武道 2012年 第二期(4-6月) 東京実践塾 感想文2012/07/04 

■情の至る所 理も亦至る    (神奈川 教師 56歳 K.N)  手書提出 PDF
雨に濡れて紫陽花の花の色もいちだんと鮮やかに見えております。先日の稽古におきましては、ひとかたならぬご教示に預かりました。深く感謝申し上げます。日本人はどのような生き方を自らに求めて来たのか、宇城先生の稽古を通じて改めて考えされされることが多くありました。先生が実践されている活動そのものが伝統に根ざした日本人の基本的な生き方を示されていること、日本人が取り戻すべき心のあり方を示されているということを強く感じております。

日本人は歴史のはじめから私利私欲のない、私のない、偽り欺くことのない心、心情の純粋性を追求して来たと言われております。内容に若干の変化をもちつつも、常に日本人が標榜してきた心です。古代では清き明き心、中世では正直(せいちょく)の心、近世においてはさらに誠、まごころの重視として受け継がれてきたと言います。戦後モラルが混迷しそして現実はその荒廃も極に達したのかと思われることが日々報道されております。しかしなお私達の心の底には心情の純粋さを求める伝統は流れていると思います。私達は私達の心の底になお流れている豊かな伝統に思いをいたす可きであり、取り戻すべきものであることに気づかなくてはならないと痛感しております。

かつて日本人のバックボーンであったものは武士の精神、心であったと思います。しばしばいわれるように維新及び明治前半期のめざましい変革が武士によって指導されたものであり、武士的な精神、心が明治にも持ち込まれたであろうことは否定できないと思います。

吉田松陰は 

情の至極は 理も亦至極せる者なり 情の至る所 理も亦至る (講孟余話)

正しい行為は知的に判断されるものではなく、忍びざる情、巳むを得ざる情に徹するところにあるとし、おのずから理にかなう行動が押し出されると語りました。先生が言われていることそのままに通ずることの驚きと感動を覚えております。このような心の境地がたしかに存在し、実際に感ずることの機会にふれさせて頂くことに深く感謝申し上げます。
気候不順のおりからご自愛専一の程お祈り申し上げます。




■「絶対やる」という覚悟    (福島 公務員 43歳 H.O)
東京実践塾にセミナー生として参加させていただき半年が経ちました。この半年間で私の内面に僅かな変化を感じております。それは、自分の心と行動との歯車が少しずつ噛み合いつつある感覚を感じるようになったということです。

 この変化が起きたのは、実践塾において宇城先生の空手に触れるようになったからではないかと思っております。生死をかけた、言い訳など通用しない、絶対的な厳しさの中から創出された武の術技を、宇城先生は我々の目の前で惜しみなく披露していただくばかりか、不可能と思える高度な技を、気の力によって我々自身にも体験させて下さいます。その稽古の過程において、宇城先生の心が我々に映され、武道の絶対的な厳しさの残像のようなものが私の内面に焼け付き、「逃げない心」となって、これまでは、とかく思いだけの空回りや独りよがりとなりがちだった行動が、「逃げずにやる」「絶対やる」という覚悟を持つことで肚が据わり、余裕ができ、心を伴った行動へと変化させることができたのではないかと考えております。

 武道の覚悟をもってより良く生き、社会への生産性を上げることこそ、現代における武道のあり方であると宇城先生は常に仰っておられます。宇城先生は震災直後に「あすなろ会」を立ち上げ、多くの塾生の方々が被災地に赴き、被災された方々の心に寄り添い、様々な応援活動を行っておられます。先の見えない国難ともいうべき時に、宇城先生をはじめ多くの塾生の方々が、こういった活動を展開されておられることこそ、まさに武道の実践であると思います。私も、この素晴らしい実践活動に参加し、微力を尽くさせていただき、宇城先生より貴重なご指導をいただいているご恩を、僅かでも社会にお返ししてまいりたいと思います。




