武道 2014年7月〜2014年9月 東京実践塾 感想文2014/10/03 

■己を忘れて学び、固定概念を外して物事を見る(埼玉 整体師 41歳 K.T)
貴重なご指導をして頂いた宇城師範に感謝致します。ありがとうございました。先生が本当に大切な事は何かを教えて頂けることに感謝致します。先生のお話にハッとし自分が鈍感な事さえ解らなくなっていると恥ずかしくなります。

二人相手に押し返す検証の時に、先生に背中に手を何か所か触って頂くと押し返せるようになりました。自分でやると出来ません。また先生に触って頂くと押せます。はじめ姿勢を直されたと思いました。しかし二度目に先生に触れて頂いた時に二人から押されているのに心が安心している事に気づきました。そのとき思いました。先生は自分のレベルに合わせて触れて出来る「状態」を指導して下さった。それなのに私は「姿勢」を直されたと勝手な解釈をした。自分の狭さが出来ない原因なのだと強く感じました。

己を忘れて学び、固定概念を外して物事を見なくてはいけません。私の拙い感覚でのことですが、先生に直されて前の二人を押せている状態を体験してから、もう一度自分でやろうとしたときに体が薄いバリアをはったように相手に対して緊張と反発を作ったことでした。それは相手を押す以前からで、さらには誰かと対峙しなくてもバリアはっていること気づきました。二人を押そうとする時は、そのバリアを厚くし強くしていってしまいます。

先生に直して頂いた時にはそのバリアが無くなり相手と一体化した感じでした。私はその瞬間だけ前の二人と一つになって動いたようでした。宇城先生の空手は敵は無く全てを一つにして目的を達することが出来る道なのだと思いました。

現在の武道の多くは強い心慈しむ心を作ると目的を掲げながら、実際は試合に勝つ技術が中心で目的と技術が合ってないように感じますが、先生は調和融合を実際に技として表現し、己も相手も活かすということが本当にあることを私達に見せて下さいます。希望の火が心に灯るような気持ちになります。

自分が無自覚に日々無駄な力み、バリアをはっていることに気が付きました。無自覚に衝突を生んでいるということです。自分が臆病なので力み、それが衝突を呼ぶのかとも思います。先生に細胞の力、命の力を学びながら臆する病とは恥ずかしいです。希望は先生の教えです。命や物事に対して謙虚になり正しく見る目を作っていくことで、己の変革を進めていきます。ありがとうございました。これからもご指導ご鞭撻宜しくお願い致します。




■人間の可能性を証明し、自信を生む空手(東京 フリーランス 34歳 YK)
宇城先生の御指導を受けた後に見渡せばスポーツ空手界、またスポーツ界の指導の在り方、稽古の仕方がいかにおかしなものかと痛感します。

「オス!」で気を消し、ピョンピョンと飛び跳ね相手との間合いを遠くし、動きも硬く美しさに欠け、礼一つとっても気の流れた礼ではなく軍隊のような礼の仕方で力の出ない礼をしていたり平気でガッツポーズをしたりする人もいます。指導している人も気、技が使えずどうしたら良いか自分でも分かっていないのが現実だと思います。また礼儀を学ばせる為にと我が子に教えることを棚にあげそういう団体に子供を預けている親もいます。

ライオンに勝てるわけでないのにガッツポーズなどをして勝ち負けに一喜一憂している姿を見た時に感動の一つもなく、嫌な気持ちになるのは衝突、部分体、相対的な争いの果てにあるものが人にとって感動を生むものでなく、あるべき答えでないということの証明だというように感じます。対立衝突を前提とした稽古の行き着くところは破壊であり、創造ではありません。

先生の空手はただの空手を越え、人間の可能性を証明し自信を生み、また調和、融合の果てにある創造を生む人間教育となる稽古です。間が伸び縮みする稽古での気の感覚を持って相手に入っていくと3歩かかる距離に2歩で入っていけるという事実は、自分の仕事でいえば舞台でのお客様との間合いにも活かせるものであり、かつ日常の人間関係の間合いに生きるものです。

空手の稽古を通じそれを日常に活かせるということは日常でもそのような感覚を持つことは空手にも活きてくるという双方向行き来ができるもので生きることとつながる希望のあるもので、まさに24時間稽古であると思いました。

