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『空手談義 型は美しく技は心で— 座波仁吉・宇城憲治 —座談録』 感想文

●静岡 農業 Y.F

 まず、最初に手に取った時、本のカバーが重厚でその内容の重さを表していると思いました。

 今までも、宇城先生と座波先生の対談を他の本でも読ませて頂いていたのですが、こうして今一度、じっくりと読ませていただいて、対談の最初の「自分を変えていく力」の所で宇城先生が仰っている「身体を通し脳が感じその脳が身体を変化させる」とのお言葉に、本当に、今、受けている御指導と内容がブレていない、当時、44歳の頃から先生は武道空手に大いなる可能性を見出しておられていたのだと思いました。

 「忍耐と広い心を持って」や「基本的に愛情なくしてできるものではない」など、本当に当時の気持ちを持ち続け、自分達に接しておられるのだと。今現在の先生から御指導を受ける身として、その当時から先生が持たれてきた心の一端を感じる事ができ、また改めて先生の座波空手、武術空手に懸ける情熱や真摯さを感じる事ができ、本当にこのような本を読む事ができるのは有難い事なんだと。そのように感じました。


 座波先生のお言葉や、師のその心をくみ取り、宇城先生も仰っていますが、形としては対談ですが、その教えを、言葉を引き出していく、宇城先生のこの当時の取材時の弟子としての姿勢。本当に凄いとしか言えません。先生が「100%座波先生を信頼してきた」と言われますが、まさにこの本を読む事でそれを実感する事ができます。自分は宇城先生が座波先生にされているように師の心をくみ取ることができているのか。できていなくともそこを目指して修行する事ができてるのか。それを自分自身に見つめ直す本当に良い機会を与えて頂くことができました。

 座波先生の珠玉のお言葉の数々。それは一貫して、守る為に自らを鍛錬していく事が語られているように思いました。「普段から周囲から信頼、尊敬される自分を作る」「普段からの行動を丁寧に世渡りするのか武士」など、このような事は本当に自分は心に留めておかなければならないと本当にそう思います。

 そして宇城先生の元で修行させて頂く中で、本当に宇城先生もそれを自分達に本当に伝えようとして下さっている事を感じます。

 まさにフルコンやスポーツなどとは全く次元が違う、人生における価値の重さが全く違うと、改めて思いました。座波先生のお言葉は10年以上、こうして宇城先生から御指導を受ける事で最初にお二人の対談が掲載された本を読んだ時よりも、更にそのお言葉の重さを受け止める事ができ、以前は何となくでしか座波先生のお言葉を受け止める事ができていなかったのだと思うのと同時に、以前よりも座波先生のお言葉を少しでも理解する方向へ進めていることを実感する事ができ、改めてその次元の高い世界を真摯に受け継ぎ、それを自分達に伝えて下さっている宇城先生へ感謝の気持ちと尊敬の念が自然と湧き出てきました。座波先生と宇城先生のこの次元の高い対話の数々。そのような場があったという事実に「うわぁ、凄いなぁ」と、読み進めていくうちに座波先生のお言葉、沖縄空手のその深さ、それを真摯に学ぶ宇城先生の純粋さ、真剣さ、その全てを文章を通して実感していく中で自然と天を仰いでしまいました。


 こうして今、読んでみると、座波先生のお言葉は本当に赤線だらけなってしまいました。最初に読んだときは自分はそれを実感する事のできるレベルではなかったのだと思います。学ぶ中での心構え、暗闇での稽古、人間の生きる芸、呼吸の仕方など勿論本当に大事な事ですがそれ以上に、本当に人間がどのようにして生きればいいのかの哲学以上の実践哲学だと思います。

 宇城先生が道場の稽古だけでなく、移動の飛行機の中やお風呂で背中を流している時などが本当に修行になったと言われているのは、本当にそのようにして人生を懸けて学んでいくものなんだという事が、本当によく分かります。

 「空手を学ぶには沖縄の心を学ばなければいかん」と座波先生は仰っています。本当にその根源とする所、守るという事は一体どんなことなのか。そしてそれを受け継ぐ師の心を学ばなければならないと。技や強さに憧れるのは最初は良いでしょうが、学んでいく内にその根源はどこにあるのかを悟っていかなければと思います。