■真の敵は己自身    (東京 会社員 26歳 O.M)
 この度も、貴重な稽古をありがとうございました。
稽古に参加させていただくたび、体験したことのない未知の世界に感動し、自らの生活を反省し、修正する機会を頂いています。 この3カ月の稽古で一番印象に残っているのは「調和力」です。普通「力」というと、相手を打ちのめしたり、破壊したり、勝ったり、競ったりというイメージがありますが、先生の提唱される「力」は、そういったものと無縁であるばかりか、むしろ対極にあります。そしてそれが人間本来の叡智であり、真にこの世界をよき方向に導いていくものであることを、先生はご指導してくださいます。また先生は、そういった人間本来の素晴らしい能力が教育環境や社会環境の中で失われ、抑圧され、本来あるべきではない、非常に低次元な状態になってしまっていることにも気付かせてくださいます。私達もそういった低次元の域にとどまっており、本来の姿で希望ある未来に歩んでいくためには、心を取り戻し、統一体としての自分を取り戻すことが大事であると、非常に明快にご指導してくださいます。しかもその指導方法は過去に例をみない、「自分の力では絶対に不可能と思われる事項を可能にする」という実体験に基づいたものであり、さらにその実体験に、それを可能にする理論の解説が伴っており、我々の自然な自省と、生き様の修正を促すものであります。本当に貴重なご指導をいただいているのだと、何度噛み締めても足りません。

 6月の稽古のテーマは「残心」でしたが、これは私がイメージしていたものとは全く異なるものでした。私がこれまで持っていた「残心」のイメージは、動作が終わった後の決めポーズくらいのものでしたが、先生の「残心」は外側からは見えませんでした。これは以前「中心」についてご指導いただいたときも同じで、やはりイメージしていた中心(想像上での軸や真ん中)とは全く異質のもので、外側からは見えませんし、先生が私の中に中心を作ってくださっても、自分自身にそんなに大きな変化は感じられませんでした。ところが、覆いかぶさっている複数の相手を投げたり、相手の動きがゆっくり見えたりと、その効果は驚くべきもので、武術の深遠な世界は、私が想像していたような安易なものとは大きく異なり、また、世間でいう「残心」や「中心」は、既に形骸化したものであることを学ばせていただきました。

6月の稽古では幸運なことに先生の技を直接体験させていただきましたが、袈裟固めで胸を押さえられたときには、本当に死んでしまうかと思いました。本当に苦しくて、胸が向こう側に突き抜けて穴が空いてしまうのではないかと思いました。また休憩中に濡れタオルを使ってナイフをさばくところを見せていただきましたが、濡れタオルが当たったわき腹が翌日まで痛くて、本当に驚きました。「叩かれて学ぶのだ」と諭していただきましたが、先生の技は、痛いけれど笑ってしまったり、はっと大事なことに気付かされたりします。普通は反感が沸くと思うのですが、そういうことが全くありません。押さえ込まれたりしている時など、小さい頃に父親と遊んでいたこときの気持ちを思い出すことがあります。全然敵わなくて、ごめんなさい、と素直になれる気持ちです。人を傷つける力(暴力)ではなく、人を観念させ、正しき導きを授ける何かが、先生の術技の根底に流れているのかなと思っています。

 稽古中、ある時点からものすごく周囲が透明に見えてくる時があります。自分の視野が解放され、それまでの自分が色々なものに囚われていたことを実感できる瞬間です。悩みが消え、全てが驚くほど美しく見えます。神秘的な気持ちになり、すべてが融合したような不思議な感覚になります。世界は本来こういう姿をしていて、私の目にかかっている欲や意識のメガネが、世界を分断し、敵をつくり、にごった世界を見せているのだと思います。私生活の中でも時々、透明だなと感じるとき、にごっていると感じる時がでてきました。古来こういった感覚を「清め」「穢れ」といった言葉で表現してきたのではないかなと思いました。

