東京実践塾 感想文 2021年1月~ 2021年3月 

●東京 自営業 H.O


 世の中が激動の中、直接ご指導の機会を頂戴しまして有難う御座います。  宇城先生から一人稽古の大切さを日頃からご指導頂いておりますが、「仕事は最優先、空手は一生」という深い言葉を先日頂戴して、感動致しました。  宇城先生がどのように伝えたら、教えを頂いてる私達が今よりも人間として器を大きくして、視点を高くして成長できるのかを考えてくださり、そして、直接エネルギーを与えてくださり、成長のチャンスをいつも開いてくださっていることに有難さで一杯です。  言葉では教えられないからこそ、先生はエネルギーという目に見えない、でも実態として存在しているエネルギーを通じて、直接細胞レベルで伝えて頂けるのは、地球レベルで奇跡的なことだと感じております。  先生から直にお話を頂けること、先生から直にエネルギーに触れさせて頂けること、先生に直接このような至らない感想文に、お忙しい中、貴重なお時間を頂戴して目を通して頂けるのは当たり前ではありません。このような貴重な機会を頂戴している以上、成長し続ける責任があると感じております。  稽古を継続させて頂けば頂くほど、自分は何にも分かっていないということ、が分かる。このような深さを感じる事は、今までの人生の中で恥ずかしながら無かったもので、今は深さを追求していけることが何よりも楽しく感じております。  そして、先生から地球上で誰もできないような人間の潜在能力の素晴らしさ可能性を直接何度も何度も体験させて頂くことで、私の凝り固まった既成概念が少しずつ変化をし始めています。  先生から以前に「守りが甘い」というお言葉を頂戴して以来、自分の人生においての「守り」について思い起こしてみましたら、おっしゃるとおり、守りが甘い部分が驚くほどたくさん思い出されました。先生から直接頂いた貴重なお言葉を生涯忘れず、日常に活かして参りたいと思います。  この地球には、とんでもないエネルギーが満ちていて、そのエネルギーをそのまんま素直に受けられるように、そして先生のお心を素直に映していくためには、自分の我をいかに削ぎ落していけるかが大事だと感じております。  先生の5つの型のビデオを拝見させて頂いた後に、型の稽古をさせて頂くと、いかに自分の頭で作り上げた型で、自分流で型を行っていることが感じられます。先生の型を拝見していますと、人間的深さ、重み、生き様が感じられて、拝見すればするほど、先生がとんでもない高みにいらっしゃることが分かります。  先生の型を拝見させて頂き、自分は、普段、通常の目で見る視覚でさえ、錯覚して物事を見ていることに気づけました。稽古をさせて頂けば頂くほど、自分が未熟で何も分かってはいないことが感じられる場が世界で一体どこに存在しているか? それは宇城先生しかいないと思います。  自分は何も分かってはいない、ということが分かってくると、謙虚にならざるを得ません。  「進歩、成長とは変化することである。変化とは、深さを知ることである。深さを知るとは、謙虚になることである」このお言葉の意味が、ようやく頭ではなく、体感として少し感じられるようになって参りました。  謙虚に、1に勉強、2に勉強、3に勉強で、進歩、成長のために変化し続け、一生深さを追い求めていく人生にしたいと思います。  いつまでも未熟者のままで、大変恐縮ですが、引き続きご指導何卒宜しくお願い申し上げます。継続的なご指導、心より感謝致します。



