武道 2013年6月〜2013年9月 東京実践塾 感想文2013/09/30 

■乗り越える力が備わっている事を知る(茨城 会社員 46歳 T.K)
この度も稽古指導を受けさせていただき有難うございます。ここ数か月、仕事と家庭の人生設計プランの見直しなどで忙しい状態が続き、心身ともに厳しい時もありましたが、表面上は何事もなく過ごすことができました。これも先生との稽古が、いつも真剣勝負。巷の物を叩いて発散する格闘技や、リフレッシュするエクソサイズとはレベルも次元も異なる本物の武術武道に接し、道場だけでなく日常に活かせる教えを受けてきたからだと思います。

以下に今回の稽古期間(6月から9月)のうち特に印象に残ったことを記したいと思います。8月の稽古会の際、7、8人に抑え込まれた状態で、それをはねのける、ということをやりました。3、4人ならともかく7、8人に手足を抑え込まれると全く動くことができませんでした。あまりの堅固さに”起きる”、”はねのける”という気持ちさえ起きませんでした。 しかし、先生から”気”を通されると、自分の中の”何か”が変化し、エネルギーが満ち溢れ、びくともしなかった7,8人を動かし、崩すことができました。人間には元々すごいエネルギーがあることを改めて認識しました。と同時に、「人間にはこれだけの力がある。だから今の局面に負けることなく乗り越えろ、必ずできる!」というメッセージを送っていただいたようで大変ありがたく、また涙が出るくらい嬉しかったのを覚えています。

これからの世界情勢、日本社会の状況により、まだまだ厳しい出来事が起こるかもしれません。これらの事態に対して、対処できる自分になる。最低限、自分の家族を守る。仲間を守る。そして、地域社会を、日本を、世界を・・・というように発展進化していける自分でありたいです。 気持ちだけ壮大ではいけません。実践し、前に進みたいと思います。これからもご指導をよろしくお願いいたします。 ありがとうございました。





■先に進んでいくエネルギーで様々なことに挑戦(東京 フリーランス 34歳 YK)
できない自分とできる自分をその場で体感させて頂くたびに、こうも違うのかとその状態の差に驚きます。先生が気をかけてできるようにして下さる時は空気感がパッと変わり、「できる」と頭で考える前に「できる」ことが体全体で分かっている気がしているというような感覚になっています。

空気といいますが、まさに「空(くう)」の「気」が満ちているといった感覚です。頭や理屈で考える余計な段階がとれ、スピードが数千倍になったようで、相手と衝突する感じがありません。この状態でいれば日常から仕事に於いても先を見通せる速さやおかしなものを感じて避ける第六感が発動し、学んだことを活かせるのですが、日常ではまたできない自分に気づき、自分の遅さを認識します。日常に気づきがあり、稽古は稽古でなく、日常自体が稽古であることを痛感します。

ただはじめさせて頂いた頃から振り返ってみれば、自分が進歩できていると思えることが多々あります。一番大きいのは人間関係で、ただ自然に三戦をする感覚でいると、今までよりも自分が開かれ、また自然体であるからか、とても良い人間関係に恵まれ、その中から新しいお仕事を頂けたりすることが増え、ひとえに実践塾で教えて頂いているおかげであると思っております。できない自分にとどまらず、先に進んでいくエネルギーを持つ身体で、様々なことに挑戦していきたいと思っております。