先生の教えは、本当に私の理解や体験の外側にあって、そこと自分がどれほど隔たっているのかさえ全く想像がつきません。理解が進んでいる実感もまったくなく、稽古のたびに分からないこと、不思議なことが増える一方です。「そうか、こういう世界があるのだ。普段の自分とは大きくかけ離れているな」と、毎度毎度それだけです。今回のご指導で、自分は忍耐ではなく常に楽をしたいと考えている、に大きな課題があると感じました。また、有言不実行も課題です。まさに真の敵は己自身です。強敵ですが、自覚できたことを進歩と捉え、少しずつ直していきたいです。ありがとうございました。




■可能なかぎりすぐ実行に移す (東京 公務員 30歳 K.I)
 4月に入門させていただいた私は、通常の空手稽古と全く違うことで戸惑いました。しかし、それまでに、闇雲に体を動かすスポーツ的な動きに違和感を覚えていました。「調和」に至るあり方を、今後に向けて体得したく思います。「ゼロの力」発動の秘訣を、目前で教えていただいたことにも感謝しています。サンチンの型を号令なしでやり、全員の呼吸が一つに感じられました。私は、全身の細胞の連動、心と体を一致させる秘訣を通じて前進の道しるべにします。
 
【日常での変化】
 私は、心を開く事に臆病な者です。それは、人とのつながり以前に、自分を信じていない証拠でもあります。まだ頭が先に動く私は、一人で練習できる型、実践塾での稽古と連動させていきます。

“今、気持ちよく力が抜けた動きになっている”
“サンチンの動きはこんなときに使うのかな”
“横着な状態になっている。一旦ゼロベースに・・・。”

など、今この瞬間にあるべき方向性が明確になりました。気づいたことがあれば、可能なかぎりすぐ実行に移すようになりました。その瞬間に動くから意味があるのだと。先延ばしすると、再開までの距離が遠く、数倍のエネルギーが必要でした。私のストレスのほとんどはそこにあったように思います。以前は、周りが何かしてくれるのを待った私ですが、自分次第で変えられることへ、思考を切り替えることが増えました。いざというとき、無意識レベルで適切な行動ができるようにと、自分の事を超え、大切な人をも守れればと希望が湧きます。これからも、実践塾での学びを励みにしていきます。どうもありがとうございました。今後も、ご指導よろしくお願いします。




■心を開いてただ身を任せること(埼玉 特別支援学校教諭 35歳 T.S)
 以前、宇城先生のセミナーに参加されたアメリカ人の方が「得ようとするのではなく心を開くことが大事」ということを感想に書かれていました。その一文を読んで私ももっと心を開いて宇城先生の教えを受けようと決意しました。 これまで私は先生の教えを理解しよう、何かを得よう、とばかり考えていました。そして、自分の力でどうにかしようとしていました。しかし、心を開いてただ身を任せることだけを心掛けていると、それまでとは違った感じで先生の気が身体に流れ込んでくるのを感じるようになりました。言葉で表現するのは難しいのですが、宇城先生と私が別れていない、境目がなく一体化しているような感じになるのです。とても温かく心地良い感じがし「調和」していることを実感しました。

 日常でも、先生に気を入れられた時と同じような感じになることがあります。そういう時、人と話をしていても話す前から相手の気持ちが分かるような気がします。「何を伝えたいのか」「聞いて欲しいのか、意見をもらいたいのか」など、相手の要求が自然と分かってしまうのです。その直感に委ね対応していると、相手に喜ばれることが多くなりました。残念ながら毎回そういうわけにはいかず、自分の癖が出ている時は不調和を産んでしまいますが、周囲と調和した状態を先生から離れた場所でも感じるとは思ってもみなかったことなので大変驚いています。宇城先生の気は、道場から離れた所でも私達を活かして下さっていることを実感しました。

