武道 2013年2月〜2013年5月 東京実践塾 感想文2013/06/14 
■人間が本来持つ能力を心、魂に乗せる(福島 団体職員 37歳 K.U)
3.11の東日本大震災から2年以上が経過し、今、改めて振り返ってみますと宇城先生に命、魂を救っていただいた、ということが強く心に浮かんで参ります。 あの震災の中で、比較的冷静に行動できたこともありますし、それ以降、被災された方達と積極的に交わって行くことにより、前向きに日々生活することができました。

もし、宇城先生に出会っていなかったとしたらどうなっていたでしょう。おそらく、生きているのは生きていると思うのですが、なんとなく、ただ生きているだけになっていたと思います。魂が死んでいる状態であったかと思います。 宇城先生からご指導をいただくたびに、「魂が死んでいる。」とのお叱りを受けますが、もし宇城先生に出会っていなければ、魂の跡形さえ無い状態であったろうと思います。限られた命と時間を精一杯生きなければならない。死んだ後で後悔してもしょうがない。という当たり前のことが、宇城先生に出会えなければ見えなかったと思います。今は、宇城先生から死にかけている魂に人工呼吸をしていただいている状況だと思います。必死に、魂を生き返らせる。生きるという強い気持ちで魂を蘇らせなければならないと思います。そのためには、宇城先生からご指導をいただいている心配り、日々の所作など実践していくしかないと思っております。

先日の実践塾の中で、宇城先生の気により自分が大きくなる。小さくなる。爆発する。などの体験をさせていただきました。宇城先生の気をいただく度に頭で自分自身に命令するのとは違う感覚を覚えます。体や体の周りの空気のような物が先に大きくなったり、小さくなったりして、頭がそれを後から追いかける、という感じです。なんと頭は遅いのかと思うのと、人間が本来持つ力は考えられないほど凄いということを実感いたしております。人間が本来持つ能力を心、魂に乗せて行く生き方。それを、思い描いただけで希望が湧いてきます。 宇城先生のご指導を胸に一歩一歩進んで行きたいと思います。今後ともご指導のほどよろしくお願いいたします。




■この世に生を受けた意義 (福島 会社員 51歳 M.O)
東京実践塾にセミナー生として参加させていただき、約一年が経とうとしております。この10ヶ月あまり、宇城先生に空手と講義を毎月学べる事に、大変感謝しております。その毎月宇城先生に会えて学べる事で、私の中で一つ変化がありました。それは仕事や生活の中で何か問題や嫌な事があった時に、宇城先生だったらどうするのだろうと考え、絶体こうするはずだ思い、自分なりに良い方向に対処するようになったことです。また、普段の生活においても、宇城先生に見られていると思い行動するようになりました。もっとも全てがそのようにはいきませんが、少しでも宇城先生の教えを実践できるよう常に宇城先生を心に頂き行動します。

5月の実践塾稽古では、サンチンの型において目は一点を見つめ集中する事を教えていただきました。集中する事により統一体となり気が通るようになる。宇城先生は正座についても、足が痛いのは統一体になっていないからだと言われました。私も足の痛さしびれに気持ちが行ってしまい、先生のお話に集中できなくなります。また、宇城先生のお話に集中している時は、足のしびれもあまり感じずお話を聞く事ができます。気の検証においても、気持ちが集中しているときは、宇城先生に気を通されると技ができてしまいます。しかし、集中が途切れた時や何か考えたときは技ができなくなってしまいます。

今回のサンチンの稽古での集中するということ、たいへん勉強になりました。私はサンチンの型を稽古していても集中が足りなかったと思います。足はこれでいいのか手はこうかとか外面ばかりを意識していました。内面の稽古が大事だと思いますが、今の自分にはよくわかりません。心であると思いますが、自分はなかなか心も開けず心をどう開くのか、謙虚になる事といっても言葉や頭で理解しても行動ができていません。ただ、実践塾で宇城先生の講義を聞いている時、先生の何気ない言葉に胸が熱くなる時があります。そんな時自分はなんて幸せなんだろうと思います。

