引き出せる、邪魔をしない環境、空間づくりをしていきたいです。そして今こそ,子どもたちを中心に、共振することで、私たち大人もエネルギーを高めていきたいと思いました。



< 30代 女性  奈良  中学校 >

最近、自分が大切にしていることがブレてしまっていると感じていました。自分が正しいと思ったこともなかなか上手く進まず、どうしていったらいいのだろうという気持ちが多かったです。そのようなことを思いながら、今回の教師塾に参加させていただきました。


宇城先生のお言葉を聞きながら、私が上手くいかなかったのは、自分が無理矢理引っ張っていこうとか、私はやっているのになど、勝とうとする気持ちや言い訳がましい心があったのだと思いました。「倒された方が負け」という考え方が私の中にあって、「負ける」とか「勝つ」という差を作ってしまっていたのだと思います。けれど、先生が実践でなさっていたことは、倒された人も強くなっていて、どちらかが「勝つ」とか「負ける」という次元ではないのだと分かりました。きっと今までも同じ話をしていただいていたのに、固定観念があり、素直に受け止めていませんでした。また、「すごいなぁ」という風にどこかで客観的に考えていて、自分がどうなっていくか想像できていなかったと思います。私は、先生にお会いしているのに、それが上手く日々の生活に生かせておらず、それどころか横着な態度を取っていたと感じ、反省しました。だから、周りとの確執に悩んだり、どこか上手くいかなかったりしたのだと思います。愛情を持たなければ、対立してしまいます。相手を負かすのではなく、自分自身が正しいと思えることを、言い訳なしで行動に移していくことも必要なのだと思いました。


最後の手を引いていく実践では、自分自身はただ手を添えているつもりだったのに、無意識のうちにこっち側へ押そうとしていました。きっと、そんな風に過ごしてしまっているのだと思います。筋力や物理的な力ではなく、子供達を導いていけるような実力を持たなければいけないですし、周りを惹きつけることができるよう、愛情を持って過ごしていこうと思いました。

自分の横柄な部分を見つめ直し、自分に言い訳せず行動を起こしていこうと思います。今回、宇城先生にいただいたエネルギーを私の周りの人に伝えていけるように、「一人革命」をしていきたいと思います。ありがとうございました。



< 50代 男性  兵庫  高等学校 >

宇城先生、コロナ下での講義ありがとうございました。

マスクをつけているとどういう状態になっているか。冒頭で示された保育士がマスクをつけていることのゼロ歳児への影響。通勤の電車の中では、マスクをしたおかしな様子の大人。宇城先生に示されなければ、気づきもしなかったと思います。心配は、生徒たちにも影響があるのではないかということです。できることなら、学校ではマスクをしなくてよいことにしたい。しかし、公立の学校でマスクなしは、まず無理なことです。体育や部活動ではマスクを外せるので、それで生徒が復活しているのがせめてもの救いです。

世界中がコロナの影響を受けている中、教育現場も大きい影響を受けています。長い休校と、それを取り返すための夏休み短縮、補習。何のためにするのかと言えば、結局のところ、受験のため。教育のところと離れた理由での議論。教師のあずかり知らぬところでほとんどのことが決定されました。この先もこういった状況が続くのかと思うと、うんざりした気持ちになります。それでも教壇に立てるのは、生徒たちの笑顔のおかげです。この笑顔を守るためにどんなことができるのか。生徒たちの将来のためにどんなことができるのか。


生徒を評価することばかりしている同僚たちへの怒りやそれを変えられず焦る気持ちを抑えられないこと、宇城先生のようなことが出来ればと思ってしまうことがたびたびありますが、まずはできることから。気持ちのよい挨拶。通学路のゴミ拾い。学校の掃除。教室に入るとき・出るときの礼。「一人革命」。「まわりといやというほど差をつける」。


コロナが拡大する中、それをものともせず集まった教師塾の同志たちを見て、心強く思うと同時に、学校でもこんな仲間がいたらと思わずにはいられません。それができていないのは自分に魅力が足りないから。それを自覚しつつ、まずは「行動」でいきたいと思います。