5月には仙台の瓦礫処理に参加させていただきました。被災地の方の「旅行で良いから来て欲しい。関心を持ってもらいたい」という言葉が今でもズシリと記憶に残っています。宇城先生は「愛の反対は『無関心』」というマザー・テレサの言葉を常々お口にされますが、苦しい状況にある方達にとって無関心ほど辛いことはありません。宇城先生は震災後すぐに「マスコミが取り上げなくなってから本当の支援は始まる」と仰っていましたが、まさにその通りになっています。先生の時間の早さ、先を見る目の凄さに驚くばかりです。今後もできるだけ、あすなろの会へ参加させていただきたいと思っています。

 先日の6月の実践塾では帯で縛られていても、複数人に手足を取られ所謂死に体であっても気の力で向かってくる相手を倒したり、動かしたりすることを体験させていただきました。その時凄まじいことが起きていると感じましたが、今でもその時の興奮は薄れません。「事実は小説より奇なり」とはよく言いますが、そんな言葉では言い表せないくらい凄い体験でした。常識ではあり得ないことを平然とやってのけ、私達にもやらせて下さる宇城先生の凄さに日々感謝の気持ちでいっぱいです。ありがとうございました。


■身体で人を信頼すること    (神奈川 会社員 31歳 Y.F)
この三ヶ月で感じたことは、自分の視野の狭さです。先生が毎回言われるように、できない自分、今までの自分のままで先生のお話を聞いていました。これでは変われるわけがないと思いました。何度も先生の本の中にもでてくる事がまったく分かってませんでした。自分の愚かさ加減に本当にまいります。こんな事も分かってなかったのだと。すべて先生が言われていて、結局はそれを受け取る力、レベルが自分には無いのだという事。それが分かりました。また仕事等でも、視野の狭さからやる気があっても、何をしたいのか分からず空回りしている感じなのだと思います。これも「謙虚」の意味が分かっておらず、自分のレベルでの謙虚さでしかなかったのだと思います。
そして先生はそろそろ言ったら分かるかな、という所で色んな事を仰って下さるのだと思いました。そうでなければ言われても分からないのだと思います。結局は自分なのだと。本当に自力本願の宗教とはこういうものかと思いました。そして本当に素晴らしい、このレベルの世界は他には無いだろうと思います。

毎回、先生がまさにこれでもか、これでもかと自分の錆付いた、心と身体に先生の心を落とし込んで下さいます。武術の歴史にその名が残る先生がそこまでして下さっている。その有難さ、その尊さを忘れてはならない。そしてその御心を決して無駄にしてはいけないと思いました。新刊に、幸せの方向に向かうことが進歩であり、成長、というお言葉がありました。自分もそうならなければいけないと思います。間違いだらけの人生でしたが、宇宙の時間からしたら点にもならない人生、これからは迷わず、自分の人生を良い方向へ。それにはやはりもっと心を開くという事。

組手でメリケンサックを着けるほど先生の技の危険度が増します。そしてそれが一撃必殺と肌で分かり、身体がビビってしまいます。武術の技は相手が強い武器を持つほど持った人間は怖い、武器を持ちたくなくなるというまさに戦いを治める、本当に貴重な、世界に発信できる境地を体感させて頂いている一方、それは先生の言われたよう、師を信頼していない証拠です。自分の命を師に預けていないという事です。それではいつまで経っても怯えた身体、心のままで、身体で信頼するという事が分からないでしょう。その貴重で人生が変わるほどの大事なチャンスを頂いている、そのことに後から気付くこの愚かさ、情けなさに自分自身に対する怒りがこみ上げてきます。そこを徹底的に叩き直していかないと駄目だと思いました。先生を、人を信頼するという事を空手を通し身体に叩き込んでいく、その気迫が自分には足らないと思いました。昔は人を叩き潰せ、ぶっ倒せという世界でしたので、それが本当に真逆だったと分かります。幸せになれるわけがありません。

