東京実践塾 2018年9月〜2018年12月

■ 東京 自営業 IK

 宇城先生

 いつもご指導ありがとうございます。

 12月の審査は自分にとり、少しでも空手から自分の癖をなくしたいという目標となった時間であり、同時に、この3段審査の機会を逃したら次はない、というせっぱつまった思いのあった時間でした。

 先生の教えは頭での理解ではまったく意味がなく、身体で理解しないと、結局理屈が優先されて、分かった気になるだけの自己満足で終わります。

 その身体もしかし、癖があっては理解が自己流になる。まずは素直な癖のない身体を少しでも取り戻し、空手を通じて、無意識の世界で先生の教えを刻みたいと思いました。でもそれも頭だったのだなと今では思います。

 先生が基本の腕受け突きを、腕受けが「7」で突きが「3」とご指導くださり、以降それをずっと稽古しました。そして気づかされたことは、自分で自分を守れていないのに、これまでどれだけ「突き」という「我」ばかりを出そう出そうとしていたかということでした。

 それがすべての自分の癖の要因となっていて、肚が引っ込む癖も、そのせいなのだなと思い至りました。

 本当に自分を持ち、自分を守れている人は、自信があるし、落ちているし、まわりを見ることができます。榎本師範や拓治師範をみていると、理解が深まるたびに重みが増していく、それが人間の厚みになっていくのだということを教えていただいています。

 今、一人稽古がとても楽しいです。 希望ある空手を、学ばせていただいていることに心から感謝しています。少しでも理解を深め、先生のお役に立てるよう、そしてやるべきことにもっともっとエネルギーをそそげるよう精進していきます。

 これからもご指導よろしくお願い申し上げます。

■ 東京 会社員 KY

 宇城先生、いつもご指導くださり、ありがとうございます。

 この間の稽古では、空手を通して深さを知る稽古をご指導いただいていることが一番心に残っております。例えば、腕受け投げの稽古では、様々な展開があることをご指導いただきました。まず、投げられた方は、そこで終わりではなく、投げた相手をそのまま投げることができる。しかし、投げた側が、気を抜かず、そのまま相手を制すると、投げられた相手は投げ返すことができない。常に気を抜いてはいけないということをご指導いただきました。

 一方、今度は投げられた側は投げられた時の感覚を切らさずに、再度攻撃すると強くなっといて、投げられませんでした。さらに、突き側は、相手が投げに来たら、それに合わせて逆に相手を投げることができました。この稽古を通して、今まで、いかに自分が一つのことだけしか考えて稽古をしてきておらず、非常に浅いところしか理解できていないかを、この稽古を通して改めて気づかせて頂きました。そして、常に先をとっていることが大切だと感じました。

 また、投げる時は思いっきり投げなければならないこともご指導いただきました。優しく投げるのは、本当の優しさではない。優しさは厳しさの中にあり、中途半端が一番駄目だとご指導いただきました。

 また、先生は、できない中で自分の癖に気づいていくことが大切。とおっしゃいました。私の場合、「やろう」という気持ちが出ると、姿勢が崩れ、できなくなりました。自分の癖がどのような時に出るのかをはっきりと感じる稽古となりました。自分の癖に気づき、その癖を消していく稽古をしていきます。

 また、次につなげることの大切さをご指導いただきました。突いたらそこで終わりではなく、次につなげていく。意識を切らさないということは、仕事でも同じだと感じました。やったらやりっぱなしではなく、自分のやっている事を次にどうつなげていくか。自分のやっていることが周囲にどう影響しているかを考えるようになりました。何事も、単発で終わりになっていると、表面的で深さがなく、浅くて軽い。そうならない為には、物事に対して、常に深掘りしていく。なぜを繰り返し、物事の原点、根本を見ていく。そのような視点や視野を身につけ

ていけるよう、日々日常で実践していきます。

 また、審査会では、拓治師範の審査を拝見させていただき、型をされている身体のブレが全くなく、安定感の凄さを感じました。拓治師範のように、ブレがなく重さのある型に少しでも近づけるよう、稽古していきます。