< 20代 男性  奈良  小・中学校 >

今回の教師塾では、盲目のピアニストの方の話から始まり、丁度少し前に全盲になってしまった方の講演会を聞いた後だったので、大変興味が湧きました。

その方の講演会では、『見えないって、どんなこと?』という題名で小学一年生にもわかりやすいように話してくださいました。

一方、宇城先生のお話では、一見すれば、どうしてかわからないことですが、ずっと以前からご指導いただいている見えない『気』のエネルギーが楽曲にもあることを示してくださり、感銘を受けました。また、どの楽曲にあるものでもなく、特定の曲には気のエネルギーがあるということを聞き、不思議に思いました。どうしてだろうと考える機会をいただきました。


またもう一つ印象に残ったお話では、「点と点が、線となり、線と線が面になり、面と面が…」というお話でこの話では、2つのことを考えました。

一つは、「1人革命」のことを仰っているのかなと感じました。地上にはもともと道はなく、みんながそこを道と思い、通るようになるから道となるのだ。という一節があるように、「気」のエネルギーにすがって、生きるのではなく、一人ひとりが自ら学び、行動することによって「気」のエネルギーが広がり、平和に満ちた調和のある世界へと変わっていくのかなと感じました。

もう一つは、身体中にある細胞のこと、部分体と統一体との違いなどの話と似ている点があるのではないかと感じました。


点と点とは、まさに部分体の話だと感じました。一ヶ所だけを鍛えたり、強くしたりすることは無意味と同じであり、筋力トレーニングなどが当てはまると思います。細胞が働き、頭や脳で考えるよりも反応速度が速いことが、面と面の話かなと思いました。ただ、面と面も人によっては見えていないだけで奥行きがあったり、思ったよりも高さがあったりと、盲目のピアニストのように「見えている世界が違う。」ということではないかなと思いました。


まだまだ見えている世界で物事を考えたり、実践の中でもあった力が連鎖することがわかっていなかったりと、学びに浸れた2時間でした。期末試験中ということもあり、校務も忙しい時期でしたが、校務を早く切り上げ、京都まで足を運んだ甲斐がありました。充実した時間を送ることができ、大変、感謝いたしております。


宇城先生から、竹中平蔵の話がありましたが、彼は「1人一台タブレット」があれば、日本の1番優秀な教師1人だけが授業を行い、その動画をオンライン見れば良いという冒涜的な考えを持つ人です。大変虚しい話ではありますが、裏を返せば、やはり教師側の態度が問われているのかなと感じています。外形の姿勢だけでなく、内形の姿勢も整え、今後も精進してまいりたいと思います。

さて、教師塾を開くために尽力して頂いている事務局の方々、どう出版の皆様、京都の会場、会場に集まった同志の皆様方に感謝をし、末尾とさせていただきます。



< 20代 女性  奈良  高等学校 >

この度も、集うことが困難な情勢の中、宇城教師塾を開催いただき、ありがとうございました。

今回、宇城先生の実践を通して、今の「常識」や「社会通念」、さらには「教育」も全て「逆」であると感じました。押さえつけられる人数が多ければ、絶対動かないだろうと、頭で思ってしまいます。それが自分を手伝ってくれる人材とは、思いもつきません。また、私が導く!着いて来い!と引っ張ったところで、1人も動かすことはできません。寄り添い、手のひらで触れるだけで、どこまでも付いてきてくれました。


実践の数々は、子どもが出来て、大人が出来ないことがあります。「こうだから、こう。」とか「こういう場合は、こうなる。」という、頭の計算ではなく、先ず相手や物事の全てを一つ、統一体として、受け止めているのだと、腑に落ちます。