また今回の稽古では心のざわめきを消すということを検証されました。心のざわめきを消すことにより、相手を恐れず入ることができる。難しい事ですが稽古に励みます。私の普段の生活では、心はざわめきっぱなしです。私はなかなかできません。ずっとよくできないかもしれません。でも宇城先生から学ぶ事をやめるわけにはいきません。少しでも、ほんの少しでも、宇城先生に教えられたことを世に生かしたい。それがこの世に生を受けた意義であると思います。ありがとうございました。




■師を心の拠り所とした行動 (福島 公務員 43歳 H.O)
宇城先生には実践塾、道塾で貴重なご指導を戴いておりますことに、心より御礼申し上げます。
東京実践塾でセミナー生として学ばせていただくようになり1年半が経ちました。宇城先生の空手に直に触れさせていただくようになり、最近「拠り所」というものについて考えるようになりました。 

空手の稽古の中では、分解組手で相手に攻撃を仕掛ける時、目で見える相手の姿のほかに、自分の胸の辺りで感じる相手の存在のようなものを拠り所にして攻撃を仕掛けているように感じます。しかし、宇城先生や気を通された相手に攻撃を仕掛ける時は、目では見えているはずなのに、胸の辺りで感じていた相手の存在のようなものがパッと消えてしまい、自分自身の攻撃の拠り所を無くし、その攻撃の力をどこに向けていいのかわからず、パニックに陥っている間に投げや突きなどの技を掛けられてしまいます。また、投げられた後も、手を軽く押さえられているだけで力の拠り所を失い、立ち上がる事ができなくなってしまいます。

この消える相手の存在や力の拠り所が無くなる事実が何であるのか、未熟な私では言葉にする事ができません。しかし、この空手で感じた事を自分の人生に映して振り返ってみると様々なことに気がつきました。宇城先生を知る前の自分は、様々なつまらない物事を拠り所にして、自分自身の存在を確立しようとしていました。それらは、今となっては恥ずかしくて口にするのもはばかれる事ばかりですが、結局、小さな自分、弱い自分を認める事が怖くて、自分以外のものに対して虚勢の障壁を構築し、受け入れず、認めず、形だけ平穏にやっていければいいという、どうでもいい自分を守るためだけ、まさに魂の引きこもりという状況だったのだと思います。

 また、震災前は政府、行政、経済、マスメディアなどを、自分自身が暮らす日本という国家が存在する拠り所であると人並みに信頼していましたが、震災と原発事故を経験し、それらの拠り所があっけなく崩壊し、それどころか、その拠り所であったはずのものが、震災後は誰が見てもわかるような虚構をまとったまま、ちぐはぐな迷走を続けているようにしか思えません。

 人はどんなに強くとも、自分自身だけを確立して、何の拠り所もなく生きていくことはできないのだと思います。しかし、その拠り所をどこに求めるのかが、その生き方を決める最も大切な事であると思います。

 人の生き方において最も大切な拠り所は、「師の存在」だと思います。師が何も仰らなくても、その存在だけで今の自分自身を素直に見つめる事ができる、どんなに成長しようとも永遠に自分を測る事ができる大きな尺度、それが師の存在、人の心の拠り所だと思います。私は、師を心の拠り所とした上で、目に見える事柄に囚われることなく、干渉する力に拘ることなく、正しい判断と行動ができる自分自身を築き上げていく事ができるよう、日々修行して参りたいと思います。どうか今後とも厳しいご指導をよろしくお願いいたします。




■ピンチを、生まれ変わるチャンスへ(千葉 会社役員 48歳 N.T)
人間が本来持っている気と言う素晴らしい能力を、検証と言う革新的な方法によって出来る自分と出来ない自分とを体験できる稽古は、言葉では表現し難いほど素晴らしいものであり、また同時に大勢の人を相手に指導される稽古は過去に受けたこともない、世界のどこにもない稽古だと思います。それは単に相手を倒す、または試合などで勝つ技術を教える空手(空手とも言えない)ではなく、心の稽古であり、今の自分を気付かせ、変えさせ、成長させてくれるものです。