●神奈川 会社員 M.N


宇城先生。いつも大変素晴らしい実践塾の稽古に参加させて頂き誠にありがとうございます。  私は、実践塾での稽古を通し、武術において「間」がいかに重要であるのかを改めて感じさせて頂きました。「間」の意味を調べてみると、物、動作、拍などにおける空間、関係、時間などと説明されています。その為、現代における「間」の用い方も距離やタイミングのようなニュアンスで使われることがほとんどであり、現代のスポーツや武道においても同じことがいえると思います。  しかし、宇城先生の技や動きを長年拝見させて頂いていることで、武術における「間」というものが、一般的にいう「間」と比べ、遥かに高次元のものであることをより実感するようになってきました。以前は、宇城先生の仰る「間」というものが、距離やタイミングという言葉で説明できるようなものではないと頭では理解していました。しかし、武術の「間」というものの存在を身体的に本当に実感できたことはなく、宇城先生の時間や空間を自在にコントロールする動きを拝見し、体験させて頂いても、ただただ不思議で何が起こっているか全くわからない状態でした。  しかし、宇城先生の教えを受けさせて頂いている中で、力を使わない内面の働きが現実に存在していることを徐々に実感させて頂いたように、武術における「間」も本当に存在していることを感じるようになってきました。私たちの組手は、お互いの間の空間に何の変化もなく、物質的な動作を行っているだけです。  しかし、宇城先生の組手を拝見させて頂くと、宇城先生は、相手との間にある空間を、一瞬で取ってしまっているように感じます。間を制した後の宇城先生は、相手が止まっていると感じるほど内面のスピードが速く、一の動作と同時に二、三、四の動作も入っており、次々に相手の先を取っていきます。また、その状態の宇城先生の技には、時間、距離、重力などの変化も身体的な動きに加わっており、通常の組手とは全く次元が違うと思いました。これが宇城先生の仰られていた「間を制した者が勝つ」ということなのだと改めて感じました。  本来の武術にあった、このような「間を制する」という高度な技があれば、それを身に付けていない人間に対しては、相手を傷つけることなく制することができると思いました。また、達人同士の試合であれば、どちらも打ち込まずに、間を取られた方が参りましたと負けを認めるという、伝説や作り話のように思われていたことが、現実に有り得るのだとも実感しました。素人同士の喧嘩では、どちらか或いは両方が傷ついて終わりですが、本物の武術であれば、素人相手でも達人同士でも、相手を傷つけずに事を収めたり、技を磨いたりできたのではないかと思いました。  この度、改めて「間」の大切さを感じさせて頂いたのも、「力を使わない」、「部分体にならない」ということを、実践塾における気の検証、体験、分解組手、型などを通し、宇城先生からの一触を繰り返し学ばせて頂いているからなのだと思いました。  力を使ったり、頭で考えて稽古をしても何も変化が起きません。しかし、師の一触を念頭に、力を抜くように繰り返し繰り返し稽古をすれば、自分の身体がいかに部分体であるかに気づき始め、以前の自分に比べ身体が繋がってくるような感覚になったり、身体が沈むような感覚を知ることができます。そして宇城先生に気をかけて頂いたり、相手と手を繋いで回転したりすると、その感覚が遥かに上がり、その状態を継続することができます。  また、とても考えさせられるのが、その状態の時に「力を使う」「頭で考える」「相手と衝突する」などの行為をどれか一つするだけで、「相手と繋がる」「空間と繋がる」「体が浮かない」「先を取る」などの感覚が全て一瞬で消えてしまうことです。武術における「力を使わない」「内面の力」「呼吸」「間」「先を取る」というものは全て同一線上にあり、それぞれが完全に「一」となっているのだと思いました。  それと比較し、力、スピード、タイミング、メンタルなどのテクニックが、バラバラに組み合わさっているスポーツにおいては、このような現象は絶対にあり得ないと思いました。このような武術の高次元の現象や技は、要素還元主義の頭や本の知識だけでは到底身に付けることはできず、宇城先生の仰るとおり、理論を踏まえたうえで、師の一触を通し繰り返し学ぶことでしか不可能なのだと思いました。  先日、宇城先生のご著書「稽古照今」を拝読させて頂き、「人間とは、「間」のことをさす」という言葉を拝見しました。以前の稽古においても教えて頂いた言葉でしたが、改めて武術における「間」を考えるに至り、「人間」という意味をより深く考える機会を頂きました。本当に宇城先生のご著書や言葉は、読み返すたび、聞くたびに新しい気づきが得られます。  「間」を単に距離やタイミングと捉えると浅い知識で終わってしまいますが、宇城先生の伝えて下さる武術における「間」という次元の高さを知ると、「人間」という言葉にとてつもない深さを感じます。武術の「間」を言葉で定義づけすることなど到底無理なことですが、気、心、時間、空間、重力、調和融合など、様々な目に見えない現象と密接に関連していることは間違いないと思いました。  またこのような高次元の現象は、宇城先生の仰る「「気」と「気の検証」は、まさにあらゆる分野を統合させるつなぎ役として今後ますます重要になる」という言葉のとおり、武術だけの範疇にとても収まりきれるものではないと改めて納得いたしました。  「「気」は時空すべてと調和し、その事によって境界がなくなり対象に溶け込むことができる」という事は、武術における「事理一致」「天地と一体となる」などや、宗教、哲学における「空即是色」「涅槃」「梵我一如」などの概念ととても通じるものがあると思いました。  西郷隆盛の言葉に「小人(利己的な人間)ほど才芸のあるもので、むしろこれをもちいねばならぬものである。さりとてこれを長官に据えたり、これに重職をさずけたりするとかならず国家をくつがえすことになる、決して上に取り立ててはならぬものである」という言葉があります。  今の社会の組織のトップや社会的な成功者たちは、私たちに比べ計算高く、頭が良く、とても努力している人が多いと思います。しかし、能力や政治力が高いというだけの人が、組織や社会システムを作ると、決して庶民の幸福や文化の向上には繋がらないと思いました。  また、別のエピソードで、幼少の吉田松陰を師である玉木文之進が叱った際の言葉で「かゆみは私。掻くことは私の満足。それを許せば長じて世の中に出た時に、私利私欲を図る者になる」とありました。人間全員に私利私欲を断たせる事は難しいですが、昔の日本において、組織を指導する立場にある武士にこのような教育を徹底していたことは本当に驚くべきことで、西郷隆盛の言われた言葉ともとても通じています。  このようなエピソードは日本の歴史に数え切れないほどあり、私たちの祖先には本当に優秀な方々がたくさんおられ、昔の日本が、幸福で、きわめて高い文化レベルの社会を実現していたのだと思いました。また、武士が私利私欲を戒め利他的な生き方の大切さに気づいていたことと、目に見えない高次元の術技を武術を通し身に付けていたことは、とても深い関係にあったのだと思いました。  宇城先生が仰るとおり、現代社会において、知名度、肩書き、金を優先させる組織やそのトップたちが、世の中を不幸にし、破滅の方向へ向かわせているのだと感じます。  その中で、「間」という目に見えないものが、人間の本質であるという教えは、今の物質主義で利己的な考えが重視される世の中に大きな答えを与えてくれます。そして、その目に見えない人間の本質を知るための最高の方法が、かつて日本にあった本物の武術であり、現代における宇城空手なのだと思いました。