また、動画にあった保育園の園長先生のように、机上の空論ではなく、実践において課題と向き合う事のスピードの速さ、素晴らしさが生きる力であり活きた力だと思います。活きた力を育むには、同年代の友人や先生と接する学校という場は重要ですが、家庭、生い立ち、境遇、自分の特性などに過敏に反応せざるを得ない状況の生徒が、現場にはいます。最近、教育課程のために、決められた事を大学で学んだように授業を実施すると、実は教員の自己満足なだけではないかと感じます。宇城先生は、様々な視点や様々な分野の歴史から、実体験や事実談として、お話してくださいます。一見、共通点のないような、いくつかのお話でも、最後は、人間の身体の素晴らしさと、深い愛情に辿り着いているように、私は感じます。それは、私の子どもや孫にも伝えられる「最大の教育」になると感じます。そのような貴重な体験をする中で、授業という時間は、一体どのような時間なのか。学びの場とは、どのような場なのか。それは、宇城先生と共にするお時間のような、他の何にも替え難い、思考の深さを伴う身体表現、身体活動ではないかと思います。つまり、狭い世界だけにおける話や、知ったかぶりにとどまる話などの、実践を伴わない授業、あるいは、子どもの反応を教師がコントロールするような授業は、授業として成立していないのでないかとも思います。学びとは気づきであり、その気づきと身体は相互関係で、互いを行ったり来たりしている時に、変化が生まれ、思考が伴い、行動が変わっていく。その途中で空気や大気の空間、相手がいて自分がいること、太陽と月と地球という宇宙があることを知り、全ての中で生かされているのだと、気づくことが「学び」ではないかと感じます。そうなれば、今の子どもたちの周りに「学び」の場は、ほとんどないのでは…。初等教育だけでなく、高校や大学でももっとシンプルに、子どもの「気づき」を量産できる風土づくりを実践していきたいと感じました。


「道」や宇城先生の著書を読み、教師塾に参加するだけで、自己満足になり、本質が分った気になってしまうことが、1番恐ろしい事だと思います。動き続けるはずの身体を、淀んだ状態にしてしまわないように、何かを捨て、何かを始める決断を実践していきます。

宇城先生、教師塾開催にあたり、日程のご調整や講義内容の精選にお時間を取って下さり、有難うございました。



< 30代 男性  奈良  高等学校 >

いつもご指導頂きありがとうございます。

前回もそうでしたが、コロナ渦の中でだからこそ本質を見抜き行動することが大事なのかを感じさせて頂きました。いかに今まで上辺だけの情報に振り回されてきたのか、あたかもそうであるもの、そうでしかないように操作させられてきたのかを痛感させられました。知らない事の怖さ、知らないだけではなく、自分自身が勉強していない怖さを感じました。


映像で見せて頂きましたが、マスクひとつ取ってもそうです。特に成長期や思春期の子どもに与える影響が多いこと。世間に合わすことは、時に大事かもしれませんが、その世間が明らかに間違っている中、平和ぼけ・科学的根拠・多数派から抜け出せないまま、流され、気がついたら取り返しのつかない状況になっているような気がします。ただ、自分も平和ぼけ・科学的根拠・多数派から抜け出せていない一人であると思います。このような状況だからこそ、何が人を守り、人を幸せにできるのか、波動がどのように周りに影響を与えられるのか、明確に見えてくるのだと思います。


第2回では本を使った実証を体で感じさせて頂き、今回の第3回では音楽による実証を感じさせて頂きました。普段何気なく生活していく中で有形・無形にかかわらず身近に多く存在しています。その中で私たちは生きていますが、そこに間違いなく違い・差があり、それを感じずに生きているのだと感じました。ただ、これは頭でバーチャルの感覚であり、自然と本物に助けられたり、守られたりしているのではと感じます。まずはそれを感じることのできる身体を取り戻すことから始めないといけないのだと思います。頭からではなく身体を通して問う。子どもにできて大人に出来ないのは、頭が先、そうなるんだろうなという勝手な予測や、こうなるもんだという勝手な経験からの理解。


大袈裟ではなく、日本の状況はますます過酷なものになるのではないかと感じます。それぞれの幸せやエネルギーが、個々の欲や満足の中で完結しており、他への波及が感じられない状況。自分だけが良ければそれでいい。自己中心的な世の中。

一人の手足を何人かで持って、その一人が前に進む実証をして頂きました。世の中の理解であれば、手足を持っている人間が多ければ多いほど、もたれている人は身動きが取れなくなる。宇城先生は「持つ人間が多くの方が力が出る」と宇城先生は仰っておられました。これこそが自分のエネルギーが自分だけで完結しない、とどまらない、周りとの調和だと感じました。


