武道 2014年4月〜6月 東京実践塾 感想文2014/07/03 

■行動から脳がつくられ、思考が生まれる(神奈川 会社員 28歳 M.N)
宇城先生いつも大変すばらしい実践塾の稽古に参加させていただきありがとうございます。
この三か月の稽古をふりかえり印象に残ったのが、先日宇城先生が行われた学校講演会の中での、ボールをキャッチしたときの指導のお話でした。ボールを漠然と捕るだけでは身体は弱いが、次に投げる動くを意識して捕ると身体が強くなる。以前から実践塾にて宇城先生がたびたびご指導されていた事のひとつですが、私はこのお話を聞いて「靴を揃える」ということを思い出しました。たとえば家に帰った時に靴を揃えるという事は、帰ってきたときに出かける時の準備をする、次の行動を意識しているということだと思いました。礼儀、躾け、作法や、その究極である伝統 の型は、数えきれないほど人を活かす理がありますが、その一つが「行動に先がある」ことだと思いました。先がある行動は身体を強くし、心を主体にしているため「気配り」「思いやり」が生まれ、自然とその場の雰囲気をよくします。

また宇城先生は「行動から脳がつくられ、思考が生まれる」と仰いました。先をとる行動が身体に身につけば、思考や考え方にも「先ができる」と思いました。誰もが普段から先のことを考えながら生活していると思いますが、頭で先の事を考えるのと、身体からくるスピードの速さで先の事を考えるのは、似ているようで全く違うと思いました。実践塾での検証で、合掌をすると身体が強くなるが、その時に何かひとつでも考え事をするとたちまち体が浮い てしまう事からもスピードの違いがわかります。
「ものごとの先を読もう」「思考を深くしよう」と頭で考えるのは本末転倒であり、頭で考える発想の延長線上に、宇城先生のような武術的な思考の深さが無い事をあらためて感じました。大切なのは考えることでなく、師の教えを念頭においた行動、型を何度も繰り返し、身体に刻み込むことだと思いました。実践塾を通し「普段の生活が稽古である」との意味をあらためて考るきっかけを頂きました。





■調和と心は相手に勇気をあたえる(神奈川 自営業 42歳 T.K)
4月の稽古にて、先生が「剛の型」「柔の型」そして初めて目にした「ゼロの型」を体現された時の美しくも力のある動きが印象に残っています。外面の筋肉の強弱ではなく身体の内面を自在に操れるということであり、上手く表現できませんが言葉の通り「剛」であり「柔」であり「ゼロ」の動きでした。昔、本来の整体の語源は、自らの動きなどで自らの身体を整えると言う意味であり、現在のように他人に身体を操作してもらうものではない。と言うことを聞いたことがありました。そのため以前より先生の型からくる内面の変化が本当の整体術なのではという思いがありましたが、自在に「剛」「柔」「ゼロ」の動きをされるのを拝見できて、自分なりに納得しました。先生の行っている型や技が古人が目指して来た本当の意味での整体術なのだと思います。そして、他の人にも同じように技を写す事が出来るという、遥かに高いレベルに行かれています。科学技術の進歩により昔では同定出来なかった目に見えない物質が同定できたり、古典力学から量子力学の世界が発見出来たりしているように、次元が高いところにいることが人間の進歩、成長であることを技によって具現化される人間本来の姿と先生の凄さにあらためて感動した時間でもありました。そんな先生がいらっしゃるだけでその場の磁場は変化し、私達も自然と「不可」が「可」となっているはずであるのに「可」となっていないのは、いつも指摘されるように、心が閉じているからです。我を捨て切れていないのです。

そして、残心の意味の一つとして、「目線」の重要性を教えていただきました。実際に相手に崩されても、崩す方にしても「目線」をしっかり切らさずにしておくだけで技のかかりが全く違いました。変化している磁場にいながらも、自らが切らしていることも「可」となっていない原因であることが解りました。そしてそれは日常にも当てはまることでもあります。

スポーツなどのように一方向への衝突である、古典力学の世界は単純ゆえ分かりやすいという特徴があるように思います。先ほどの整体も同じく外見の操作で変化を分かりやすくすることで本来の意味を変えてしまいました。そこにあるのはマーケットとしての拡がりであり、一般への浸透でもあります。しかし、そこにあるのは相対の世界です。それが主な一般と言われる世の中において、衝突せずに絶対と本質を学びそれを実践していくには、先生の仰るように遥か高いレベルを目指すしかありません。そしてそれが人間としての進歩と言えます。それを見事に具現化されている先生に身体を通して学べる幸せを稽古の度に感じております。