●東京 会社員 T.S


 いつも私たちを気づかせる為に様々な方法を用いてご指導をいただき、ありがとうございます。  昨年12月からコロナの第3波で3ヶ月空いての久しぶりの稽古でしたが、感謝の型と木剣の素振りも取り込んだ一人稽古のお陰で充実した3ヶ月でした。また、この期間中Zoom講義に参加させて頂いている事も大きな励みになっております。  先日の稽古で木剣の組打ちで「真剣」であると事が心構えの問題だけでなく、実は身体の集中力でもある事を実感しました。また、「守る」が先ずありきで、これがないと速さが生まれない、攻撃しようとすると逆に遅いという事も体感しました。「何かをしよう」と意識が働くと、身体が逆に動きにくいと感じました。木剣を構えている相手が真剣を持っていると想定し、自分を守る、守れると感じる身体の状態を作り出すと自然と身体の集中力が高まり、何も考えずに自然と相手の動きに呼応できる瞬間がありました。この感覚を忘れないように一人稽古を続けています。  木剣の素振りで背筋を伸ばすこと、剣先を掴ませた相手を投げる事、「投げずに投げる」と言うことが初めて矛盾した事ではないと思えるようになりました。「投げようとして投げる」のは仕事でいえば数値目標を短期間で達成する為に枝葉末節の事象をモグラ叩き的な方策で達成しようとする事と似ていると思います。投げが効くのは結果として相手が倒れるのであり、その結果をもたらすのは自分の心身の状態から作り出す間によるもので、これが「投げよう」とした瞬間に衝突が生じ、返って投げられない状態になってしまう事象と重なりました。  枝葉末節のモグラ叩き的な方策は立場を利用して為し得ている部分があり、これはその場限りで無理があり、常に管理し強制していく必要があります。管理強化せずとも自ずと目標が達成されるような状況・状態を作り出すことが本来の仕事ではないかと思いました。「品質は人が作るのであって、規格ではない」との先生のお言葉を思い出しました。  木剣の稽古のお陰で、自分の姿勢が真っ直ぐのつもりが、実は前のめりになっていることも良く分かりました。空手の動きの中では中々気付きにくく、高速回転しているコマに対して、ぐらぐら今にも倒れそうなコマの状態になっている事がよく分かります。また、木剣も一方向に素振りするだけでなく、左右に向きを変え、先日の稽古での様に左右の斜め方向と正面の3方向と方向転換をする素振りが前のめり姿勢を矯正するのに私にとって非常に有効です。  木剣の稽古で身体の集中力を高める事から、今度は型稽古で「身体の中心を濃くするように動きを中心に集める様に」という事にもつながって来ました。  この様に、今まで自分の中でバラバラだった事象が少しずつ繋がっていくのを感じ始めた3ヶ月でした。  合宿で更なる気づきを得られるように心して参加致します。  引き続き、どうぞよろしくお願いいたします。