生まれながらにして完成形でだれもが、自己の中にエネルギーが溢れ、それを周りに波及させて、それをそれぞれがその状況を生み出すことができるはずなのですが、それを阻害する邪魔をするものが何なのか、教育のせい、環境のせい、世の中のせいにするのは簡単なのですが、邪魔をしている自分の中にあるものに気づくことができればと感じています。宇城先生から学ばせて頂いている教師塾に参加させて頂き、今は自分の中にある“違和感”を感じることができています。その“違和感”が何なのかは、自分で分からずにはいますが、このままでは“いけないこと”ということは確実に言えます。

ありがとうございます。

引き続き、学ばせて頂きたく存じます。ありがとうございます。



< 20代 男性  奈良  高等学校 >

この度は、教師塾でのご指導ありがとうございました。

教師になって生徒と関わっていると、いつのまにか偉くなったと勘違いしている自分がいます。生徒が問題を解けなかったら、「生徒にやる気が無いからだ」「中学校でちゃんと勉強していないからだ」と捉え、自分の実力不足を誤魔化そうとしています。生徒が問題を解けると、「教え方がよかった」と捉え、生徒のことを本当には見ていません。この教師塾では、いつも勘違いした自分の存在に気づかされ、進むべき道を示してくださいます。謙虚に生徒と向き合えていませんでした。自分のことばかり考えていました。気づいたのも束の間、また謙虚さを忘れてしまう。この繰り返しから早く脱却しなければなりません。


「行動は、その先の行動に繋がっている」

間違った行動も正しい行動も、良くも悪くもすべてその先へ繋がっている。その行動は周りにも写り、当然生徒にも写ります。間違った行動を続ければ…。しかし、正しい行動をすればそれも生徒に写り、また生徒から返ってくる。子供たちは正直です。私が授業で少し誤魔化そうとしても、すぐに違和感を感じ取り、反応として返ってきます。心なしの行動をしても、すぐに子供たちにはバレてしまいます。生徒が気づかせてくれました。生徒には「嘘をつくな」と言いますが、私の方がよっぽど嘘をついています。生徒にも自分にも嘘はつけません。その場はしのげても、嘘も先に繋がっていて、生徒に写ってしまいます。


「ほかの先生たちと差をつける」

一人革命の行動あるのみですが、自分が行動し、それを周りの生徒や先生に写していく。そしてまた、生徒や先生から学ぶ。それが共に学ぶということなのかなと思います。教える教わるの関係から、共に学ぶ関係へ。今、共に学んでいる教師塾の先生方や宇城先生を通して、自分の未熟さを感じています。また、生徒からも気づかされることばかりです。生徒を通して成長し、それを生徒にまた還元する。「できない」「分からない」ではなく、まずやってみる。口だけは誰でも言えますが、それを行動に移すことが差をつけることだと思います。今、感想文を通して自分と向き合っている今から、一人革命を胸に邁進してまいります。

教師塾に参加させていただく度に、宇城先生から、参加された先生方からパワーをもらいます。

ありがとうございます。



< 20代 男性  奈良  中学校 >

先日はお忙しい中、教師塾を開催していただきありがとうございました。

最初に聴かせていただいた目の見えない方が弾いているピアノの演奏はとても伝わってくるものがありました。その後に聴いた曲も何か伝わってくるものがあったように思います。しかし、日本の曲にはこのような音楽は無いと仰られましたが、その理由が私にはよくわかりませんでした。作られた場所なのか、作った人の人柄なのか、音楽のジャンルなのか。また機会があれば教えてください。


二学期もあと少しとなり、毎日を惰性で生活してしまっているような気がしています。子どもたちのために1日も無駄にすることなく過ごしたいと思います。

ありがとうございました。



< 30代 女性  奈良  中学校 >

向かい合った相手の肩にポンと手を置き、つないでいる手を引き込む体験の中で、「あなたはまだ引っ張ろうとしているよ」と宇城先生に直接声をかけていただきました。私の姿勢にそれが滲み出ているというのを、声をかけていただくことで気づく機会を得ました。振り返ってみると、日常生活の中、子どもと触れ合っている中で、“引っ張ろうとする”私の癖が、いたるところにあったことに改めて気づきました。自分が思っている方向に“無意識”に引っ張っているのなら、果たしてその方向は正しいと言えるのかということを改めて自分に問うてみると、どこかで正しいと思っているから無意識にその方向に引っ張っており、それは自分の傲り以外の何物でもなく、謙虚さを失っている証なのだと感じました。