今の自分を変えなければ成長はない、と言う事を教えていただいているのに変えることが出来ない。今迄の固定概念や現在の教育による影響から、変えることを恐れているからだと思います。稽古に行く度に、自分のエゴが打ちのめされ、今の自分を知ることが出来ますが、教えていただいたことを日常に持ち帰ると、謙虚になろうとどうしても頭で考えてしまいます。先生がいつもお話される宇宙、自然、時間の摂理を知識としてだけでなく、この宇宙の一部である、自分の身体の60兆個の細胞で感じ取れた時、自然に謙虚になり、統一体になっているのだと思います。そして気付いたら行動しているのだと思います。

日常の変化についてご報告申し上げたいと思います。一昨年の東日本大震災で会社が被災してから、2年が過ぎました。震災により全く変わってしまった日常生活でありましたが、震災後は先生から励ましのお言葉をいただき、大変勇気付けられました。また、これまで学ばさせていただいたことを活かす場を与えられたのだと思い、ピンチではなくチャンスだと言う気持ちで歩んできました。

被災地での事業再開は断念せざるを得ませんでしたが、まずは事業再開を果たし、今年からは新たに工場での生産開始、従業員の増員と、ようやく種を蒔き終えた段階まできた感じがします。先はまだまだ見えませんが、上り坂もあれば下り坂もあり、また「まさか」があるやも知れません。これは単に事業の復興であるだけでなく、自分自身そして日本人の復興であり、生まれ変わる機会の様な気がします。

自然の生き物が太陽・水・空気を吸収して成長し生きていくように、今後も先生から多くの教えを吸収しながら、考えて行動するのではなく、心で感じ、行動に移して成長していきたいと思います。今後ともご指導のほど、宜しくお願いいたします。




■覚悟と「心あり」の人間に(東京 会社経営 48歳 K.H)
いつもとても貴重な経験をさせていただき、誠にありがとうございます。前回の稽古で身体と心の関係を再び納得させられました。何も持っていない相手には、入れないまでも、臆することなく「受け・突き」と動作できますが、相手が刃物なりメリケンサックなりの武器を持ったとたん、まったく状況が変わってしまいます。もちろん、刃物や武器の持つ迫力というか怖さもありますが、先生が「これが怖いか?」とメリケンサックただそれだけを差し出したのを見て「先生はただ冗談を仰っているのではなく、本当に怖いのは武器を使用する人間を怖がっているのであり、そしてその恐怖は自分の中で自分が作り出しているのだと仰っているのだ」と思いました。自分の相手ではなく自分の心の中の色々な恐怖のなかの、ひとつの表れなのだと思います。

また、多くの人間を背後に守る形で、刃物を持った人間の前に立ちはだかったとき、自分の心の状態がそのまま背後の人間に伝わっていく検証も興味深い事実でした。自分を含め、多くの企業のトップが、社員を守るポーズだけで、本当はまさに「ビビッている」状態で、しかもそのことが黙っていても社員に伝わっていき、お互いの不信感につながり、一体感がなくなっている、と言うことがよく分かりました。企業のトップになるには、覚悟と「心あり」の人間でなくてはその責任を果たせないのだと思います。

心が身体を司ると先生は仰います。そして「技は心の発動」とも仰います。心が先か身体が先か。両側から身体に触れられた状態で、刃物を持つ相手を前にしたとき、頭では「怖くない」と思い、何も持っていない相手と同じ様に対処しようとしても、思うよりも早く、身体を通して両側の人間に、びびっている自分のこころがわってしまいます。びびる心があるから、びびる身体があるのでしょうか。それとも無意識のうちに身体が恐怖を感じ、身体が不自由になるのをあらためて心が「怖い」と思うのでしょうか。実際の刃物の前に立つ怖さ。そこにはイメージやシュミレーションでは対処できない現実があります。

何が正しいかそうでないかを論じるよりも「できるかできないか」である。と先生は仰います。このことは真理だと思います。その言葉には、先生が一流のビジネスの世界でトップとして活躍してこられた経験と実績から生まれた「できた経験を持っている人間」のみ発することのできる言葉かと思います。先生は刃物を持っている相手にも、何も持っていない相手にも同じ様に入って制することができる。自分にはできない。できる側とできない側。その間はわずかに見えて天地の開きがあります。