このようなご指導に出会えずにいたらライオンに勝てるわけでもないのに突き蹴りのことばかり考えてどうやったら人を倒せるかなどとオタクのようになって、危険且つ世のためになる創造のできない人間にまっしぐらに向かうところでした。

衝突、部分体の入り方では文字通り入口が衝突ですから出口として仕事も人間関係も円滑にいくはずがありません。稽古で御指導頂き、気を通していた感覚を思い出しながら次の稽古でご指導頂くまでまた自分を変え、創造する力を持つ人間になっていきたいと思います。今後とも何卒宜しくお願い申し上げます。




■人間の可能性を信じ、自分自身が変わる(神奈川 会社員 31歳 Y.F)
いつも御指導ありがとうございます。7月〜9月の東京実践塾の感想文をお送り致します。
この三ヶ月で感じた事は、自分自身の奥底のところが変わらなければ元に戻ってしまう、という事でした。先生に気を入れて頂くと、その(できない)自分から解放されます。そうするととても気分が良く、相手が掛かってきても簡単にいなせますし、何人がきても押し返す事ができ、また視野がとても広がります。身体は羽がついて飛んで行けるのではないかというくらい軽く、自由に動き、解放感に包まれます。この状態こそが、本来自分が生まれてきた時の状態であり、まさに「生まれ持った潜在能力を発揮している状態」なのだと思います。

先生の発する「気」とは、人間の本来の能力を突き詰めていく事で発せられるエネルギーであり、そこには調和の空間ができ、争いは生まれませんし、本人はもちろん、周りの人間達でさえ元気に、より活発にその人生の時間を過ごす事ができ、そこから生まれる創造性こそが、人類の進歩を促してきたのだと思います。

先生の教えにあるよう、今の世の中はその可能性を蔑ろにし、その持って生まれた潜在能力を発揮させないような方向に向かわせるようなシステムになっています。これは一部の人間という存在(周りの人間はもちろんの事、自分自身さえ)を信じる事ができない者達が造り上げた社会構造で、その構造を作り上げた事自体が、人間という存在を信じていない証拠でありますし、人間という存在が怖いから、恐れ、不安から他者を支配し、コントロールしようとするのだと思います。しかし、それ自体がすでに自分自身をも信じない、自分自身に対する冒涜でありまさに破滅の道を突き進んで行く事になります。

それは西洋文明から成る侵略や略奪の歴史の流れから生まれたものですが、その失敗例は人類の歴史そのものと言っていい程で、数々のその失敗の積み重ねが今のところ人類の歴史です。文明の進歩により、世界中の人と顔を見ながら話す事ができるようになった、言い変えれば地球が狭くなった、この時代に、今までのままでは確実に人類は破滅への道を歩む事になると思います。

自分は今の世界のこの状況は、戦国時代を終える頃の日本と同じ状況だと感じます。互いに争ってきた時期を終え(これは先の2回の大戦により地球を破壊尽くすくらいの核を持ってしまった事で一応の限界は過ぎていると思います)狭くなった地球ではどのように共存していけばいいのか、今まで争っていた、殺し合っていた、相手を信じる事ができるのか、当時の日本の権力者のトップ徳川家康は幕府の剣術指南役に「活人剣」を極めた柳生を選びます。これは家康自身も数多の戦乱、騙し、騙されを経験し、その悲惨さが身を染みて分かっていたからの選択だと思います。今の頭脳のみの集団的自衛権とは雲泥の差だと思います。それにより、黒船が来航するまでの260年間、日本は色々な文化が生まれました。

当時の日本の武士は調和し、お互いに高め合う事を選択しました。これこそまさに先生に気を通してもらい、相手を投げ、また投げられ、そこに勝ち負けは生まれない、この事だと確信します。そして日本こそが今の世界に対しての答えを持っていると思います。当時の武士達、私達の祖先が行った変革を今度は世界に向けて行えば今の破滅への道へと続く歩みしか知らない西洋文明への明確な答えになると思います。物質的な西洋と精神的な東洋の調和融合、それは物質的な、目に見えるものを重視する西洋からはできない事であり、その意思は東洋の側から発せられなければならないと思います。