 また、とにかく自分の稽古量が足りない事を痛感しております。常に稽古。寝ながらでも稽古できるし、電車に乗っていても稽古できるので、もっともっと一人稽古をやっていきます。

 毎回の稽古で、宇城先生に空手の深さ、そして人生の深さをご指導いただける事に感謝しております。先生の生き様に学びもっともっと変化成長していきます。

 今後ともご指導、よろしくお願いいたします。

■ 東京 会社員 NS

 宇城先生、いつも貴重なご指導をありがとうございます。

 この度の稽古でとても印象に残ったことは、他人や会社の評価ではなく自分の軸を持つことでした。あくまでも軸は自分。独りよがりではない自分の軸をもって行動していくことが、周囲を巻き込み、皆と調和していけることなのだと感じました。

 最近は「今、これをやらなければならない!」と強い信念を感じる場面が増え、皆が言いにくい場面でもスッと提案できている自分がいました。

 一昔前は「一人でもやりきる!」と強く誓っても、反対派の人達からの嫌がらせを受け作業が出来なくなることもあり、「一人でもやりきる!」ではなく「一人だけでやっている」という状態に陥いり随分苦労したことを思い出しましたが、この度は全く感覚が異なりました。

 周囲からは「そんなことをやっていたら期限までに間に合わない」「そのやり方についていけるだけの体力も文化もない」といった反論を受けながらも、一呼吸置いた後に「でも、確かにやる必要性はありそうだ。実現するためにはどうしたら良いか?」と必ず一歩踏み込んだ相談が来るようになり、プロジェクトが終わった後は協業先や顧客からも最高の評価を頂いていました。

 「言いにくいことや、ついつい見ないようにしてきたことをハッキリと指摘してくれた」「本気で対応してくれている姿に温かさを感じた」など、感謝の言葉をたくさん頂くことができました。

 数年前の私と今の私を比べてみると、昔の私は「反対派の人達が何と言おうともやりきる」という感覚で取り組んでおり、心のどこかで衝突を起こしていました。でも、今は「みんなでやり遂げたい」という気持ちしかありませんでした。気持ちの持ち方一つで、自分が変わることでこんなにも状況は変わるんだと、小さな喜びを体験出来ました。

 この変化はまだまだ小さなものに過ぎませんが、宇城先生のご指導が日常の中での一つひとつの言動が正しい方向に向かうように背中を押し続けて下さったのだと感じます。

 先生のご指導についていけるよう、もっと変化のスピードを上げて、もっと自分の殻を打ち破れるように、今後も頑張っていきたいと思います。

■ 東京 会社員 SY

 宇城先生、昨年のご指導、誠にありがとうございました。

 本年も宜しく御願い致します。

 昨年の稽古を振り返る中、色々なことを思い出すのですが、ここ最近は「うつす」ということを色々と考えることが多いです。「うつす」という言葉は「写す」、「映す」、「移す・遷す」とも当てはめられるかと思っており、同じ音声ながら「写す」は、物や文書などの原物をありのままにかき表すという意味で「映す」は、鏡・水面・スクリーンなどの上に光があたって物の姿が現れることを表すとのことです。また、「移す・遷す」という言葉にも、“物を動かして他の場所に置く。移動させる”、“組織内の人の配置・地位などを他にかえる”などの馴染みの意味意外にも、”方向を他にかえる”、“ 病気を他人に伝染させる”、“ 時を過ごす”、“色・香りを他の物にしみこませる”なども意味として含まれているようです。

 先生に師事してから、個人的には「写す」という心持で稽古してきたように思ってますが、これは「物や文書などの原物をありのままにかき表す」と意味のように、自ら意図した「私心」を持って行動しているように思えてます。自分の何かしらの意図が始めにあり、そのことに対して考え、そして行動する、ということで「己が意図してから、所作を行う」という“心”持であるように思えます。