 座波先生は「覚えるということは全能力を活動さす」と仰っています。それを自分はできていないと思います。それくらいでないと覚える事はできない、またそのくらい難しく、厳しいものであり、同時に人生において非常に価値のあるものであると思います。


 座波先生と宇城先生のこの対談は本当に歴史的価値があるものだと思います。武術的には勿論の事、文化、芸術、民族的にも後世に伝え、残さなければならないものだと思います。

 座波先生も本来は人間国宝に選ばれても全く違和感がないお人ではないかと思います。そこで宇城先生という真摯な心を持って真っ直ぐに受け継ぐ人間が学ばれたということ。これは本当に日本人、や世界にとって本当に幸運な事だったと思います。

 今、日本は勿論、世界的に見て人間の堕落が加速しています。このような時代にこそ、人間としての潜在能力を発揮する事ができる、沖縄の心を受け継ぎ、進化させた宇城空手を学ぶことが、非常に大事になってくると自分は思います。

 この対談の中にある、数々の次元の高い逸話、対話を学校教育などに取り込めばどれだけ人間のレベルが改善されるでしょうか。


 この座波先生と宇城先生の対談集は武道武術を学ぶ人間の必読の書であり、武道を学ぶ人間全てが最初に読まなければならないものであり、また武道の世界ではない人間にも、本当に今の現状をどのように生きればいいのか。その指針となる内容であると思います。それは恐らく、学べば学ぶほどに感じる事ができるのだと思います。

 あとがきにある宇城先生のお言葉、「我が人生に 燃ゆること 火の如く」。

 自分の人生の中でも一番、心の情熱に火をともす言葉に出会ったと思いました。この言葉を自分のエネルギーの落ちている時にこそ思い出し、宇城先生が座波先生にしてこられたように自分も情熱を燃やしていけるように、精進していかなければと思います。



●東京 会社員 S.M

 巻頭では座波先生と宇城先生の写真が多数ご紹介されており、初めて拝見するものも多かったです。お二人の間の温かな信頼関係と、宇城先生が師・座波先生に、道場にとどまらずあらゆる場で学んでいらっしゃった様子が伝わってきました。

 本編の対談では、稽古するうえでの心がけや学ぶ姿勢、物事のとらえ方について、数えきれない金言があり、座波先生の独特の表現や過去の逸話なども印象的でした。「自分の覚えている技を譲るという感じで教えている」「弟子に教えて弟子から習う」というところから、常にオープンかつ弟子への愛情に満ちた座波先生のお心が垣間見えるようでした。また、宇城先生の学びの姿勢から、「まあこれくらいでいいか」では話にならず、とことんまで突き詰め貫く真剣さがあってこそ、ということを強く感じました。

 『武道の原点』『武術空手の知と実践』『武術空手への道』のなかで過去にもこの対談を拝見していましたが、『型は美しく技は心で』を拝読し、改めて今の自分に必要な部分が目に留まり、迫ってくる感じがします。一度読んでわかった気になっているのは、しょせんその時の自分のレベルがその程度だということに違いありません。今回はむしろ、「この箇所はどういうことをおっしゃっているのだろうか」という疑問、探求心が湧いてくる感じがいたします。文章を表面的な意味で理解するのではなく、その言葉を通して、座波先生、宇城先生が何を伝えようとしてくださっているのか、いかに自分が学び取り、吸収するかだと思います。受け身で教えてもらうのを待つのではなく、自ら課題を見いだし工夫・研究すること。なぜできないのか、どうすればできるのかを突き詰めて考えていくこと。大事なのは理屈ではなく、自分が気づき変わっていくことだ、と激励を下さっている気がいたします。ありがとうございます。



●福島 公務員 H.O

「空手と心」

「師と弟子」


 この2点がとても強烈に心に残った、本当に重い一冊でした。


 空手は型という外形であり、心を入れる器であると感じました。

 空手は多くの先人たちが編み出してきた技を、型という外形に集約し結晶化したもの。まさに無形文化遺産だと思います。そこには無限の技の資源・情報が眠っており、空手を修める者が自ら発掘し、己の技としていくものだと思います。しかし、人は自分勝手に解釈し、本質から乖離するからこそ、師が必要なのだと思います。