自分は宇城空手こそが人類を新たなステージへと導く事の出来る具体的な方法だと思います。それも今までの人類史に無かったような大転換を行える可能性を秘めていると感じます。今のこの一部の人間が富のほとんどを掌握しているような既存の状態を変えるのにも、宇城空手を深めていけばいいのだとはっきりと確信できました。なぜならそこには調和しかなく、そこから無尽蔵に生まれるエネルギーにより、創造性を高め、自分自身で人間の可能性を証明していけばいいのだと思います。そうすれば、一部の自分自身にさえ怯えた人間達にも、自分自身に対する可能性を呼び覚まし、良い方向へ共に向かう事ができると思います。今の時代にはそういった、時の権力者さえも改心させられるほどのエネルギーを持った者がいないのです。

その可能性を秘めている、その事を学んでいる、その素晴らしさが分かるゆえに過去の自分を捨てる事ができます。そのように毎回先生が見せて下さっているにも係わらず、技のみに心奪われるのは本末転倒です。しかし、どうすればできるかを求めるからこそ、その奥深さ、さらにはその素晴らしい可能性へと気付く事ができます。宇城空手を学ぶ事、それ自体に一つの大きな悟りが必要だと感じます。

戦国時代の後期にやった事を現代で世界に向かって行う、ましてやその時代よりも支配する側の力が強固になり、そういった変革の意志はすぐさま打ち消されてしまう現代でそれを行うというのは途方も無き事だと感じます。

しかし宇城憲治先生はその時代の達人たちも到達しなかった、「気の指導法」を生み出し確立しました。この指導法は各界の過去、達人、名人といった境地に到達したごく一部の限られた、選ばれた人物と人物の間でのみ可能となった技術や、「その人の人生そのもの」の伝達方法といったもので、これをまさにどんな人にでも(その存在自体を否定する人間にさえも)可能にしてしまうものです。この過去の達人たちでさえ到達しなかった境地に至った宇城憲治先生の気の指導法は日本武術の進化形であり、日本武術の新たな扉が開かれたと感じます。

先生の気の御指導により、どんな人間でも一瞬にして、達人の境地に至り、その潜在能力を発揮する事ができるのです。大切なのはその発揮した感覚を忘れてはいけない、という事だと思います。本来ならば、厳しい修行の果てにたどり着いた人間のみがその価値を理解し、学ぶ事ができ、受け継ぐことができるものです。

昔と違い、様々な物、思想、文化が入り混じり、さらには昨今の平和ボケで、ますます人間としてのレベルが落ちた社会になっています。江戸初期の武士達は戦国の世を体験し、生き死にを経た上での選択をしました。明治維新もその思想を受け継いだ武士達が沢山いました。武士そのものが優れた死生観を持った存在でした。しかし現代では生き死にを経験する場も無い、それはそれで幸せですが、武士のような存在も無く、しかし、ゆっくりと確実に真綿で首を絞められるような時代です。自殺者も三万人前後、日本の一部は放射能汚染され、もう人が住むことはできない、社会保障もどうなるのか、他国との戦争に日本人が参加するかもしれない、今の日本は先進国の中でも一番レベルの低い所にいるのではないでしょうか。

その事にも気づけないようならば滅んで当然だと思います。そうならない為にも、日々、自分と戦い、宇城空手を学ばなければならないと思います。そうする事が自然と自分の人生を変え、世界を変えていく事に繋がるからです。また自分を高めていかないと、先生の言葉一つとっても学ぶ側のレベルが低いと豚に真珠です。そして恥ずかしながら間違いなく今はその状況です。そしてまたすぐに元の出来ない自分、潜在能力を破棄した人間になってしまいます。そしてまた同じ過ちを繰り返す、それが自分の人生になっていく、先生の言われる、「できない自分を師にしている」という事です。

それで本人が良いならいいでしょう。しかし、そんな事の為に、両親の奇跡の確率の出会いから、奇跡の確率で自分達は生まれてきたのでしょうか。そんな事の為に地球は人間を生んだのでしょうか。人間の可能性を信じるならばまず自分自身が変わらなければなりません。過去の自分を捨てなければいけません。瞬時に人は変われることを先生に見せて頂いているからです。そちらのほうが事実です。過去の自分の価値観だと、なかなか人は変われない、となりますが、先生の御指導方法は歴史的に類を見ないレベルの物です。歴史のレベル以前の自分に、歴史上最高峰が見えるわけがありません。変われない、というのも自分のちっぽけな人生を優先し、歴史を蔑ろにしている事です。