 武道の中に、強引に当てはめると、「相手が突いてきたから、“危ない”から攻撃する・防御する」であり、創心館が目指すところとは異なる次元で稽古を続けていたのでは?と考えてます。稽古としての「うつす」は、「映す」のように、「鏡・水面・スクリーンなどの上に光があたって物の姿が現れる」という状況で稽古の必要性があるかと思ってます。鏡や水面のように「己の意図」なく、ただその姿が現れる、ということで、これは、師匠間の関係性だけでなく「合鏡(合わせ鏡)」、「水月」などの対峙する敵との関係性においても、剣術の伝書等に記載されていた言葉で、普遍的な所作として求められていることかもしれません。

 人間において「写す」と「映す」の差というのは、「心のありよう」なのではとは思います。「心のありよう」というと、“良い行い・行動する”等の道徳的な観念から、“各人の意図的な考えを基本として行動する”という「私心」を持ちながら思考・行動を促すように捉えられているように感じてます。実際には、「良いことを“する”」という私心さえも取り払うことを目指すのでは?と考えてます。

 “良いことを意図しないで、何が行動できるのか?”という非難もあるかと思いますが、「元々、生まれてから人は“生きる”という善なる方向に進んでいるのであり、”良いことをする”という意図・私心なくしても良い方向に生きるのでは?」と思っております。

 逆に、この私心から発する「考え・行動」に関しては、よくよく吟味しないと、自ら内なる中から生み出されたものでなく外部から刷り込みから出てきているものではないか?と疑う必要もあるかと思ってます。勿論、人間は社会的な動物であるので、社会の中のルール・規範は必要かと思いますが、現代社会において、その複雑性から余計な刷り込みも多く、私心を無くすという行為が非常に難しい有り様とも思ってます。

 実際に、こんなことを考えている中で、「果たして、自分は、私心を無くして、稽古に臨めているのか?」と自問自答すると、正直なところ極めて怪しいと言わざる負えません。ただ、このような問いかけに向かわせる時間は、現代社会においてほぼ存在しないかと思いますので、稽古の時間は非常に貴重かと思ってます。

 とりとめも無い駄文となりましたが、本年も宜しく御願い致します。

■ 東京 自営業 TK

 宇城先生、昨年も稽古の開催と参加をさせて頂きありがとうございました。

 昨年の9月から12月における稽古での感想文ではありますが、その頃を振り返ると私の場合、本部道場での合宿に参加させて頂いたことの感動がよみがえります。

 20年ほど前に身体の勉強をしていた私にとって、それまで行っていた空手は身体の理に反しており、かえって身体を壊していく方向へと向かっていることに気づいてからは、もう道着に袖を通すことはないだろうなという思いになっておりました。

 先生の著書を拝読し、空手の先生にも本来文章に記すことが難しい内容を理路整然と記すことが出来る先生がいることに驚き感動をしました。その頃は先生の技というよりは、実社会での結果や考え方に興味があり、実践塾よりは道塾への参加を希望していたくらいでした。

 今思えば大変幸運にも当時の規約から道塾ではなく実践塾への参加を許可されたわけですが、道着を着て学ぶと言うことに最初は戸惑いがありました。しかし、稽古に参加させて頂くことで、学と術は断層の世界と思っていたことが、事と理の一致を身体で経験させて頂くことで考えが大きく変わっていき、実践塾での稽古が大変尊いものとなっていきました。

 そして、10年ほど経って昨年初めて本部道場に足を踏み入れさせて頂いたのですが、自分の動きの間違いが普段よりもクリアに解る感覚を得ました。稽古での先生の指摘が頭ではなく身体で納得出来る感覚でもありました。本当の意味での納得という感覚を初めて得たように思います。また、間違いが解るということは道を間違わなくて済むということにも繋がり、本当の「道場」とはこういう場のことを言うのだと知った感動は大変大きなものであり、心からまた道着を着て学べる、学び直せるというありがたみを感じることが出来ました。

