top of page

東京実践塾 感想文 2018年3月〜2018年5月

■東京 自営業 CN

 宇城先生この度も貴重な稽古の機会を与えていただきありがとうございました。  この3ヶ月間の稽古を通してあらためて稽古をする意味や質などが自分の中で変わってきたように思います。  先生が稽古の中で仕事時代のお話を話してくださるときに、その当時の先生の年齢を教えてくださる時がありますが、その若さ速さと業績やプロジェクトの大きさが通常ではあり得ない事です。  先生が普段お話してくださる事も、通常であれば一人の人間の人生の中で何度も起こらないような事が先生の人生の中ではほんの一部分でしかなく、通常では想像もつかない様な深く濃密な人生を生きてこられている集大成、そして究極の現在進行形の先生という生き様、人生、人間力に実際に触れ伝えていただけるとんでもない貴重な場の一つが稽古であると思います。  一ヶ月に一回の稽古ということは、本来は次の稽古までに毎回顔つきから雰囲気から変わるぐらいの日常を重ね、自分の人生の変化成長をもって先生にお会いしその上でご指導をいただかなければならないと思います。  何より先生がされてきた稽古というのはそのような事であると感じます。意味が深まってくればくるほど、自分のふがいなさに情けなく思う事もありますが、そんな事よりも一秒でも早く変化成長に繋げていきます。  先生がたまに「こんなに丁寧に気をつかって稽古をつけても皆聞く耳をもってくれない」というような事を仰られることがありますが、耳は器官としてはついていますが現段階の自分が故障させている頭では聞く事が出来ないのだと本当に痛感しています。  稽古の最中に先生に技をかけていただいた直後から、技が突然かかりだした時に身体は聞く耳を持っていることをはっきり感じました。自分の頭を通すと大事な物が全てフィルターを通して取り除かれてしまうかのごとくなくなってしまいます。  そう思っていても頭のスイッチを切ることができないのが健常者の病気なのだと感じます。そのスイッチを切るヒントは、とにかく先生の雰囲気に入り先生から湧き出している何かを感じてそれだけを頼りにする事だと現時点では感じています。  しかし、少し気を抜いたり気がつくと今までの自分の思考回路が働いていたり、毎日の仕事の中でも、いつもの自分の雰囲気に戻されるのを先生のカレンダーを観たり稽古を思い出しながら、呑まれないように過ごすように気をつけています。「子供は見ただけですぐ出来る」と先生が仰るように、先生の膨大すぎる情報量を頭で理解などは到底無理な話です。  先生は常々「出来るが先」と仰られており、出来た事から考えたり工夫したり研究したりしていくからどんどん湧き出してくる、というような内容を仰られていたと思います。  受精卵からどんどんと様々な細胞が創造され人間という完成形にむかっていく神秘を先生が凄いと感じるのと、自分達が聞いて感じているのには天と地ほどの差があると思っています。先生はその生命の神秘というのを身を持って実践されているからこその感動であり、知識や情報として入ってくる自分達とは何もかもが違います。  しかし、自分達も間違いなくその仕組みを経て産まれてきているのだから感じる力はあるはずです。それを毎回の稽古で身体はまだ感じることが出来る、身体は侵されていないと先生に気づかせていただいています。  それなのに、出来ないやり方、出来ない努力をしている時は全て、自分の思考から出てくる結果であるはずです。先生を感じ統一体に近づいていく事は、きちんと自分と向き合う事であり、生かされている自分の使命に気づいていく事に繋がるのではないかと思います。  先生のお言葉や立ち居振る舞い一つ一つをあらためて全て心に映して留めていけるように進んで参りたいと思います。 今後ともご指導の程宜しくお願いいたします。