科学的にみても世の中を構成する物質のわずか5%しか分かっていなのに、さらになぜ自分の人生というもっと小さい価値観にしがみつくのでしょうか。これは今の世の中の不確実さに怯え、捉われているのだと思います。メディアもその不安を煽り、イタズラに人を混乱させています。政府に至ってはそれが虚構に包まれている為、何を信じたらよいのか、何も信じれなくなります。現に今まで絶対的だと思われていた事が次々と崩れ去ってきています。原発はもちろん、政府、企業、学校、教師、医者、さらには親、家族までもです。

今、自分は宇城空手に出会い、何よりも、信頼できる師に教えを頂いています。自分が道を外れた時、それも矯正して頂き、また親の愛以上の大きな愛で包み込んで頂いています。淡路の道場は自分の実家よりも、自分のDNAが安心しているような心持ちになります。これだけ素晴らしい可能性を実際に間近で見せて頂き、また肌で感じさせてもらい、まだ自分の小さな世界に閉じこもっているのか、今までの自分の価値観や経験、人生などは宇城空手からいったら無いようなものなのです。その事を自分は空手を通して実際に体感させて頂いています。そこに真に気付く事ができればもっと捨てられ、もっと変わっていくはずです。

ようやく少しずつですが、宇城空手を学ぶという事がどういうことなのかが分かり始めてきたような気がします。先生、これからも御指導、御鞭撻の程、宜しくお願い致します。




■謙虚に生き、それを行動にうつす「気」(千葉 会社員 30歳 S.F)
宇城先生、いつも厳しいご指導ありがとうございます。この3ヶ月で痛感したのは先生が常々仰る「心をオープンにしなさい」「どんなときでも相手を思いやる気持ちが大事」ということです。人間として当たり前のことができなくなっている自分が恥ずかしいと思い、胸に突き刺さりました。できる自分とできない自分ではなく、始めからやろうとしない自分がいることに気付きました。

仕事でも何かと言い訳をつけて自分を正当化し、弱音を吐き、本質から逃げている自分がいました。そんなとき先生の「相手を思いやる気持ちが大事。自分中心に物事をみてはいけない」という言葉が胸をよぎりました。

武術の世界においてやるかやらないかではなく、できるかできないか、の厳しい世界の元、今現在、自分がいかに低次元で小さいことにこだわっていることに気付いたのと同時に気持ちも楽になりました。失敗することをおそれ、周りの目を気にしながら仕事をしていた自分が情けないです。「失敗しても命をとられることはない。考え方が甘すぎる」毎月の先生の言葉が全て私の語録です。謙虚に生きる意味を改めて痛感すると共に、それを行動にうつす「気」という素晴らしいエネルギーに出会えたことに感謝し、残りの人生を生きていく所存であります。




■何が欠けているのかを気づき、師の技を写す(神奈川 会社員 28歳 M.N)
宇城先生
いつも大変すばらしい実践塾の稽古に参加させていただきありがとうございます。あらためて実践塾での稽古を振り返り、私の頭の中に「姿勢」、「雰囲気」という言葉が浮かびました。

姿勢には「外面の姿勢」と「内面の姿勢」がありますが、外面の姿勢は鏡で確認したり、他人に見てもらうなど肉眼で確認する事ができます。しかしながら、私はいまだに他人に指摘されるまで、自分の外面の姿勢が間違っている事を気づくことが出来ません。意識して直すことができる外面的な姿勢ができていないという事は、稽古に対する意識が不真面目としか言い様がないと思いました。さらに「内面の姿勢」は宇城先生に直接ご指摘いただいても自分で全く理解できていません。先生に姿勢を直していただいた時は、自分の内面が一つになり技がかけられる状態に一瞬で変化します。

本来ならば先生に直していただいた姿勢を身体に記憶させなければいけないのですが、後で自分で同じ事を再現しようとしても外面でしか理解できないため、内面が一つにならず技をかけることはできません。ましてや外面的に肘が伸びていなかったり、拳の握りが甘いようなことがあれば、内面の姿勢を正すことなど一生できないはずです。それに対し、先生が麻子師範、拓治師範代に技のご指摘をされた時は、麻子師範、拓治師範代が先生の仰ったことをすぐに身体で表現され、先生と麻子師範、拓治師範代が言葉でなく身体で会話しているように感じました。技が出来るか出来ないかは、弟子である受け手側の問題であるという事をあらためて痛感いたしました。自分は宇城先生の言葉を受け取るだけの器が無く、その為の覚悟、稽古の量、質が圧倒的に足りていないのだと思いました。