 正直、合宿は淡路島だけでいいとも思いました。しかし、あのような素晴らしい場所を作られたご本人である先生が常に滞在しているわけではありません。私も自営をしていますので大変小さいレベルですが、何かしらの場を作っていく際に自分のこだわりや希望を出すと予算が跳ね上がります。そしてその場が大変いとおしくもなります。些細なレベルではありますが、そんな経験を何度かしていることで、より道場の素晴らしさやそこに常に滞在していない先生に感動したのだと思います。

 本来、弟子は少人数であることが当たり前なところを実践塾ではオープンにし多くの人を受け入れられています。そして、辞めていく人が少ないです。そのことを思うと先生が繋がった縁を大切にして下さっていること、定期的な稽古や合宿がそういった気遣いの中で開催されていることに気づき、本部道場での合宿を経てより定期的な稽古や合宿の意義をあらためて感じることが出来た次第です。

 しかし、そのような時を経ていながらも年末の昇段審査では、まだまだ昔の癖が抜けていないことに反省しきりでした。自分の都合が悪くなった時にその人の本音が出るという思いを持っていましたが、正に自分の自信のなさをさらけ出した審査でした。否定も言いわけも出来ない場を経験させて頂きました。

 反省しても後悔なしという先生の言葉を噛みしめて今年は日常を問うていきたいと思います。ご指導の程、よろしくお願い申し上げます。

■ 東京 会社員 MN

 宇城先生。いつも大変すばらしい実践塾の稽古に参加させていただきありがとうございます。

 また、昨年一年、日々進化されている宇城先生の本物の武術、気の世界を通し、多くの教えをいただき誠にありがとうございました。

 私個人としては、昨年は公私ともに順調な一年を過ごさせていただきました。しかしながら、自分自身の内面は、将来や周りの環境などの様々な事に対し常に不安な気持ちがあり、抑うつとした一年でした。このままではいけないと、生活や仕事、考え方を変えようと色々と試みてみましたが効果はありませんでした。

 しかし、先日偶然手にした、心理学者アルフレッド・アドラー氏の本を読んだ際にその原因に気づきました。本を読み進めると、自分の考え方や悩みに当てはまるものが多く見当たり、それを改善するには、共同体感覚をもつことが大切だと書かれていました。そして共同体感覚の欠如している状態は、「我が強い」と言い換えられると感じました。

 その時私はハッとしました。なぜなら、昨年、宇城先生からご指摘をいただいた言葉の中で一番強く残っているのが、私の「我の強さ」でした。私はいままで他人から我が強いと言われた事はほとんどありませんでしたが、それは自分の気持ちを外に出していなかっただけで、周りと本当の意味で協調、調和ができていたわけではない事に気づきました。昨年から今に至るまでの自分の葛藤の根本的な原因が、宇城先生から既にいただいていた言葉の中に集約されていたことが今になって初めてわかりました。

 稽古において宇城先生からいただけるご指摘は、宇城先生の空手の技と全く一緒で、その人の急所をベストのタイミングで集約して捉えられております。しかし、ご指摘をいただいている私が、その貴重なご指導に全く気付くことができない力量であることが今になりよくわかりました。

 内面の我は、組手や型をすると、それがすぐに癖やしゃくりとして出て隠すことができません。そして普段の生活においても、いくら意識で自分の我を抑えて出さないようにしても、内面の中から消すことはできていない事がわかりました。

 そのひとつが、電車やバスで他人に席を譲る時です。私は自分が席を立つことに関して抵抗はありませんでしたが、未だに席を譲ることに照れや人の目を気にするところが残っています。「人が来たから席を譲る」というだけの行為をすればいいはずですが、私は「人が来た」「席を譲る」の間に一瞬自分の余計な感情や意識を入れてしまっていました。そして、この余計な感情や意識が、稽古や実生活の中で、自分の思考のあらゆるところに出てきて、自分の不安な気持ちを作り出していたのだと感じました。

 これからは、自分の中の我を少しでも無くし、より自分の内面のスピードを上げていきたいと思います。

 宇城先生。本年も何卒ご指導ご鞭撻のほどよろしくお願い致します。

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