■東京 会社員 KH

 宇城先生、実践塾での御指導ありがとうございます。  先日の実践塾でいつも持参している木刀を使っての検証をして下さいました。11年間実践塾に持参していた自分の木刀を持った時、腰に差した時に腕を取りに来た相手の方を自在に投げることができ投げた相手の手に手を添えているだけで相手の方は立ち上がることができませんでした。  その後、相手の方の木刀を持った時は投げることができませんでした。この検証で大事に11年間実践塾に持参していた木刀に魂が宿るということを実感することができました。  セミナー生として実践塾に通い始めた時は満員電車で人に木刀ケースが当たらないように、邪魔にならないように四苦八苦しながら電車を乗り継いだことを思い出します。  それから数年が経ち気がつくと、ホームでの電車待ちの時、電車内で立っている時や座っている時は木刀ケースが直接床に着かないように自分の靴の上に置くようになり電車が混んでいる時は抱くように持ち歩いていて、最近は木刀を持ち歩いていることすら気になりません。  実践塾の後、会社で毎日大事に手入れしながら品質管理で使っている測定器を持った時、腕を取りに来てもらった同僚を軽く制圧することが出来ましたが同僚の測定器を持った時は何もできませんでした。会社で検証に協力してくれた同僚は驚きを隠せない様子でした。  その時、宇城先生が教えて下さった万物には神が宿るという八百万の神の話を思い出し感動しました。物や道具を大事に扱うことで自分の魂のエネルギーが宿ることを実感したことで、宇城先生がいつも教えて下さる。心を込める。立ち振る舞いや言動を気を付ける。正しい姿勢での礼儀作法。周りの人に対する気配り、心配り。明るく真っ直ぐに正しく生きる。ということは日常生活で常に大事にしなければいけない心の在り方と繋がりました。  今回の実践塾で自分の心が一番分かっていないのが自分自身だと気づき、自分の心と向き合うためゴールデンウイークの連休中に実践塾に入会した時からファイルしてある11年分の稽古感想文を読み返してみましたが、自分でもあきれ返るほど幼稚な内容で、宇城先生がよくこんな稽古感想文を我慢して読んで下さったと本当に感謝しました。  読むに堪えないような稽古感想文を書いてしまい本当に申し訳ありませんでした。自分で書いた稽古感想文を読み返した時、その当時の心の在り方が言葉となり、文章を作ったのだと思いますが、言葉や文章に心の思いが感じられない、ただの作文といった内容が私の心そのものだと思いました。 ■東京 会社員 MT  少人数対多人数で互いにスクラムを組み、押し合う。お互いが自然体のまま、次は一方が礼をする、あるいは正座、体育座り、ラジオ体操、頑張ろうの掛け声、サンチンの型等をすることによって、結果はどのように変わるか。常識的には多人数の方が強くて押す一方になると思われますが、少人数でも礼や正座、サンチンをした方が強くなっています。  これを見て、子供は力でないことを感じ、すぐやってみると先生はいわれましたが、確かに大人はまず理屈を考えてしまいます。やってみてから事実は事実であり、真実はと問うことが大切です。  礼、正座、サンチンの型等で身体が変化して、強くなり、さらに正座は正しい正座であるか、またサンチンの型の質量で変化や強さの度合いも変わってきます。  また、今の結果は前の在り方、行動で決まることを示していて、今変わらなければいつまでも変わらないです。そして強くなる源はどこにあるのか、身体だけでなく、心も身体の強さに関係している。単純な事例にみえながら、多くの示唆を与えてくれます。  「護美箱」は美を護るという文化であると先生は言われました。ゴミを捨てる箱ではなく、場所をきれいにして周りの環境を整える、そのための「護美箱」で心の在り方であり、表現です。  「挨拶しましょうというスローガンではない。感謝の心があれば自然に出る」と繰り返しお話が出ます。生きている自分ではなく、生かされている自分に視点を変えることで感謝の心が出てくると思います。  相手に手を掴まれて相手を倒せない、木刀を持つと相手を簡単に倒せる。なんとも狐に化かされたような気持ちです。以前、足を開いて腰を落とし、腹に手を当てて息を吐きながら切らずに立つ、また胸に手を当てる、その時手を掴まれても相手を倒すことができる。先生の一言で身体が変わります。  木刀は毎回稽古に手にもって持参した積み重ねであり、木刀が身を守っている。物を丁寧に扱った時とぞんざいにした時の身体の変化と同様です。時間が止まっている、呼吸が止まっている身体が動くきっかけになっています。  「進化ではなく、深化すること。もともとあるから」と目指す方向を示していただいています。身体は危険を察知して、身を守ることになっている。先が見えるから変化できる。相手が変わったら対応できない。「できるかできないか、大 人は素直でなく、本気でやる」との先生の言。本気度が試されます。 ■東京 会社員 KS   いつもご指導いただきありがとうございます。  実践塾の稽古を通じて人生におけるさまざまな学びをいただいています。  先日の稽古では「幸せになる方法を教えている、身体が変わればさまざまな良いことを引き寄せる」と先生が仰っていました。まさに人は魅力で人を引き寄せるという言葉の通りであると感じました。先生のお言葉が何度も繰り返し聞こえてくるように感じます。  頭は悪く身体はものすごくレベルが高い、先生はさまざまな稽古を通じて気付かせようとしてくださっています。そのさまざまな稽古方法や発想はどこから生まれてくるのかといつも不思議に思っていましたが今回はそのことをご教示いただきました。われわれは外部からさまざまな情報をインプットしているのに対し、先生は身体の中からいくらでも湧き出てくると仰っていました。  回路がない私たちにできるという回路を作るためにさまざまな稽古をいただいています。しかしながら子供は一目見るだけでできるのに対し、大人はさまざまな知識や洗脳された常識にとらわれできない。また頭で理解しようとする悪い癖が出てきて邪魔をしている。  先生がおっしゃっていましたが「癖はなかなか治らない、本当に気づかないとわからない。癖を引っ込めて個性を伸ばす」まさに思考や身体の間違った癖を自分自身で気付かない限り、この先どれだけ先生からご指導を受けても変わらない、できない自分を捨てることができないと強く感じました。そこに真摯に向き合い本気で取り組まなければならないと改めて思いました。  特に今回の稽古では、厳しく突き付けられたように思います。私は本当にできるようになりたいのか、そもそも何を学びたいのか。稽古に来てできなかった、先生はやはりすごいなで終わっていないか、人生をかけて取り組んでいるのか、甚だ疑問に感じます。この後は全身全霊で取り組むと覚悟した次第です。  稽古時に「護美箱」という言葉を教えていただきました。美を護る箱。なんて素晴らしい言葉だと思い感動しました。初めて先生からお聞きした後、会社や家で落ちているゴミの見え方が変わりました。今まではゴミという焦点から美を護るためという見え方になりました。いかに江戸時代が素晴らしかったかということのほんの一部ですが垣間見えた気がいたします。 型稽古がラジオ体操になっている。ラジオ体操をすると身体が弱くなり、正座や正しい身体の使い方をすると強くなる。本来その最たるものが伝統の型ですが、順番をなぞっているだけのレベルでありこのままでは一生使い物にならないと感じました。とにかく映すしかない。今までの延長線上にあるのではなく全く違う次元であるということだけは間違いないことですので真摯に向き合って取り組んでいきたいと思います。  先生はおっしゃいます。「座波先生の人格を通じて空手を、川崎先生の人格を通じて居合を学んでいた」気品・気位が出て初めて武道を学んでいると言える、スポーツには全くない次元でありそこに人生をかける魅力があると思っています。宇城先生の人格を実際どれほど自分自身に映せているのか、映そうとしているのか、今一度自身に問いかけていきたいと思います。  ご指導ありがとうございました。

bottom of page