しかし、まだまだ時に相対の世界に疲弊し、稽古にて元気をいただくという情けない状態の時もあります。対立や相対に負けない強さをいただいているのにしっかり持ち帰れておりません。課題ばかりが出てきても「気」を良くして帰路に着けるのは、先生の「気」づかいの他にありません。「調和と心は相手に勇気をあたえる」と稽古で仰られる通りです。この稽古を日々に繁栄できるよう精進して参ります。今後ともご指導よろしくお願い申し上げます。




■こだわりを捨てる(福島 公務員 43歳 H.O)
「こだわりを捨てる」これは、ここ数回の実践塾稽古の中で頂いた、今の私にとって、最大の日常稽古のテーマです。
5月の実践塾稽古で行われた、向かい合った相手と手の平を合わせ、相手に入り、引いたり押したりする検証では、相手の目をしっかり見て、相手と調和し、動かそうとしましたが、無意識に接点である手の平に拠り所を求めてしまいました。相手をしていただいた先輩から「ここ(手の平)にこだわっています。ここを捨てるんです」とご指導いただきましたが、今度はその言葉に囚われてしまい、言葉が頭の中で回るばかりでした。

このような状況が、宇城先生に気を通されると一変しました。視界が広く鮮やかになると共に、視界の中心にある相手の目の周辺が数段階奥に入り込んでいく感じがしました。もはや、相手の目を見ていないで相手の後ろを見ているような、相手の全体を見ているような不思議な感覚で、相手の身体の輪郭に沿って淡い光のようなものが見えました。心の中は静かで、相手との間にあった壁が消え去り、相手を動かそうとか、気恥ずかしさなどの余計な思いが消え、安心できる一体感を感じました。

この心持ちのまま、相手と一緒に動こうとした時「動かなかったらどうしよう」という思いが一瞬よぎり、身体が手の平へ拠り所を求めてしまいそうになりましたが、その思いと身体の反応は瞬時に打ち消されました。宇城先生の気の力が満ちる空間で自分勝手な思いが出るとこうなるのかと改めて認識すると共に、私が心の底から「できる」という事を信じていない、自信がないのだと痛感しました。その場ではそのようは反省をする間もなく、手の平を合わせた相手と一体になって、自分が押しているのか、相手に引かれているのかわからない、不思議な感覚を身体に染み込ませました。

また、6月の実践塾稽古でも自分の胸元をつかむ相手を崩す稽古が行われましたが、ここでも麻子師範より「ここ(相手の腕を押す自分の腕)にこだわって、こうなっている(崩そうとしている)。そうではなくパッと相手に入って、こう」とご指導をいただきました。しかし、自分で同じように行おうとしても、相手を崩そうとする腕が相手と衝突してしまいます。いかに自分自身に自信がなく、独りよがりで、欲が根源にある行動を取っているかを痛感しました。このように武道稽古を通してご指摘いただいた自分自身の欠点を、日常に持ち帰り、生活や仕事の中で正していく稽古を絶えず行い、その結果を実践塾稽古で確認するサイクルを繰り返しておりますが、甘さや横着さを消し去ることができない私は変化のスピードが遅いと感じています。

しかし、人の生は有限であり、その時間の中で成し得ることも限られています。自分自身の世の中への生産性を高めようとしても、この世がおかしくなっていく加速度より、自分自身の成長スピードが速くなければ意味を成しません。ならばこそ、宇城先生に自分自身を重ね、足りないところを謙虚に認め、少しでも変化成長できるよう真剣に行動してまいります。

毎回、同じ反省をしていますが、その反省している自分自身が立っているステージを一段でも二段でも毎回高めていけるよう努力して参ります。これからも厳しいご指導をよろしくお願いいたします。