子どもを中心に置くという前提のもと、中学校3年間で何を伝えたいか、何を伝えるべきか、あれこれと思いをめぐらせるうち、自我が強くなり“共振”から遠くなっている。相手がいることで、欲が出ている。芯を持ったまま流れに乗ったり、流れ自体をつくるということは…。質量が大きいところに引きずりこまれるのが必然であれば、重くなる・無意識の次元を引き上げることが方法なのだと思いました。

今回、校務で参加させてもらえるか不安だった中、参加することができ、大変充実した時間、エネルギーをいただきました。私の中の点のいくつかが、線になりつつあるように感じました。参加できて本当によかったです。今回も宇城教師塾を開催していただき、有難うございました。ご準備くださったみなさまも、有難うございました。



< 30代 男性  奈良  中学校 >

私自身の近況を含めながらの感想を述べました。お叱りいただくこともあるかもしれません。けれど、自身の今を素直に述べたいと思います。

「ワクワク」という言葉が、胸に響きました。宇城先生にお目にかかってワクワクする。音楽を聞いて身体がイキイキする。ワクワクイキイキしていると心と身体にとって、良い状態になるのだろうなぁと、ぼんやりと、思いました。「最近、自分はワクワクイキイキしているのだろうか」

仕事、家族、振り回されているなぁ。幸せだと思いながら、幸せだと思い込もうとしている自分はいないのか、目の前の子どもたちの幸せより、自身の幸せではないのか、いや、目の前の子どもたちの幸せを願うべきだ。家族のために早く帰る。本当に家族のためになっているのか。仕事が終わっていない。間に合っていない。自分の力量不足。時間内に間に合わすためには。周りの先生方に迷惑をかけていないか…

教師塾修了後、こんなことを考えていた自分の全てが、なんだか居ついていたなぁと思いました。もっと自然体で良いなぁ。いや自然体でいたいなぁとふっと肩が軽くなるような思いを感じました。


きっと自身がワクワクすることを探しながら、生きている人からは良い気が出るのだろうと思います。そのような気が出ている人の周りはきっとワクワクするのだろうと思います。私が「良いなぁ」と思う方々は、常に自然な振る舞いをされています。格好付けず、ありのまま。自然体とはその方々の生き様であり、自身の芯のようなものが無ければこのような振る舞いは出来ないと思っています。以上のことから、私自身は、「自然な振る舞いを鍛えるために、どのようなことをしていけば良いのか」を自問自答しながら日々励んで参ります。


今自身が思う大切なことは、きっと継続することです。何を継続するのか。授業前後の礼に心を込めること。姿勢を正すこと。欲を出さない。格好付けない。威張らない。自然に。そして、ワクワク出来る日々を過ごす。何のために。家族のために。目の前の子どものために。自分のために。結果、自分のために返ってくる。無理をしない。丁寧な生き方。丁寧な振る舞いということは、私自身の自分との戦いです。格好付けて自分で出来もしないことを出来ると勘違いして無理をする。結果、自身にも周りにも迷惑をかける。丁寧に出来ないがさつな自分。そんながさつさを取り除くために丁寧に生きる。決して無理せず、でも楽もしない。そんな生き方をしていきたいと思います。



< 40代 男性  京都  中学校・高等学校 >

この度も多数の方のご尽力により、無事に宇城先生の教師塾に参加させていただく事ができました。この場をお借りして、改めて御礼申し上げます。

今回の教師塾では、偶然にも知り合いの後輩教師と話題にしていた事柄が中心となっていました。その教師は、昨年度まで生徒指導の件数が多い学校に勤務していましたが、今年度より進学実績のある比較的落ち着いた高校に転勤しました。その教師が言うには、「以前の学校では、かなり大声を出して指導する場面が多かったのですが、今の学校は、そのような問題行動を起こす生徒がいなくて、いまいち自分の力を出し切れていないというか、物足りないというか…。一生懸命働けていない気がするんですよね…」との事でした。それに対して、私は何の迷いもなく即答しました。