■自分の確信した目標に向かって生きていく(東京 会社経営 49歳 K.H)
稽古を通じていつも貴重な経験を与えてくださること、感謝申し上げます。先生の特徴的な「気」を使用しての、「できない身体」の複数の第三者を、同時に「できる身体」に変える稽古は他では経験することのできない稽古です。今までできななかったことが一瞬でできるようになる感覚は、経験した人間でなくては理解できないでしょう。まさに「ビールの味は飲んで初めて分かる」です。大半の「分からない人」は、未知のことがあると、その事象をあるがままに感じたり受け止めたりしようとせず、必ず自分の経験の引き出しから、似通った事柄を引っ張り出して無理やりあてはめて理解しようとします。そしてそれでもうまくいかないときには、その事象自体存在しないか、あるいは「やらせ」という作り物だと処理して、自分を納得させようと試みるのです。今、多くの人は知識偏重により、目に見えないものに対して畏敬の念や信じる心を失っているように思えます。目にみえずとも、自分の知識の中で処理できるものは存在し、知識の範疇外のものは存在しないかまたは疑ってかかるか無理やり知識から当てはめようとする。そこには、自分は生かされてあるという謙虚さや、未知のものに対して畏れや敬う気持ちはない。時間や空気もそのままでは目に見ることはできないのにです。

一番の問題は、将来という見えないものを信じる力や、希望というものをうしなっていることだと思います。そもそも、そこに自分の速度を遅くし、心と身体の停止を招き、「できない自分」の根幹である「謙虚の放棄」だということに気づきません。できないことはできないと素直に認め、受け入れ、理解できないことは知識で処理しようとせず、謙虚にあるがままに感じようとすることが、先生のおっしゃる「自分の器を広げる」ことにつながるのではないかと思います。「世界で最も素晴らしく、最も美しいものは、目で見たり手で触れたりすることはできません。それは、心で感じなければならないのです」これはヘレン・ケラーの言葉です。我々にとって一番大切なことは、知識に頼ることなく「心」でものごとを感じることであるということを忘れてなりません。そして宇城先生は、稽古を通して常に我々にそのことを思い出させてくれます。

先生の技には時間の概念を受けません。時に先生はその説明において、「地球の裏側までホースを引っ張っていき、元栓を開けると何時間後にホースの先から水がでるか」という例をあげ、中に水が詰まった状態のホースを引っ張っていくならば元栓を開けた瞬間に水は出る。それと同じように、前に立つひとの肩若しくは腰を押さえて動かないように安定した姿勢で、何人かで先生の技を受けた時の感覚は、列の何番目にいても自分が直接受けた時と同じ時間で瞬間的に技を感じるのです。そしてその後に続き、前からまるで音や波が伝わるように崩れて行くものもあれば、一対一で受けたのと同じように集団がひとかたまりのままで崩される。波のように伝わってきたものは、途中てどんどんその力が増幅され怖いくらいです。

稽古中、先生に気をかけていただき、できる自分とできない自分がいることを体験することは、大きな驚きですが同時に不思議なのは、気を通じて掛けられた技には倒されたことによる悔しさや敗北感がなく、倒され側にも気が繋がり投げ返すことができ、その連鎖がまるでキャタピラーのように続いていくことです。そこにはあたかも勝敗という概念がないかのようです。そもそも強いとか弱いとか勝ち、負けとは何でしょうか。試合のように限られたシチュエーションのなかで勝ち負けを決めたとて、たいした意味はないのではないでしょうか。

以前にも述べたことがありますが、人間は進化の過程において、他の動物のように闘争するためのなにも持っていません。インパラやガゼルのように、逃げるための早く走る足さえも持たないのです。しかし、その代わり武器を使用することがでできます。そしてその事により、他の動物にはない同種間での命のやり取りになるシチェーションが生まれました。だからこそ、武器を扱うためには心が必要となり、武道が必要となるのだと思います。そして宇城先生に稽古で体感させていただくような、素手の場合でも武器を持っているのと同じことであるようになるのが本当の武術であり、ただ単に急所を攻撃する技術や、手足を鍛えて武器化するといった意味では決してないと思います。その出発点は守る心であり慈悲の心です。

最近の脳科学の研究により、色々わかってきました。その中の一つに「共感細胞(ミラー・ニューロン)の存在により、人間は決して一人では幸せになれないことがわかった。つまり人間の本質は攻撃ではなく守ることが自然であり、人間は細胞レベルでそのように造られているということではないでしょうか。つまり格闘技ではなく武道なのです。武器を持つものは武器に心を奪われる、単に手足を鍛えることに専念することは同じこと。視野思考が狭く浅くなるのです。宇城先生の稽古は、ただ体を動かし後で飲むビールが旨い、という稽古ではなく、稽古を通じて思考を深め、自分の器を広げ日常に生かしすことで自分を変えていくことができる、そうした稽古です。しかし変わる変わらないは自分次第です。