■心の空手を実践する(東京 会社員 27歳 K.Y)
宇城先生、いつもご指導ありがとうございます。
今回の稽古で最も心に残っていることは、「間」というものを教えて頂いたこ とです。人の「間」と書いて、「人間」。その「間」というものがどのようなものかを、具体的に見える形で教えて頂きました。自分と相手との立ち位置、距離により、対立が調和に変わる。まず、相手と目の前で向き合う状態では対立し、少しずつ後ろに下がっていくと、ある1点で対 立が消えました。しかし、それ以上後ろに下がると、また調和は消えました。先生は、「それは無関心になるから。」とおっしゃられました。これを知った 時に、自分が相手に作っている壁はこんなに分厚く、距離が長いのだということを知りました。目に見えないが確実に存在する相手と自分の「間」の存在を実感 させて頂きました。そして、この距離を縮めていくことが重要であると教えて頂ました。一方、ゴミを拾いに行くと、対立は消えました。心からの行動は、対立が消え、調和を生むのだと教えて頂きました。

もう一つ心に残ったことは、外見が全く同じ2つのサンチンの型を先生に見せて頂いたことです。一つが心あり、一つが心なし。見た目は全く同じでした。しかし、心があるかないかでその後が全く違いました。心ありの型は、相手と調和し、投げることなど自由自在。それに対して、心なしは何もできない。私はこれを見たときに、改めて先生の空手は心の空手なのだと思いました。そして空手を通し、この心を創る稽古をする。だから創心館空手なのだと今更ながら、強く実感することができました。創心館空手を学ぶ者として、先生の生き様に学び、ただひたすら先生のお心をうつし、心を込めて型の稽古を繰り返す。そして、型に心を入れていくことが大切なのだと感じました。先生に学び、創心館空手を通し、心ある人間になれるよう、日々心ありの行動を心掛け、実践していきます。今後とも、ご指導よろしくお願い致します。





■できるかできないかは信じるか信じないか(神奈川 サービス業 42歳 F.S)
6月の稽古は一日中雨が降りしきる中での御指導、誠にありがとうございました。
力に頼ってはいけないと頭ではわかっていても無意識に力が入り、逆に相手に重心を浮かされるという次元の低さを露呈しまくる稽古でした。しかし、私なりに最近感じることは興味の向く方向が変わったことです。実践塾に入った当初は、空手の上達に重点を置き、宇城先生みたいに他を圧倒する組手をしたい、バタバタと相手を投げ飛ばしたいという邪心が少なからずありました。

それが今は、空手で強くなりたいといった欲が嘘のように何処かへ飛んでいってしまいました。厳しい個人事業の現実にぶち当たり、空手で強くなる意味などほとんどないことに気付きました。少々乱暴な言い方をすれば、空手が強いか弱いかなんてどうでもいいと思うようになってきました。そんなことより現実はもっと切実で、食べていかなくてはいけません。生きていかなくてはいけません。悩んでいる暇があったら集客する努力をし、頼るのは自分しかいない環境です。意を決して沖縄まで来て絶対に失敗はできません。

私にとっての実践塾は正しい道に導いてくれる希望の光です。宇城先生の教えを仕事に活かし失敗しない生き方を実践するための学習の場です。そして幸せな人生への道標にしています。稽古ではいつも思うようにできない悔しさはありますが、良いか悪いかは別にして稽古を空手に活かすという発想は完全に消え去りました。逆に、如何に仕事に活かすか、今の興味はその一点に尽きます。

以前の私は、セミナー生から準塾生に上がることや黒帯を取ることを取りあえずの目標にしていましたが、先生の教えを仕事や日常に活かせる人間になるのに塾生もセミナー生もないと今は思っています。ウマが合うセミナー生同士でよくこういう話をして刺激を受けています。

約3ヶ月に一度の実践塾ですが、毎月参加していた頃よりも学びが深くなったような気がします。与えられた課題を1ヶ月で習得できるほど生易しい世界ではありません。3ヶ月に一度でも不思議と焦りはなく毎回の実践塾を楽しみにして日々過ごしています。開業して1年も経っておらずまだ軌道に乗ったとは言い難いですが、最悪の状況は抜け出た感があります。これも宇城先生のお陰です。ありがとうございます。

稽古の中で「できるかできないかは信じるか信じないかだ」というお話がありました。非常に深いお言葉です。自分を信じきることができなければ先生にそう言われたところで何も変わりません。しかし、麻子師範を見ていると先生の簡単なアドバイスを一言聞いただけで何か気付きがあるようで一瞬で変わります。師範と我々の大きな違いはここにあるのだと思いました。

そもそも自信とは何かを考え直し、本来の自信を取り戻すべく3ヶ月間を過ごしていきます。次回の稽古が楽しみです。
宇城先生、御指導ありがとうございました!