しかしこれからは宇城先生の元で本当に幸せに向かう道を歩む事ができるのです。それがやっと分かりました。まだ感謝の言葉を言えるほど変わってもいませんし、真剣に日常を過ごせている訳でもないですが、そのことに気付かせて頂いた事が本当に有難い事だと思います。ありがとうございました。この気持ちを忘れずに日々一瞬一瞬を積み重ねていきたいと思います。これからもご指導、ご鞭撻の程、よろしくお願い申し上げます。




■全ては自分だということ    (東京 会社役員 50歳 T.K)
今回は「残心」について、ご指導していただきました。心を中心に置く事で、身体や意識が自由に解放され、手足の動きよりも先に「何か」が働くという感覚を先生によって体験させて頂きました。時間や空間というものは、自分達が今までとらえていた様なものとは全く異なるものであり、時間や空間に対する今までの固定観点を捨て去らなければと思います。そして「心の発動が技となり形となる。」という、全てが「心」であると先生は言われました。心ができていないと技にならないし、相手に入る事が出来ない。「事理一致」「心あり」「調和」など言葉としての意味は理解しても、先生が言われる「心」が本当にどのような心のありようなのか、自分はわかっていないのだと思います。

自分の日常を振り返ってみると、ちょっとしたトラブルや不安に対して、浮ついたりイライラしたり、ささいな事に気分を害したり、感情的になったりする自分がいます。これが今の自分の心の状態なのだと知りました。心は意識して作れるものではないですが、自分の心の中にある、ごまかしや怠惰、横着などは、どんなに小さくても自分をごまかす事は出来ず、自分だけはそれを知っているのだと思います。それに目を背けるのか、認めるのか、全ては自分だという事を改めて感じました。自分はいつも目を背けていました。自分から逃げていました。

稽古や仕事に対する情熱や姿勢も、全ては今の自分の心から来ているのだと素直に認め、自分の心の中にある様々な横着や弱さから目を背けないようにしたいと思います。仕事や家庭の中で、様々な事にも心を動かされない、「不動心」「残心」の姿勢を目標として、心を創っていく方向に向かいたいと思います。どうか今後ともご指導、ご鞭撻を賜りますよう、よろしくお願い申し上げます。




■師の心を自分に映す日常    (福島 会社員 44歳 A.F)
毎回、今までの日常では得ることの出来ない気付きをいただいております。ありがとうございます。私は実践塾セミナーで何を学ぶのかを考えました。宇城先生の生き様と思考、行動、判断力を学ぶのだと思います。自分に宇城先生を映しその違いはなんなのだろうと考えます。宇城先生は、オープンであり調和の生き方をされていると思います。そして、覚悟がある。お会いすると元気になり勇気がわいてきます。思考がパラであり、「ぱっ」と答えが出ます。その答えにはユーモアがあります。そして、人が集まってきます。 それは、目に見えない「魅力」があるからだと感じます。私も魅力のある人間になりたいと思います。それには、師の心を自分に映す日常だと思います。

以前は、宇城先生のような技を、自分も出来るようになりたいと思っておりましたが、宇城先生に学ぶことを続けていくうちに「技より、心」と感じています。空手の技より先生のお話を聞き、お人柄を学ぶことに大変魅力を感じております。 目に見えない部分を変化させることは大変難しいことだと思います。しかし、その変化に魅力を感じます。今回のセミナーで、「足元から変えたら良い」とお話されました。私には、足元さえなんだかわかりません。

私に出来ること、一つは、「今やることを今やる。」それが、未来へつながることだと思いました。二つ目は、やりたい、やりたくないと言う感情はどうでもいいこと。「ぱっ」とやること。三つ目は「出来ない自分、出来る自分が存在する」、通常の自分は出来ない自分なので、出来る自分はどこにいるのだろうと自分に問いかけること。この三つを課題として自分を変えていこうと思いました。