武術の世界に脚を踏み入れらるかどうかは、いつ今までの自分が頼ってきたものを棄てる覚悟が決まるか、そして棄てられるかにかかっていると思います。大抵の場合、頭では今までのものを捨て切り替えたと思っていても、やっていることは依然として変わっていない、自分でそのことに気がついていないのです。空手の型、稽古でさえそうなのだから、日常はまったく変わっていまい。そう思えるのです。稽古を通じて、先生から受け継ぎたいと心から思ったことは、覚悟と気迫です。空手が先か、日常が先かは判らないないですが、どちらにも覚悟と気迫を持ってのぞむ所存です。この年令になって、先生のご指導のお蔭でようやく初めて本当に自分のやりたかったこと、 そしてすべきことがはっきりと判りました。先生に出逢うことがなければ間違いなく後悔していたか、さもなくばなんとなく生きてきた人生だったでしょう。仕事も組手も同じです。勝って奢らす負けて腐らず 。

最近になり、ようやく色々なことが少しずつわかってきました。ただそれだけでも、今までの自分とはまったく違う考えの自分がいます。さらにその奥には理解したこと、あるいは理解したと思っていることの数百万倍、数千万倍のわからないことがあるのです。今の自分が過去の自分と大きく違うことはその「わからないこと」、そしてそれ故「できないこと」を謙虚に、そして心から素直にその事から目をそらすことなく、正面から受け入れる勇気を持てたことです。さらにはそのことが、これから先の自分の人生を大きく変えていくであろう道へと繋がっていることを確信ができます。できる自分とできない自分が共存しており、できない自分は自分自身が作り出していること。自分のなかにはできる自分がいることの 確信です。そして宇城先生が示してくださる「覚悟からくる気迫」。それは大いなる愛の裏返しです。ライオンの牙のように、子ども運ぶためにも、獲物のの命を奪うためにも使われる。全てに寸分の妥協のない気迫を、先生の姿に感じるからこそ先生を前にすると心がざわめき浮き足立ち、そして観念の気持ちになるのだとおもいます。

なぜ筋トレがダメなのか。それは筋トレの目的が、地球の重力という自然に逆らう行為と目的であり、筋肉を大きくし力を入れるというのは重力に逆らう喧嘩することだからです。重力と自然界を謙虚に受け入れる心と、それを感じる感覚を自ら放棄することになるからだと思います。なぜ自分の型は軽いのか? 重さとは? 少しでも力や力み、外形に心を奪われると、明らかに心がざわつき重心が浮きます。ふわふわする。日常もきっとふわふわしているのでしょう。そして日常で自分を飾ろうとする心が、型にもそのままうつりこむ。型をしてても、いつのまにか外面に気を取られてしまっている自分がいます。しかしこんな私ですが宇城先生のご指導のおかげをもちまして、今また大きな目標と言うか、自分のすべきことが確信できました。このことは、自分の人生を大きく変えていくに十分な事柄です。

常に先生から学んだことを心に留めながら、自分の確信した目標に向かって生きていきたいと思います。ありがとうございました。そしてこれからもどうかご指導よろしくお願い申し上げます。





■人の行動が脳を変化成長させる(神奈川 会社員 28歳 M.N)
宇城先生、いつも大変すばらしい実践塾の稽古に参加させて頂き、ありがとうございます。 ここ数年の自分の生活を振り返り、近頃ふと気づいたことがありました。それは一日の時間をダラダラ過ごしたりする無駄な時間がとても少なくなったという事です。低レベルで感想文に書くような内容ではないかとは思いますが、以前の自分から考えると信じられない事だと思いました。