「それが、あるべき姿やで。大声を出して威嚇するような指導とか、抑えつける指導は、教育活動じゃないで。そもそも力づくで何とかしないと、生徒が言う事を聞いてくれない…その時点で、自分自身の修行不足を認めなあかんで」


私が宇城先生の御指導を仰ぐようになってから、心に刻んでいる言葉は多数ありますが、最優先している行動指針・心がけは、「磁石は磁力で鉄を引き付ける。地球は引力でものを引き付ける。人は、人柄や魅力で他人を惹きつけるしかない。この人といると、何となくほっとする。この人の言う事は信用できる。この人の事は、絶対に裏切ることができない。そういう人柄が備わっていれば、強い口調で言わなくても、まわりの人は付いてきてくれる」という事柄です。生徒の前に立った時点で、すでに結果は決まっているという事です。その生徒が「この先生の仰る事なら、間違いない」という気持ちでいるのか、「自分の事は棚に上げて、生徒にばかりちゃんとしろと注意しやがって…」という気持ちでいるのか。普段の言動や人が見ていない部分での行いが、雰囲気・オーラとなって伝わるのだと思います。特に、大人よりも子どものほうが、その辺りのアンテナは敏感です。自分の事を、本気で心配して言ってくれているのか、単に世間体を気にして言う事を聞かそうとしているのか。子どもに対する指導では、誤魔化しは効きません。宇城先生が常々仰る「真剣勝負」の世界であり、そういう「覚悟」が無ければ、生半可な気持ちで教育を行っているようでは、教師失格なのです。私が、その辺りの所を突然熱く語り始めたため、その教師も最初のうちは面食らっていたようでしたが、熱意があり、性格の良い人物なので、最終的にはこの考え方に、完全に納得してくれたようです。


少し話が逸れるかもしれませんが、私は剣豪の中では、上泉伊勢守にとても憧れを抱いています。最終的にこのような人格者になりたいという憧れです。上泉伊勢守を倒して名声を上げようと、何人もの挑戦者が現れますが、決して一度も剣を抜かず、闘いを避けてきた生きざまに、宇城先生が「闘わずして勝つのが最上の勝ちである」と仰いますが、その通りに生きた剣豪だったと尊敬の念を抱いています。故・池波正太郎氏の小説の中では、弟子の柳生石舟斎に伝えた言葉として、「兵法は、人のたすけに遺すものではござらぬ。進退ここにきわまったとき、一生一度の用に立てるものでござる。なれば、さのみ、世間の目に能く見られずともよろしい。たとえ、仕なしはやわらかに、なるほど人の目に上手に見えようとも、心の奥底に、いささかなりとも正しからぬところがあらば、すべては無用のものとなり果てよう。仕なしは、たとえ見苦しく、初心のように見ゆるとも、火炎の内に飛び入り、磐石の下に敷かれても、くじけぬ心こそ、わが心のたのむ主でござる」という心構えを授ける場面がありましたが、今回の教師塾では、この場面ばかりが何度も思い出されました。


思いばかりが先走り、上手くまとめられませんでしたが、結論は「教師に大声は必要ない」という所に至りました。とは言うものの、自分自身がまだまだ未熟者で、修行不足も甚だしい人間ですので、今後ともご指導ご鞭撻のほど、何卒よろしくお願い申し上げます。



< 30代 女性  京都  中学校・高等学校 >

今回は実践の大切さを改めて感じました。先生のお孫さんの言葉がすごく印象に残りました。「学校の授業は、説明ばっかり」と言う言葉に、ドキッとしました。私は保健体育なので他の教科に比べると、実践に近い部分はありますが『保健』を指導するときの自分を振り返ると、確かに説明が多いと感じました。宇城導塾のように、説明する時間と、実践の時間の両方があると、授業としてすごく楽しく生徒も学べると感じました。今まで、教科書を教える指導しかしていないように感じます。これからは、自分の保健分野の授業をどう実践的に学ばせることができるか工夫し、3学期の保健の授業に生かしたいと思います。