●愛知  教師  Y.T


 このたびはコロナ禍のなか、ご指導くださいまして、本当にありがとうございました。1月、2月の実践塾が中止を余儀なくされるなか、3月に開催していただき、心から感謝を申し上げます。また、UKアーカイブで先生が海外の塾生にリモートでご指導されている動画をみて、日本にいて直に先生から学べることのありがたさを、改めて深く実感しました。宇城先生、こうした状況下で変わらずご指導いただき、本当にありがとうございます。


 今回の稽古で一番印象に残っていることは、木刀の稽古です。とくに3つあり、1つは振り上げる際に上体を伸ばす感じで行うように、という教えです。実際に先生の背中や脇腹を触らせていただき、一触して学ばせていただきました。先生が木刀をすーっと振り上げると、その瞬間に私の力がふわぁっと抜け、ぐーっと下に崩されました。この上体を伸ばすようにという教えと、実際に先生の背中や脇腹を触らせていただいて得た感触を思い返しながら、現在木刀の一人稽古を続けています。


 2つ目は、手の内についてですが、以前から先生より手の内が大事であることを伺っていましたが、今回は具体的に塾生の手のひらに丸を書き、ある一点のみが正しい場所であることを教えていただきました。また、手と木刀の間にボールペンを入れ、隙間があるのに相手が木刀を引っ張っても抜けない様子などもみせていただき、手の内がどういうものなのかの一端を、みせていただきました。あまりに難しくてまだ全然意味は分かりませんが、それでも一人稽古の際には、その先生の教えを思い浮かべながら、木刀の稽古を行っています。


 3つ目は、「守る」ということです。うまく言葉では表現できませんが、「守る」という態勢をしっかりとつくってから相手にぐっと入ると、相手がなかなか攻撃できず、逆にこちらが「攻撃しよう」という意識でいくと、相手が容易に斬り込んでくることを検証・稽古させていただきました。また、相手に剣先を握らせて、そのまま投げるという稽古の際にも、この「守る」という態勢をちゃんとつくり、そのままそれを切らさないでやると、相手を投げることができるという検証をさせていただきました。これまでは途中で衝突して動きが止まってしまい、まったく投げることができませんでしたが、スムーズにばっと投げることができ、大きな感動がありました。


 また、何度も技がかかるなかで調子に乗り、「守る」という態勢をちゃんとつくらないで横着して投げようとすると、とたんに技がかからなくなる、という体験もさせていただきました。やはりいい気になって横着すると、とたんにできなくなる。先生がいつもおっしゃるように、調子に乗ると駄目だ、という教えを、ここでも深く実感し、反省しました。何事も本当に丁寧に、繊細に、そして集中して行わなければならないことを、この稽古を通じて学ばせていただきました。現在は何かうまくいったり良いことがあっても、その都度決していい気にならないように気を引き締めて、日々の生活に取り組むよう心がけています。