以前はだらしない自分が嫌で、時間を有効に使おうと心がけていましたが、仕事で疲れていたり、プライベートでうまくいかない事があると1日家でダラダラ過ごしたりしている時がありました。しかしここ数年は、忙しくて毎日深夜まで仕事をしている様な時期でも、次の日には自然と早い時間に目が覚め、常になにか行動をしています。さらにその事に関し不思議に思ったのが、以前の様に時間を有効に使わなきゃと特に意識してない事でした。数年前と比べると今の方が忙しく自由な時間が少ないですが、体力的にも精神的にも充実しています。 改めてその理由を考えてみましたが、以前の自分と比べ何か劇的に変化した出来事などは思い当たりませんでした。しかし年単位で考えるとたしかに自分の私生活が変わったと実感します。それは毎月実践塾で先生の気、技、考えに触れ、それを日常の生活で自分なりに少しずつ実践した結果による事は間違いありません。

 先生がいつもおっしゃるように、改めて、人には「できる自分」と「できない自分」がいて、誰にでも「できる自分」になれる可能性があるという事を実感しました。そして「できる自分」に変化するには、師の数え切れない口伝により、いくつもの要素が伴うことが必要だと思いました。まさに先生のおっしゃる「樽桶の法則」のとおりで、部分的に成長したとしても、本当に変化するためにはひとつふたつの要素では足らず、たくさんの要素が伴ったときに初めて人はひとつ上へステップアップできるのだと思いました。

 そう考えると現代の「頭(理屈)で教える指導方法」では、本当の意味で人を成長し、変化させることが出来ないと思いました。現代に持て囃されているたくさんのハウツーやテクニックは、ある一定の条件においては限定的に効果があるかもしれませんが、統一体でなく部分体の考え方のため、人の人生という尺度で考えると普遍的に耐えられるものはほとんど無いと思います。まさに付け焼刃であり、新しいものに飛びつき、だめになるとまた新しいものに飛びついて、同じ過ちを何回も繰り返していることに気づいていない状態だと思います。実践塾で拝見させていただいた映像でビル・ゲイツ氏が話していた現代の教育における問題点のとおりだと思いました。ましてや樽桶の法則の様に、段違いに内面を成長させる事は不可能に近いことだと思いました。

 前回の実践塾で印象に残っている言葉が、「脳が人の行動を決めるのでなく、人の行動が脳を変化成長させる」でした。まさに宇城先生が実践塾で体現されている事であり、至言だと感じました。宇城先生の教えは理屈でなく、「やってみせる、やらせてみせる」「技を移す」などすべて身体、行動を窓口とする教えです。 逆に現代の教育は、脳や頭が窓口になる教育に他なりません。その証拠に、多くの指導者が言葉で教え、行動をしていないと思います。指導者が現役でないというスポーツの世界はまさにその代表といえると思います。しかし、その一方で宇城先生をはじめとする道で紹介される先生(指導者)方は、誰よりも行動していて、誰よりも一番現役です。

 指導者が行動でなく言葉で教えた場合は、脳や頭のバーチャルの世界では、指導者は教えた気になり、弟子は成長した気になるかもしれません。しかし、本当の成長である「質の変化」は、指導者が「実際にやってみせ」弟子が素直にそれを「写す」事で初めて実現できるのだと思いました。
今回感想文で書かせて頂いた、自分で感じている変化は大きな視野で見るととても次元の低い事で、自分が今より過酷な環境に立てば全く通用しないと思います。けれども、これからも宇城先生の教えを実践していくことができたら、さらに自分を成長、変化させていくことができると確信しました。