その開きを先生の「気」を通していただいた身体によって一足飛びに飛び越え「できる側」の経験をすると言うのは、実は考えられないくらいすごい体験です。そして、この衝撃的な体験を通じて今まで考えもしなかった「できる自分とできない自分」に気付きます。そこからようやくいかに今まで自分はもとより周囲に対していかに「横着」であったかを思い知るのです。浅く舐めて見ていたことをまったく今までと違った「開かせていただいた目」でみることで見えなかった、あるいは知らなかったことにどんどん気付きます。

そしてどんどん謙虚にならざるをえないのです。できる自分とできない自分は、謙虚な自分とそうでない自分です。自分は謙虚であると思っても、あるとき何かのきっかけで我欲が顔を出します。それは「できない自分」です。日常はさておき「稽古中は謙虚です」そう思ったとしたらそれはすでに横着です。なぜなら稽古している技が正しいかどうかではなく「できていない」からです。これは明らかな現実であり事実です。だから先生は常々稽古は日常でするのだと仰るのだと思います。

「心あり」とは何か。そのことを常に思い、日常で逃げないこころ、生きていく覚悟を養っていければと思います。そしてそれが謙虚な自分、さらには「できる自分」へと近づけていくとができればいいと思います。これからもどうかご指導よろしくお願いいたします。ありがとうございました。





■自分を正面から受け止める(千葉 柔道整復師 38歳 C.N)
今回も大変貴重な時間をありがとうございました。 2月の実践塾は体調を崩し欠席しなければならなくなり、稽古に参加できなかった事が大変悔やまれました。その日、その時にしか受け取れない貴重な時間を逃してしまったというのは、海外の塾生や遠方の塾生の方達に申し訳ないと思います。恵まれた環境にいる自分の甘さでもあると思いますので、健康管理も含め気を引き締めていきたいと思います。

現在は、何が本当の真実なのかわからない時代であると思います。情報は溢れ出て、世の中に広まっていくのは、薄い内容のわかりやすい口当たりの良さそうなものばかり、考えることを忘れたかのように情報に振り回されてしまうことも多くあると思います。何かを習う事や教わる事はあっても、自分の人生の道しるべであったり、人生の師という方との出会いというのがある人というのは多くはないのではないでしょうか。

そんな中、稽古に参加させていただき先生の指導を受けられることは、大げさではなく奇跡的な事であると思います。稽古の前の心境は他で味わう事はありえません。その時の自分に向きあわなければいけません。逃げも隠れも出来ないのに自分を正当化しようとしてみたり、客観的になってみるとどうにか自分の駄目さを隠そう隠そうとしてきた事があったなと思いますが、以前よりも駄目な自分を正面から受け止められるようになったと感じます。本当に次から次へと自分の出来ない部分が見えてきてしまいますが、隠すのではなくさらけだし自分が認める事が大事だと感じています。

実践塾の稽古の最中に、自分が、よく笑っている事、よく見えている事に気がつきました。とても気持ちがよく、素直に自然にいられるような感覚であり、懐かしい感覚だなとも思いました。昔はこういう感覚で過ごしていたはずだなーと感じ、この感じをいつから忘れてしまったんだろうとも思いました。 二人で組んで検証をする際も、以前は、前に人がいると必ず気持ちのどこかがかまえてしまうような強烈なざわざわ感がありましたが、最近は以前に比べて、格段に減ってきました。

それを少しでも実感できた事は大きいですが、同時に日常で自分は何をしてきていたのだろう、どういう風に人と接してきていたのだろと考えてしまいました。やはり恐れていたんだと感じます。笑わない事やよく見ない事で距離をとって、自分が批判されないようにしてきたのかもしれません。今となっては思う事であり、その時はわからないという事が大変怖い事だと思います。心では思いながら心を閉じ込めているのですから、心の発動など起こりようがない訳です。しかし懐かしく思えたことにとても希望がもてました。ただ、過去形では全く意味がありませんので、現在の中でどんどん取り戻していかなければいけないと感じます。

先生がいつもおっしゃる「心を開く」ということが、ずっと自分の中で課題というか頭の中にいつもあります。これこそ出来れば簡単なのかもしれませんし、頭ではなんとなく想像はついているつもりです。しかしやはり頭ではバーチャルであり、実際にはなんの影響力もありません。大体が、こんなことを書いている時点で実践されていない証明であるのですから、気がついたらやっていたとならなければ意味がありません。