そして、一番難しいと思ったのが「寄り添う」「愛を持って接する」と言うことです。当たり前のようで、なかなか出来ていないと思います。「愛を持って接する」と思っていても甘やかしているだけなのかもしれないと思うことも多々あります。厳しく場面と寄り添う場面の判断がすごく難しいと感じています。そして、これが私自身の課題でもあると感じています。


今年の教師塾は今回が最後で第4回は年始です。2021年度は様々な場面でもう一度自分を見つめなおし、初心に戻った気持ちで生活したいと思います。素直な気持ちで接すること、思うままに行動することを意識して2021年は、今までのダメな自分から少しでも脱出できるようにしたいと思います。

2020年も貴重なお時間をいただき、ご指導くださいまして本当にありがとうございます。先生のおっしゃっていることを一気に理解し、すぐに実行することはまだ難しいですが、先生がおっしゃっておられたように他の先生方と差がつけられるように、頑張りたいと思います。2021年もどうぞ、よろしくお願いいたします。



< 50代 男性  奈良  高等学校 >

この度の教師塾におけるご指導、誠にありがとうございました。

幸せです。この一言に尽きます。先生の熱意、愛情、勢いがすさまじく、気がつけば既に終了20分前でした。「2時間では短すぎる・・・。2時間って、こんない短かったかな・・・。」そして残り20分が物凄く濃かったです。奥深さと重厚感。「なんやこれ」。時空が伸縮、膨張したり一点に集まったり、繋がったり流れたり、内外の透明感・聡明感が格段に増したり、とんでもなく心地良かったです。

中心・・・。自己中心、絆・連鎖を生み出す気、空気、雰囲気、心、芯、忠・・・。また一段深まりました。出来た人間が前に立つと、他の者が同じように出来る。連鎖、絆、循環の素晴らしさを今回も目の当たりにしました。それはまるで、いや、まさしく宇宙・自然の摂理、素晴らしさであり、人間(=自他この自分自身)も本来は宇宙・自然の一部、宇宙・自然そのものであり、一人一人(=自分も)が素晴らしい潜在能力と個性(=役割・使命)を持って(=いただいて)生まれてきた、活かされている尊い存在(=完成形)であるということを一瞬(=愛)にして感じさせていただき(=幸せ)ました。「この自身の細胞に刻んで、ちゃんと持って帰ろう・・・。」「おっと、またまた忘れた玉手箱」。まだまだ全く隙だらけです。


力(=我欲)では相手の組んだ両手の締めはとけませんでした。愛情の所作・行動(心身)、すなわち両手で「撫でる」、その直後では、はずそうとする(?正確な表現ではない)と解けました。その現象は「やった、やられた」と見る、「外せた。勝った」と解釈してしまうことが、脳への思い込み・刷り込みが我々の病気なのでしょう。教育、バカスポーツの「つけ」です。


情報通信機器の発達にともない、ものすごいスピードで繋がりだしているように見えるグローバル社会と呼ばれて久しいこの世界。人・物・金の流れ-。どこまでも進んで(=劣化)いくのでしょうか。上滑り、分断と格差が広がっていくだけで、人間力(=調和融合)は低下の一途をたどっているのではないか。どこかの国の首相が述べた「自助・共助・公助」は単なるスローガンですが、このことを実体として見せていただけた、感じさせていただけた今回の教師塾でした。ありのまま、お互い様、ひとつに成る、一体感。塾生の皆さん(=自分)の笑顔がとても印象的でした。自らの内なる細胞の繋がり、統一体の形成(=回復)が自身を護り、自他を護ることになるということの再確認でした。


教師故の諸々(苦悩、矛盾、不合理、絶望)を抱きしめて、先ずは自分自身に愛情を。教師が輝き、活き活きすれば、自ずと子どもたちは、保護者も地域も光る。

宇城先生⇔自分⇔生徒・同僚・保護者・地域、家族

「教師になってよかった」と、教師でなくなった退職後に感じることはないでしょう。教鞭をとらせていただいている有り難さを「今」、心身で勝手に、自然に感じられる有り難さを抱きつつ「今」、日々「今」、自ら生き生きと「今」、務めさせていただきたく存じます。先生、今後ともご指導、何卒宜しくお願い申し上げます。

(この瞬間、〝今〟もやっとるやろ)

はい、そうです、すいません、ありがとうございます。







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