■外形から内面へ、そして観の目をつくる(千葉 無職 65歳 M.T)
 統一体と部分体の違い、先生に気を送られるとできないことができる違い、そして気が通った時の身体の感じを様々体験しています。受け手になって何もできない時は息がつまり、身体が固まり、相手と衝突し動くことができない。できる時は空気が変わり透明になったようで、身体が自由になり、相手と衝突なく動ける。統一体の凄さ、気を送られると瞬時にできない自分ができる自分に変わる。 できる身体なのにできない。できなくしているのは自分。どうしたらできるのかではなく、どうしてできないのか、何故なのかである。倒そうすると衝突する。倒そうとする欲を捨てる。しかし、欲を捨てようと頭脳の命令では欲はなくならず、動くとやはり衝突して倒れない。 無欲になる。いままでの力の概念を捨てる。子供ができて、大人ができないのは何故か。頭脳の命令では衝突して倒せないことはわかる。できない自分にしっかり真正面から向き合う。と同時に頭脳でなく心と身体のつながり、心の問題にある。頭脳では対応できないし、頭脳は一つのことしかできない。

「0.5秒以下は心で身体を動かす。統一体によって潜在力を引き出す」その気づき、心のあり方の指導を受けています。皆さんには心がないとのお言葉があり、痛烈な言葉で衝撃ですが、真摯に受け止めるほかありません。 曲がった突きを直す、言葉では直せない、身体でしか直せない実例も示していただきました。脇が甘い。頭の指示では肘が絞れない。気を通されると空気が変わっていつの間にか肘が絞まっている。今更書くのは恥ずかしいですが、身体も頭脳も見ているようで見えない。見えているようで実際は中身が見えていない。なおのこと心も見えない。内面もみえない。
心が身体を動かす。頭脳は身体の一部、頭脳では遅く、一つしかできない。武術空手を通して心をつくる、目に見えない、無意識の世界を学んでいます。よりいっそう謙虚に生き、稽古に向き合い、自分自身との会話を通じて、自身の心と身体をつくるほかありません。稽古のできないことを通して、また日々心を込める、心を磨く生き方をしていかなければならないです。

 経済格差、常識格差についてのお話のなかで先生は、世の中の常識に抗して、四面楚歌の中、農薬・肥料・除草剤を使わない林檎の自然栽培を実践した木村さんが、無収入で林檎が実らない10年間の生活を経て遂に実現に至ったこと、その窮乏と林檎が実らなかった長い生活を強調されていました。帰宅後、以前読んだ木村さんの著書「リンゴが教えてくれたこと」を読み返しました。常識に抗して実践する困難を乗り越えて、農薬・肥料・除草剤を使わない自然栽培を成し遂げたことにあらためて頭が下がりました。そして奥さんの農薬被害の発症を契機にして、強烈な家族愛と不屈で、強靭な精神力で立ち向かった姿勢に心を打たれました。まさに生死を賭けた戦い、厳しい道のりを歩かれました。 栽培は地上に出ている木の幹枝、葉、実だけを見るだけではなく地下にある根、そして土壌を見る必要がある。さらには木、葉、実、土壌の外形だけではなく、その内形を見なければならない。それを自然に寄り添うことで、林檎の自然栽培の本質を発見しました。

「米一粒百姓はつくれない、米は稲がつくる。百姓はそのお手伝いである。」との木村さんの言葉を噛み締めているところです。翻ってスポーツは筋肉の世界になっていますが、今学んでいる武術は細胞レベルの世界であり、見えない世界です。先生のおっしゃる事理一致、外形から内面を、そして観の目をつくらなければと思います。





■硬く閉じていた心を開き、調和の心身に成る(神奈川 会社員 43歳 M.N)
 実践塾で宇城先生のご指導を受けた後は、脱皮したような、重たくサイズが小さくきつい服を脱いだような感じで、心も身体も軽くなり頭もすっきりします。そしてまた、次回の実践塾までに、心身・頭が重く締め付けられていき、実践塾でまた心身・頭が軽くすっきりするという繰り返しです。 私はこれまでの宇城先生のご指導により、硬く閉じていた心を開き、調和の心身に成りつつあると思っていましたが、まだまだであることを感じるとともに心身が日々固まっていっていることを感じ取れていないことに気付きました。自分は成長しているという驕りが、日々の心身のマイナスへの変化への気付きを妨げ、さらにマイナスへ向かっていっていると思います。 これから、調子に乗る心に毎日毎日『調子に乗るな』と戒めていきます。