自分の娘を見ていると、その速さや必死さや、今を生きるということを実感させられます。まさに考えている時間などなく、一秒も無駄にすることなく生きていて、時間の違いというものを感じます。先生が子供はすぐに出来るという意味がよくわかります。先日、娘が私の母親の手をとり走り出したときに、全くずれることなく母も手を引かれ一緒に走っていた姿を見たときには、実践塾での大勢を先頭の人が引っ張っていく検証そのものだとびっくりしました。 そのエネルギーの源は完全に頭ではありません。教育が全部間違っているというのは疑いようのない事実であるということを目の当たりにしました。

先生に気を通していただくというありえない体験は、身体に完全に残っていると思いますが、今までつくってきた自分の常識や我や頭が邪魔をしています。 それをどうにかしようではなく、考えるということでなく、気づいたらやっている、動いている、全てを行動実践という方向に自分をむけます。 今後ともご指導をよろしくおねがいいたします。




■理に適った稽古そして生き方に(千葉 無職 65歳 M.T)
自転車に乗れるためには、実際に自転車に跨り、ペダルを漕がなくてはならない。そしてこけずに動くことができて、初めて自転車に乗れたという。 先生はこの自転車を例にして、自転車に乗るためには初めは意識してそして無意識になるその過程での「こける」ことの重要性をつとに強調しています。こけることが身体に刻まれることで、身体脳が開発されて、一度乗れると意識せずに自転車に乗ることができる。この「こける」ことの重要性は「こける」ことが自転車に乗れることになる。さらにいうと自転車に乗れるには、こけるしかない訳です。

毎月の稽古では、できない自分とできる自分を体験させていただいています。できる時とできない時の相違をしっかり身体に刻み込む。できることを求めるのではなく、できないことを徹底的に身体でわかることでできる方向をめざす。稽古では先生に気を送られることで一瞬にしてできる自分がいます。潜在能力の存在を示し、エネルギーを引き出していただいています。こけると同様に、できないことを徹底する。 

しかし、言うことは容易いですが難しいです。先生はいつも、稽古だけでは上手くならないとおっしゃいます。その意味の一つは稽古と日常がつながっていなければならないとの教えだと思います。稽古でもできないことは日常でもできていない証拠ではないのか。稽古は稽古、日常生活を稽古と別と切り離しているのではないのか。稽古も大事ですが、大本は日々生きている日常生活にある。生き方が大本で、働き方もしかり。生温い生き方をしているのではないか。日々の立ち居振る舞において気を止めているのではないか。生き方が統一体でなく、部分体になっているのではないか。稽古でのできるできない以前の問題として、恥ずかしながら今あらためて日々の生き方を問い直して、空手を始めた原点に返って反省しているところです。

今の世の中はバーチャル時代で、日常と非日常の価値が逆になり、倒錯している傾向にあります。しかし、何事も日常生活が大本であり、そこを離れては何の意味もありません。そして、先生のお話のように働く事が基本になければならないと思います。

「統一体」「気を流す」「目・姿勢・瞬発力」「中心をつくる」「相手に入るには観の目をつくる」など、非常に大切なことを教えていただいています。自己を律した生活と無欲無心の型稽古にしなければなりません。多くのことを気づかせていただいているのに、自分に活かしきれていません。集中力、真剣さ、必死さが足りないことを痛感しています。気づきから学び、師の真心を写して、自分のものにすると同時に他の方に伝えたいと思います。変わっていない自分を直視して、まずは今の自分を克服することが、この機にしての再出発点です。

常に止まらず、気を流し続けることです。実体験にもとづく言葉は厳しさの中を潜り抜けたものだけに重みがあり、心を打ち、耳を傾ける価値があります。確たる軸を失い、判断基準や価値基準が揺らいでいます。生死をかけた中から生れた武術空手を学ぶと同時に人生の生き方、心の学びを深めて生きたいです。理に適った稽古、生き方にしなければと思います。ご指導ありがとうございます。

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