 本質が失われば、貴重な資源や情報も劣化し、変質し、まったく別な形で伝承され、形骸化してしまいます。

 しかし、「座波空手」は、その本質を失うことなく「宇城空手」に伝承されています。まさに「不易流行」「述べて作らず、信じて古を好む」であり、この現代でこそ活かすべき「実践哲学」であると思います。


 「空手はまず空手をやる人が自分の心を作る」

 この座波先生の言葉にハッとしました。


 空手で心を創る。

 その心を持って日常を生きる。

 迷えば空手に帰る。

 空手の器に己の心を乗せる。

 今の己の心が正しいのか否か、鋳型の型とご指導いただいた師の心に聞いてみる。


 空手は人を相手に殴る蹴る、いわゆる対人格闘技だと一般的には思われています。しかし、大量殺戮兵器が世界中に存在し、大規模自然災害や目に見えないウイルスの恐怖に怯えるこの世界において、人を殴る技術が何の意味を持つでしょうか。

 空手の本質は、そんな些末な技術の追求ではなく、伝承の型から、師の神業のような高次元な技を探求しようとする自身の姿勢、覚悟、行動、何よりも師の存在という規範から、その人の生き様、心を創出することなのだと思いました。


 世界には空手以外にも、貴重な無形文化遺産が存在しているかもしれません。それらがどのように伝承されてきたのか、伝承されようとしているのかは知る由もありません。

 私は、座波先生から宇城先生に受け継がれた「空手」を自身の生き様とし、自分の家族、同僚、地域の仲間に映し、私に関わる人を少しでも幸せにしていきたいと思いました。

 本当に素晴らしい一冊でした。幾度も読み返します。ありがとうございました。



●埼玉 教員 T.S

 座波先生と宇城先生の座談録を読み、10年前では読み取れなかったこと、気付けなかったことにたくさん出会うことができました。

 読み進めていくうちに、本当の生き方を教えて下さる空手に出会えたことに感謝の気持がどんどん湧き上がってきました。


 私が、今回拝読させていただく上で特に知りたかったのは、「自得」に至る「師弟関係」とはどのようなものかということです。

 何事においても最終的には「自得」しかないというのは確かだと考えますが、現在の師弟関係における「自得」には違和感を感じています。例えば、現在のスポーツの指導において、指導者はいかに効率良く練習させるかという「マネジメント」、精神論を中心とした「叱咤激励」、または科学的知識を活用した「理屈」が中心となっており、指導を受ける側の個人差や習熟度等に配慮する姿勢はあまり見られません。「あとは選手が勝手に気付くだけ」といった自得を隠れ蓑に自己中心的で無責任な指導になっていると感じています。

 教わる方も自分で深く考えずに指導者の言葉を鵜呑みにしたり、手取り足取り教えてくれるのを待っていたりする傾向が強くあります。

 そこには浅く低次元の「自得」しかないと思います。


 しかし、座波先生と宇城先生の関係は深い関係で結ばれており、現在の師弟関係とは全く異なるものだと感じました。

 座波先生はまずやって見せたり、生き方を示したりして自らが範を示しておられます。また、空手や沖縄の心について、人間関係について、空手の型や技について等、どこまでも誠実に、ていねいに言葉で説明して下さっています。そこには、理屈ではなく弟子への「愛」を感じます。

 また、教わる宇城先生も座波先生の教えを誠実に受け止め、深い思考とぶれない信念をもって稽古されている姿勢が強く伝わってきました。

 座波先生と宇城先生のように師弟が真剣に人生や空手と向き合い真実を求める中で本当の「自得」は産まれるのだと納得しました。


 現在の自分の姿勢を省みるとまだまだ甘く、自得の道は遠いと感じます。

 宇城先生の示して下さる、生き方や空手の道を真剣に歩んでいきたいと再確認する機会になりました。

 ありがとうございました。



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