■本当の自分の中心を思い出す(福島 語学教師 36歳 R.T)
今回も素晴らしい稽古に参加させていただきまして、ありがとうございました。 この4か月間は、仕事で参加できない日も多かったのですが、参加できなかったからこそ気付いたこともあり、どんなことでも学びになる、どんなことからも学べるということを改めて感じました。6月の稽古は欠席だったのですが、稽古を受けてきた弟に会ったときに、明らかに行く前と行った後では雰囲気や姿勢や言葉の端々の強さなどが違い、もし、こういったことが顕著にわかるなら、周りの人や家族や仕事場で良い影響が広がっていくのは当然のことのように思えました。

 9月は日曜日の稽古の朝にオリンピック招致が決まり、その報道での宮城県の仮設に住んでいるある男性の言葉がとても印象に残っています。それは各地の人々が歓喜に沸く中、インタビューに答えたその男性の言葉は、「7年後のオリンピックに喜ぶのはいいけれど、今日、明日もわからない自分たちのことを忘れないでほしい」というような内容でした。本当にその通りであるし、あのようなマスコミの報道が、私たちの本当の現実から、目を背けさせるように仕組まれている気がしてなりませんでした。 今まで私はこういった報道などに何の疑問も抱かず、情報をそのまま鵜呑みにしていたようなところがありましたが、先生の教えを受けるにつれて「そうではない、今までが間違った、仕組まれた報道、教育を受けてきたのだ」と気づくようになりました。それに気づき、それを直せるチャンスをいただいているということは何よりも素晴らしいことだと改めて思います。 前回の稽古で、先生は「今までとは真逆の世界になる」とおっしゃっていましたが、ここ最近は日本でもまた世界でも、今まで常識だと勝手に思い込んでいたものがことごとく覆っているように感じます。改めて常識とは誰が作り、何を以って常識としているのだろうと思います。

 また9月の稽古の講義では、あらゆる分野のお話を、一つの真理の元に解説してくださり、全てはつながっているということを改めて示してくださったように感じました。こんな稽古は世界中どこを探しても見つからないと思います。 とても衝撃的だったのはキャベツが害虫に対して排除するような何かを出す、ということでした。植物にも目には見えないけれどオーラがあり、意志があり、何かを発しているということの証ですが、これは農薬がまかれた植物でも起こるのでしょうか。人間のおごりや勝手な都合で自然に手を加え、農薬を使用したりしていますが、植物は皆、自らの生命を守る術を知っており、人間が手を加えなければ、自然は本来の命そのままに自分の能力を発揮していけるのだと思いました。

 随分前に本で読んだ話ですが、ある人がサボテンに向かって、「怖くないからそんなに棘を出さなくていいよ」と毎日話しかけていたら、棘のないサボテンができた、という話を読んだことがあります。植物にも心が伝わる、心が分かるのだと思いました。また刑務所内で囚人の人たちがトマトを栽培したお話では、いかに心が大切で、結果にどれほど作用し、影響を与えていくかということを教えていただきました。私たち人間は脳があって、思考することができるためにいろいろなことを考え、それに縛られてしまいがちですが、もっともっとシンプルに、心を大事にし、欲を無くしていけば、それでいいのではないか、と思いました。

 こうして稽古に参加させていただき、また、次の稽古に参加するまでには、自分の日常やいろいろなところでさまざまな影響を受け、それが自分の本心にそぐわないものでも、「こうしなければならない」「こうするべきだ」などと思い込み、自分をがんじがらめにしてしまっていても、稽古を受けさせていただくと、自分が中心からずれていたことがわかり、すーっと真ん中に戻る気がします。それは先生のスケールの大きさで、自分がとても小さな世界で物事を見ていたな、ということに気付けるからだと思います。いろいろなことで頭がいっぱいだったけれど、本当の自分の思いはここだった、本当の自分の中心はここだったと思い出す感じです。