今までの自分の稽古を振り返ると、外面的な姿勢さえ出来ていなく、稽古で学んだ事を何一つ再現できないにもかかわらず、その現実に目を背け、自分の頭の中で技が出来る様になる事をあれやこれやと考えていて、全く意味が無い稽古をしていたと分かりました。宇城先生の「武術の技ができるようになるには、師の技を写すしかない」という言葉のとおり、大切なのは自分の頭で考えるのでなく、師の技を写す為に自分に何が欠けているのかを気づくことだと思いました。

また稽古において先生に気を通していただいた時の「技がかかる雰囲気」というものをあらためて考えました。先生に気を通していただくと、自分の体が安定し、相手の体が浮き、自分と相手の衝突、接触点がなくなります。自分の稚拙な言葉で表現すると「技がかかる雰囲気」になります。正しい姿勢と「技がかかる雰囲気」がなければ、何をやっても空手の技がかかることはないと思いました。またこの感覚は少しでも自分の我を出したり、正しい姿勢から外れるとすぐに消えてなくなります。何度もこの技がかかる雰囲気を先生の気をとおし体験させていただいていますが、自分の力でこの様な感覚を身につける事を考えた時、それは一生かかっても出来ないほど並大抵な事ではないとあらためて思いました。また、その様な雰囲気を身につける為には、実生活において革新的で確実な変化を自分のなかに起こし、「士別れて三日なれば刮見して相待すべし」の言葉のように日々変化し続ける事が不可欠だと思いました。

実生活において自分を変えるには、自分に出来ないと思っている事から逃げずに「やってみる」事が必要だと思います。しかし自分の身の丈に合っていない事をしようとしても、殆どの場合はどこかで妥協したり、挫折する事になってしまいます。それは空手の技と同じで「やってみる」を「できる」という雰囲気に変える事が出来ないからだと思います。出来ないと思っている事を無理をしてやってみても衝突が生まれます。しかし何もせずに逃げていては一生自分を変えることはできません。

私は実践塾において、到底不可能だと思う様なことが気を通していただく事で可能になる体験をさせていただいています。「できる可能性がほぼゼロでも、可能性はゼロではない」という実践塾での体験をどのように捉え、実生活で実践、行動していくかによって、自分の技のレベルが決まると思いました。




■初めから変化技はない(長野 会社員 47歳 Y.M)
いつも、ご指導いただきありがとうございます。
この度の先生の話の中で、自分の日常と照らし合わせて気づかされたことがあります。「昔の日本人は正々堂々していた。変化技は正々堂々と正面から行くから技となる。初めから変化技はない」、日常の仕事の中でも答えばかり探して解決しようしている自分に気づきました。早く仕事を片付けたいと安易な解を求めて、かえって拗れて手間取ってしまっています。まずは正々堂々と正面から行くことの大切さ、また最悪のケースを想定しての対応などを常に準備しておく、甘さを捨てる。先生の教えを日常に活かして自分の成長につなげたいです。最後に目、離さない。姿勢、崩さない。瞬発力、躊躇しない。まだまだ本当に理解しているといは言えないですが、先生の言葉を繰り返すことにより、昨日より、今日(今)を良くできるようにして行きたいです。




■絶対の世界での学び「他尊自信」(神奈川 絵画講師 53歳 Y.I)
6月の稽古で、大勢がスクラムを組んで押しあった時、力が拮抗して一人二人が加勢しても大差ないが、たった一人が横から押しただけで簡単に崩れてしまうのを観て驚きました。力と力のぶつかり合いは大変脆いものだと実感させていただきました。

海外の報道番組では連日、戦争の悲惨な状況が報道されています。長い歴史の中で殺戮を繰り返し、なんの意義もないとわかっているはずなのに戦争は無くなりません。人間の価値観、考え方は「対立」で成り立っており、他の価値観を知ろうとしない、または受け入れようとしない頑なさを感じます。