 また、空手の型を稽古する際にも、この「守る」という態勢をしっかりととってから、またそれを維持しながら行うようにしています。このような態勢でやると、意識が前面にいかず、以前よりもだいぶ落ち着いて集中して型ができるようになってきました。


 その他、今回の実践塾では『2030年:すべてが「加速」する世界に備えよ』や『2040年の未来予測』などの文献も紹介していただきながら、社会がどんどん前に進んでいることを教えていただくと同時に、そうした社会の中で1年先、3年先、5年先を同時に見据えて「今」を真剣に生きるよう教わりました。自分自身を省みますと、3年先はおろか1年先も見据えることができず、目の前の仕事に追われ、しかも1つの仕事を片付けなければ次の仕事になかなか進むことができず、「今」を全然広げていないことに気づかせていただきました。最近はこの点を日頃から意識し、忙しい時には自分自身を見つめ直し、逆にたるんでいる場合には気を引き締め直し、「今」を充実させるよう心がけています。


 宇城先生、冒頭でも述べましたように、こうした厳しい状況下で直接稽古をつけてくださり、また根本的なことを学ばせていただき、本当にありがとうございます。先生から直接学べることのありがたさを噛みしめながら、日々の稽古に取り組んでまいります。




●東京 教師 I.K


宇城先生 


 日頃のご指導感謝申し上げます。

 待ち遠しかった実践塾が開催され、やっと春が来たと思いました。季節も師によって心が開かれないと巡ってこないのだと今年は知りました。


 世界中がコロナに怯えている中、私たちは「身の危険の感知」から、身体の内なるエネルギーを引き出し、コロナとも調和して生きていく道を授かりました。「守る」という心のあり方は、危機を感知した心が細胞を目覚めさせ、エネルギー体となって真正面に相手を捉え、真っ直ぐ相手の中心に入っていくように感じられました。瞬時に相手を自分の時間に溶かし込んでしまうかのようにも感じられました。この感覚を、一人稽古の中で徹底して身体に落とし込んで行くしかないと思いました。日常を守れるような人間に変わっていきたいです。


 心の発動を教えていただきました。心の最高の形、術技が愛であること、調和であることに身体を通して近づけた感じがしました。


 「手の内」という言葉は、子供の頃から知っていました。しかし、生まれて初めて、具体的に身体を通して教えていただき、このことだったのかと得心しました。あんなふうに手なごころの一点を、ここだ、とついて示していただいたのは初めてでした。これも宇城先生にしかできないことで、全てかけがえのない教えだと肝に銘じております。


 「手の内」「手なこころ」は古い言葉ですが、手の心、気のエネルギーの発動源だったことを日本の古代の人々は身体で理解していたのだと知り、私はいかに頭で生きてきたことかと反省しました。意識で生きて、意識的であることが現代人の賢さだと思い込み、過去の人を侮るところがどこかに潜んでいるということに思い至りました。傲慢すぎです。勘違いしていました。


 意識にはそうした傲慢さがつきまとうのでしょうか。我のまま、わがままになるのでしょうか。意識的であるときは、全ての根源「心」から遠ざかってしまっているかがはっきりして、愕然としました。と同時に、なんて繊細で深く尊い教えなのかと気づきました。そして、気づきとは悟りのことだと得心しました。


 「稽古照今」の「稽古、いにしえをかんがえる」の意味は、小林秀雄の『本居宣長』を読んで、かんがえるは、かむかふ=か身交ふ、だから、身体を通して経験的に過去を蘇らせることだ、と表面の意味を理解し、それで終わっていました。いにしえの人たちの心に触れ、それを今に蘇らせて心を創り、今を謙虚に、希望に満ちた豊かな生き方に変えよう。それが未来の時間を保証する生き方になる。つまり人間の心という原点に絶えず立ち返り、新しく心を創ろうとすることだとは全く理解できていませんでした。


 全てとの調和融合という原点に身を置く師を、心の原点とし、稽古を第一にして修行して参ります。

 今年も何卒ご指導の程よろしくお願い申し上げます。