 見えない気というものを具現化して、私たちにわかる形で教えてくださり、さらに私たちに体験までさせてくださっている、そのような稽古は、世界中を探しても見つからないと思います。 そのような師に出会えたことが、何よりも有難く、私の人生の財産になっております。宇城先生に出会えたことに感謝し、与えられている毎日に感謝し、教えていただいたことを日々の中で大切に実践していきたいと思います。 今回も本当にありがとうございました。心より感謝御礼申し上げます。






■心ありの人間になり、一人改革を(千葉 会社役員 47歳 Y.T)
宇城先生、いつもご指導ありがとうございます。
 この3か月の稽古の中で特に驚いた検証の中で、多数の人を後にして刃物やメリケンサックを持った相手から守ると言うものでしたが、何も持っていない相手に対した時はそれほどビビらないのですが、何か武器を持って対した途端、背後の人までがビビってしまいます。 しかし、先生が背後の人達を守った場合は、背後の人達は全くビビりません。それは本来守るべき人がビビっていない状態であり、背後の人達も信じているからだと言う事でした。会社のトップがビビっていれば、社員はそれを感じ、まとまりのない企業として駄目になるでしょう。 トップには覚悟と社員を引っ張っていく心が必要であることが良く理解できました。 また、9月の稽古の中でミラーニューロンに関しての映像を拝見しました。脳に障害がある男の子の奇跡的な話でしたが、大変感動しました。目に見えない事象と言う事で奇跡と扱われがちですが、このような事例は、実は今迄にも沢山あったのではないかと思います。世間一般的には、このような事象は間違った教育などの弊害からくる見えるものしか信じようとしない考え方による、偶然や遣らせだと思う人も多く、まだまだ信じられないような事でしょう。

 ミラーニューロン自体、最近になって科学でわかってきた事なのかもしれませんが、子供が親を真似て言葉や動作を覚えたり、弟子が師を見て学ぶと言う様に、手取り足取り教わったり、頭で学んだりするのではなく、親や師は身体を通して映し、子や弟子は身体を通して映し取っていくと言うことは、昔から当たり前の事としてあったのだと思います。 実際、先生の稽古での検証(映す)で先生と一緒に型をすると、身体が統一体になり、とんでもない力(筋力ではない力)が出るようになったりすることを、我々塾生は既に体験済みです。 先生がいつも仰られる『科学はいつも後追い』と言う事がまた証明されました。 最近では、2020年のオリンピックが東京に決まり、日本国中でお祭り騒ぎです。元気のない日本や、被災者の方々を一時的に元気にさせる意味では良い事なのかもしれませんが、開催に向け多額の国費や労働力が回され、依然と進まない被災地復興はどうなってしまうのでしょうか。 現代オリンピックは商業化され、既に本来の意味を持たなくなってしまっています。スポーツの祭典=部分体の祭典のようなものに思えてしまいます。 最悪は、このような世界的規模の流れは、本来人間が持っている潜在能力を益々退化させ、宇宙の法則(真理)とは真逆の方向に人類を導いていく様な気がしてしまいます。

 統一体的な見方で物事を捉えると、世の中の矛盾が多くあることがわかります。我々はこのような世の中に実際に生きているので、共存していくことも大切だと思いますが、一人一人が覚悟を持ち、心ありの人間になることで、周りの人を変え、世の中を良い方向へと変えていければと思い、これからも一人改革をしていきたいと思います。





■身体は私、心は公(特別支援学校教諭 35歳 T.S)
いつもお世話になっております。  先生が常々口にされる「身体は私、心は公」「身体は内なる気に応じて動き、気は心の向かう所に応ずる」という言葉を心の中でつぶやくことが多くなりました。その言葉の真意、深さはまだ理解できませんが、「心」がいかに大切かということを実感として以前よりも強く感じるようになりました。