日本では若者が自分の将来を考えるとき、「自分がどうなりたい」より先に、「人と比べて自分はどうだから?に向いている」と考える傾向が強いと聞きました。勝ち負け、他との比較でしか自分を確認できない、他の人を貶めて優越感を持つ事で、安心したがるような面も見受けられます。自分も多分にそうであったし、「絶対の世界」をご指導いただいている今も全くそうでなくなったとは言いきれません。

仏教では、人には百八つの煩悩があると言いますが、煩悩は元を辿るとすべて「劣等感」に行き着くと聞いた事があります。自分が他と比べて劣るという思いは原動力ともなりますが、表立って対立して劣等感を自覚するのがつらいから、「集団の中で浮かない事」「同調すること」を一番大切にし、いじめの対象とならないように、小学生でも人の顔色をうかがうような子が多くなっているように思います。そうやって若者も子供も生きるエネルギーも希望も失って日本は世界一自殺の多い国となってしまったのか、と思います。自分の可能性を信じられなくて、劣等感を抱えながら行動は起こさず、現実を紛らわすようにスポーツ観戦で大騒ぎしているように見えます。

7月のご講義で、世界の構造は大きくピラミッド型になっていて戦争がなくならないどころか、人口を減らすために戦争が必要と考えるような一部の特権階級によって世界は支配されているという事実にショックを受けました。大きなピラミッドの部分部分には大なり小なり対立があり、その下層に自分らは組み込まれてしまっている。愚民政策。日本の現状も操られたものかと空しくなります。このがんじがらめな状況に絶望していてはピラミッドの下層の潰し合いに子供を巻き込むことになります。「相当な犠牲が出ると思う」と言う先生のお言葉が今も頭の中にリフレインされています。対立ではない調和の価値観、共存共栄の考え方を小さなところからでも実践しなければ、声を上げて行かなければ、と思います。

一般的な向上心が勝ち負けの「対立」から成り立っているのに対して、「他尊自信」というお言葉は、対立、戦いとは次元の違う向上心、相対ではない絶対の世界での学びをおっしゃったものか、この四文字の中に全部の答えが有るのではないかと恐れ多くも思いました。世の中の状況が過酷になって行く中でも「他尊自信」がわかっていくように学んで行きたいと思います。何にも代え難いご指導を本当に有り難うございます。




■正々堂々と生きる(埼玉 教員 37歳 T.S)
この三ヶ月間、私は「正々堂々」と生きることを課題にしてきました。宇城先生が身をもって正々堂々と生きる姿を示して下さっている事や、日本には「正々堂々」という素晴らしい生き方があることを教えてくだり、感動したからです。
正々堂々と生きる事を心掛けてきたことで、多くの事に気付くことができました。正々堂々と生きるということは、本気で、まっすぐに物事に向き合うことだと思います。そのように生きることは容易ではありませんが、試みるととても気持ちが良く、自分のことを信頼できるようになりました。また、他者に対して壁がなくなり楽しい関係が築けることにも気付けました。格好つけず今できることを本気でやることが、いかに大切かがよく分かりました。

しかし、新たな課題も出てきました。周囲の事を考えず、自分本位でやってしまうということです。自分なりに精一杯やってきたことで誤解を受けることがあったのですが、これは周囲への配慮が欠けていたからだと思います。周囲の理解を得る事なく自分の思いだけで突っ走っていたのです。これでは本当の正々堂々ではありません。

以前、宇城先生からりんご農家の木村秋則さんが、北海道でりんご栽培を取り組み始めたことについてお話を伺ったことがあります。「温暖化の影響で青森ではりんごが栽培できなくなるかもしれない。そうした環境の変化を読んで、木村さんは先に手を打っている」といった内容でしたが、私にはそうした「先を見て手を打つ」発想が掛けていました。

前例がないことに対しては誰もが疑いを持つと思います。本来であれば、そのことを見越し、周囲の同意を得てから始めるべきでした。しかし、私はそうした配慮を欠き、自分の思いだけで突っ走ってしまっていたのです。先に手を打ってしっかり説明してから実践する姿勢に欠けていました。

自分が全力を出してやることはもちろんですが、周囲の状況をきちんと踏まえた上でやらなければならないことを痛感しました。今後は反省を活かし、本当の意味で正々堂々とやっていけるようやっていきたいと思います。今後とも御指導の程よろしくお願いいたします。ありがとうございました。


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