■人間本来のエネルギーを創る(千葉 会社役員 48歳 N.T)
宇城先生、いつもご指導有難うございます。
5月の実践塾からでしたが、病気により医者からは良くて車椅子状態と言われたN氏が復帰されました。職場には既に復帰されているとはお聞きしていましたが、手術後から宇城先生の「気」による治療を受けながら完全復活を目指すNさんの姿を「道」で拝見し、そして実際にご本人の姿を目の当たりにし大変勇気付けられました。

「必死で生きる、覚悟をする、変化成長する…」と頭でばかり考えて日常を送っている自分と比べると、Nさんは先生のご指導を受け、部分体的発想のただ歩けるようになるか、ならないかと言う事ではなく、統一体的発想の完全復活という今の常識では考えられない「奇跡」を起こす途中にあると思います。自分がもし、実践塾と出会うこと無く、同じような状況に置かれたとしたら、医者の言うが儘のリハビリ生活を送り、完全復活など信じず人生を諦めていたかもしれません。

人間誰もが持っている潜在能力にスイッチを入れ、開花、発揮させると言う事では、幕末と言う激動の時代から新しい日本を築いた志士、任務全うのため終戦を知らずルパング島で30年間最後の一人になるまで生き続けた小野田さん、ムスタンと言う不毛な地を桃源郷に変えるために生涯を賭けた近藤先生、無農薬栽培に成功した「奇跡のリンゴ」の木村さんなど、常人では成し得なかった事を成し得た人達がいます。

共通して言えるのは、生きる(生き残る)と信じ続けたエネルギーが溢れた人達だからこそ成し得たのだと思います。本来、「エネルギーの大きさ=人間の大きさ」だと思いますが、今日の物質至上主義が加速していけば益々心なきエネルギーの無い人間が増えていくことでしょう。森羅万象に八百万の神が宿ると言う日本古来の考え方や伝統文化、何百年も継承されている武術の訓えには、人間本来のエネルギーを創り出し、心ありの人間を創る要素が多くあると思います。今後も実践塾で多くを学び、心を創る事で自分を変え、日常で実践していく事で他人を変える事に繋がる様、励んでいきたいと思います。





■姿勢の癖、動作の癖、思考の癖を治す(東京 自営業 40歳 M.S)
いつもご指導有難うございます。
稽古での講義で「言葉で説明することには意味がない」とう話がありました。このことは先生より「調和、融合、又は衝突」の本質を空手を通して見せて頂き、また気を流してもらい自らが体感させて頂いたりすることにより、以前よりは理解できるようになりました。

私の場合、分からないことはすぐ答えを求め聞いてしまうことが習慣になっており、それでも頭で理解できない時は「ああするべきか」「こうするべきか」と先回りして考えてしてしまうところもありました。何かしてやろうとすると必ず衝突が生まれるということを、空手や日常のことに絡めながら、先生から何度も説明を受けるうちに、おぼろげながら自身の問題点が浮かび上がってきました。衝突が生まれる時は、必ず自分中心の利己的な欲が先行しています。時には、自分を正当化する嘘が隠れていたりしました。大体は自分の弱さを隠すためのもので、辻褄を合わせるための巧妙な思考回路が既に出来上がっているような気がしました。そのため、稽古でもただ「無為自然」に動くことが出来ません。必ず心裏で何か企んでいるような内部のざわめきを感じます。先生に気を流してもらっている時は安心してそのざわめきを身から降ろせているように思います。その時はとても清々しいのです。

逆に気を止められると途端に繋がりが切れ、心身の内部に重い閉鎖感が出てくるのです。この閉鎖感を少しでもなくすことができれば、空手も仕事もその他の日常の事も、より自信をもって行え、正しい努力とそれに見合った成果も得られるのだと思います。それには、統一体に少しでも近づくようにしなければなりません。我を捨てなければ何も新しいものは入ってこないということは頭では分かっているのですが、なかなか苦心の毎日であります。

しかし、空手の型を通して、姿勢の癖、動作の癖のみならず、思考の癖をも修正できることが私にとって大いに励みになり、空手の稽古をより一層楽しく、有意義なものにしてくれています。




感想文一覧に戻る