先日、強度行動障害と言われ、激しい破壊行動や他害行動のある子供がどうにも手をつけられなくなるほど荒れたことがありました。私は特に策があったわけではありませんでしたが、その瞬間、瞬間良かれと思う対応を直感で行いました。すると、なんとかその場を収めることができ、大きな事故を回避することができました。周囲の方達は私の対応方法について良かった点を分析してくれましたが、私にとってはただの後付けにしか思えませんでした。  その時は「ああすれば こうなる」という仮定、理屈に基づいた行動ではなく、子供が欲すること、望むことを身体が感知し先回りして対処することができたのだと思います。  それができたのは、宇城先生に日頃御指導をいただくことで時間を早くする感覚が私の中に蓄積されてきたからだと思います。 私の認識できない所で、宇城先生は私を変えて下さっているのだと改めて感じました。

  この他にも身体が先に反応していて、その反応が的確であったというケースが近頃多くあります。先生は私達に凄い事を伝えて下さり、私達が気づかない所で私達を変えていって下さいます。本当に感謝の気持ちでいっぱいです。  この良い循環を間違っても「自分の力」だなどと勘違いせず、今後も先生の教えを日常に活かすことだけを考えてやっていこうと思います。 ありがとうございました。





■心を開きオープンにして人と調和する(福島 会社員 51歳 M.O)
早や東京実践塾のセミナー生としてお世話になり一年が経ちました。毎月宇城先生にお会いし、講義、気の検証、空手の型を通して、人間の生き
方を厳しくも優しく、そして愛をこめて教えていただき感謝にたえません。宇城先生に付いて学べる事で、今の私の心の中で生きる希望が沸々と湧いてきます。

私は福島県在住でしかも福島第一原発から20qの地に生活し、生家は放射能汚染により生活できない状態にされてます。日々、普通に仕事をして生活しておりますが狭い借家に帰り、フッと一息つくと心が萎える時があります。そんな時、宇城先生のお姿、お言葉を思い浮かべると力が出て来るのです。心の張りが出て来るのです。私は、素晴らしい師に巡り合えて良かった。ほんとうに良かった。心からそう思います。昨日の東京オリンピック招致のプレゼンテーションにて、猪瀬都知事は落ち着きがなく浮いているように見え、また安倍総理は、福島第一原発の汚染水は完全にコントロールされていると明言しました。その言葉は私たち福島の人間にとっては大嘘であり、漁業者を含め大変はらだたしい言葉でありました。人間力の低下の極みのような言葉でありました。確かにそうでも言わないとオリンピックの東京招致はできなかったかもしれません。被災地の人間にとっても、オリンピックは希望の祭典ではあります。

しかしその競技スポーツでさえも、宇城先生がいつも仰るように競技力や、勝敗の結果だけを求めるレベルの低いものに成り下がっている状態です。すべてではないにしろ、現在の柔道に見るように心なしのスポーツ競技です。東京オリンピックにおいてもメダルの数が求められるでしょう。そして7年後主力になる選手は今の十代の青少年です。その青少年を教える人達の人間力如何によって、オリンピックの成否があるのではないでしょうか。

今の日本において、東北の大震災、大津波、福島原発事故があり、その復旧復興が叫ばれ、今度は東京オリンピックによる経済効果の波及。なんだか私的には今日本はクライマックスを迎えていると言うか、もう限界と言うか、いっぱいいっぱいのような感じがします。これに、最近言われている南海トラフの大地震が起きたら日本はどうなってしまうのか、またオリンピックに備えての防災対策はどうなのか。私は競技施設の整備新設より、防災施設の整備が最重要だと思います。

なんだか空手実践塾の感想から離れたような気がしますが、今の日本なんとかしなければいけません。宇城先生の進める一人革命により、私たちが少しでも変わり、それによりまわりにも変化を与え、つながって行き、今現在落ちている人間力を高めて行かなければなりません。宇城先生に学ぶ一人一人が変わって行かなければなりません。宇城先生は仰いました。その為には心を開きオープンにして人と調和する事。そして日常が調和の稽古の場であると。その言葉を心に刻み日々稽古します。愚鈍な私でありますが、宜しくお願い致します。ありがとうございました。





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