■成長することは変化すること    (静岡 検察官 42歳 H.I)
今年4月から東京実践塾にセミナー生として参加させていただき、宇城先生に心から感謝しております。
「止まる心を戒める」とのお言葉を先日先生に教えていただきましたが、まったくそのとおりだと感じ入りました。職場でどうしても耐え難い言葉遣いで罵られるなどして悔しい思いをすることなど、職場に限らず日常生活においては何かしら誰にもあることかと思います。そうしたときに相手の言葉や罵られたときのことを忘れようとしても、どうにもならず、それまでどれだけ前向きに生きることについて自分なりに努力と工夫をしてきたつもりになっていても、心がとらわれてしまい、いやな気分になり、なんでもかんでもすべてが嫌になってしまうことは誰にもあると思います。これまで私は、こうしたとらわれる心をどうすれば対処できるのか、その仕方を知りませんでした。どうすればいいのかとあれこれ頭で考えてきたとは思うのですが、どれも答えにはなっていなかったと思います。心がとらわれのないようにできれば、すばらしいことだろうと思いました。

 そうしたところ、実は先日の稽古の後にも、今申し上げましたような心がとらわれる出来事が起こり、「進歩も成長も」できていないなと思うと、悲しい思いにもとらわれてしました。その後、三戦の型を稽古したのですが、見ていた妻からは体の中心がずれているとか、肩に力が入っているとか指摘され、散々でした。しかし、今回はこれまでと違っていました。きっかけは、麻子師範のお言葉でした。実は、先日の実践塾での稽古前の休憩時間に麻子師範が「できない自分とできる自分」、読んでいたようでいて実は読めていなかったことが今では分かる、といった趣旨のことをおっしゃられていたことが非常に心に深く残りました。

翻って自分は先生からいただく数々のお言葉について、その意味やその深さに何も気づけていないのではないかとの思いにハッとしたことがありました。そのお言葉が残っていたおかげだと思うのですが、このとらわれた心、これを解き放つのは難しいなと思いながらも、改めて先生の著書を読み返してみたのです。静かな時間でした。ののしられた言葉にとらわれて苦しかったその苦しみの深さの「お陰」だと思うのですが、「成長することは変化することである」のあの見慣れた、聞きなれたはずの先生のお言葉が心にしみこんできました。しみこんできたという表現でいいのか言葉では難しいのですが、「変化するとは謙虚になること」の部分まできて、具体的に申し上げると腹の辺りがブニャーと緩んで、腹から下腹部が楽になり、呼吸がスーッと、そしてゆったりと入り込んできて、嘘でもおべんちゃらでもなんでもなく、あれだけとらわれていた罵りの言葉が、また、その言葉を発した相手の憎らしい顔やすべてが、気づくと完全に消えていました。罵りの言葉を受けるようなことがなければ、そんな言葉を受けてもそれでもなお一層謙虚になること、そのことの大切さや意味を何も考えることすらなく、横着にすごしていたんだと気づきました。

罵りの言葉のお陰だと思えました。きっと、今やれば型も変化しているはず。そう思って三戦、ナイファンチンをやって見せました。変化が出るとの確信がありました。腹の緊張が取れ、頭も楽になっていたからです。型を見てくれた妻は、ずぶの素人ですが、「腰の落ち方も違うし、中心がぜんぜんずれてない」と言ってくれました。実際にはもちろん私には術も何もありませんし、ずぶの素人で初心者ですから、たいした変化でないことは間違いありませんが、ごくわずかではあっても変化を確信しました。そのわずかとはいえ変化の喜びも感じられたことは非常に大きな経験となりました。このとらわれの苦しみから救われたことによって、恥ずかしながら、先生の愛の大きさにまだまだ少しだけかもしれませんが、私も気づくことができ、感動し心から感謝しました。

 世の中には人を幸せにするものとそうでないものの二つしかないこと、真心、そして日常こそ修行場、どのお言葉もエネルギーの元だと実感しています。日常に生じた変化はほかにも多々ありますが、初心者中の初心者にすぎない自分にとっては、今回のことはとても大きな日常での変化でした。今後とも、ご指導のほど、どうか引き続きよろしくお願い申し上げます。


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