武道 2012年 第一期(1-3月) 東京実践塾 感想文2012/04/04 


■前を向いて行くしかない      (千葉 会社役員 47歳 Y.T )
 約1年振りに参加させていただいた2012年第1回目の実践塾セミナー。
 自分の中で、この1年をふと振り返る時がありますが、時間の経過が長く感じられる時もあれば、とても短く感じられる時もあります。時計の時間と自分の中の時間の差をこれほど感じた事も今までの人生でなかったような気がします。

 今回、宇城先生、麻子師範、拓治師範代始め塾生、セミナー生の方達との再会でありましたが、1年振りだからという緊張感や一歩遅れたという様な焦りなどは感じず、平常心で望めたのではないかと思います。それは、稽古会場やそこにいる皆さんの雰囲気がそう感じさせたのだと思います。稽古開始前、先生に『また今日から宜しくお願いします』とご挨拶をさせていただくいと、『前を向いて行くしかない』。 そのお言葉に先生のお心遣い、愛、すべてが集約されているようで、『あー見守っていただいている』と実感いたしました。

稽古の中でも、『東北を見捨てない、見守って行く事が大切である。』と何度も仰られていました。 色々な方に励ましや同情の言葉を掛けていただきましたが、もちろんそれは大変有難いことではあります。被災した人達は、大なり小なり心に傷を負い、この傷は完全に癒える事はないのでしょうが、起きてしまった事は仕方ない。後戻りはできないのだから。先入観や偏見を取っ払い、卑屈にならず、考え方を変えれば、日々有難い事に気付かされてばかりです。 

多くの人に見守っていただきながら、変わっていくのは自分自身、成長していくのも自分自身、生きているからには幸せになる事を目標に、日々一歩一歩地に足を踏みしめながら歩んでいきたいと思います。




■逃げない心と身体をもって      (福島 地方公務員 44歳 H.O) 
 東日本大震災から1年が経ちました。この1年は、これまでの私の人生の中で最も長い1年でした。 私の住む会津地方は福島県の西部に位置し、地震による大きな被害はなかったものの、震災直後から避難された方々の受け入れや、拡散した放射性物質への対応、風評被害など、これまで経験したことのない困難な問題が発生しました。私のような者が1年間何とか対処し続けてこられたのは、宇城先生のご指導のおかげだと思います。

 今、振り返ると、震災前の私は、宇城先生の素晴らしいご指導をいただきながらも、 その貴重な教えを頭にしまい込み、拙い知識と我に囚われ、心が「ひきこもり」の状況だったのだと思います。何か問題が起こっても、浅はかな経験則や理屈を盾に、いかに自分を守るか、責任をかわすかといった「逃げ」の姿勢が心にあり、適当に処理をして「やったつもり」になっていました。

 しかし、震災、そして原発事故により、自分を取り巻く環境が一変し、常に待ったなしの判断や行動を迫られるようになった瞬間より、それまで頭にしまい込んであった宇城先生の教えがこれまでとは異なる次元で自分の中に再生され、問題から逃げずに正面から受け止めるという心が定まり、「ここに先生がおられたらどう行動されるだろうか?」と自問し、常に先生が傍らにおられるつもりで自分を律し行動するようになりました。この私の行動がわずかでも伝わったのか、非常事態に全体的なエネルギーレベルが上昇したのか、震災対応や避難所の運営時には多くの同僚たちの協力を得て、仕事が「言うが前にやってある」という、通常では信じられないような結束と連携を得ることができました。

 震災から1年が経過した今、あまりにも先の見えない被災地の悲惨な現実から、国民は目を背けつつあり、震災直後に大きなうねりとなった助け合い、分かち合いのエネルギーが急激に冷めつつあるように感じます。恥ずかしながら、私自身も諦めや偽りでも安穏とした日常に戻りたいという甘えに心が苛まれております。しかし、この福島の地で生きることを己の実践の場として定めたからには、実践塾・道塾で宇城先生に人の本来の力を学び、先生の心を少しでも自分自身に映し、教えの一つでも行動で示せるように、逃げない心と身体をもって前に進んで行きたいと思います。
 今後とも厳しいご指導をお願いいたします。ありがとうございました。




■日本人として生まれたことに感謝      (神奈川 主婦 42歳 A.S)
 道場開きが厳かに行われた様子のDVDを稽古の前に拝見した時に、私は密かに涙をこらえることに専念致しました。悲しいとか寂しいとかの感情ではない、別の次元の涙です。
人は「美しい」ものに涙をするのだと気づきました。感嘆・感動の裏には、日本人としてのDNAがしっかりと埋め込まれているのでしょう。私の身体は、その時は私の感情とは別に作用していたのだと思います。道場の木の温もりや重厚な造りは、おそらく昔の武家屋敷の風格をそのまま再現しているのだと思います。そして、宇城師範の紋付袴をまとった美しい姿と立ち振る舞い、所作、型の披露には、そこに日本人の魂が宿っている武士を感じてしまうぐらいに気位の高い気品に満ちた美しい姿でした。 だからこそ、感情とは別に涙が流れるのだと思います。そして、私は日本人で本当に良かったと両親に感謝した瞬間でもありました。

 今の日本は、勢いのない力尽きる一歩手前のような状態だと思います。3月11日の震災以来、まったくといえるほど復旧も復興も進んでいない現実を、一年経った今を、また、これから先をどう進んでいくかが、私たちのひとり革命だと思います。そんな憂いを宇城師範の美しい立ち振る舞いを見て考えてしまいます。私は「師」の美しさを自分に写していくことを常に思いながら、やはり日本人として生まれたことに感謝と自信を思い、空手を通して日本人として生きていきたいと思います。




■糸を引き、導く師の存在      (福島 語学教師 36歳 R.T)
 今回、稽古に参加させていただいて、強く感じたことは「心」の大事さでした。
 稽古で、二人組になって、相手の腕を取り、相手を引っ張ろうとしても動きません、でもエレベーターにいると仮定して、心を込めて「どうぞ」というと相手はすーっと動いてくれました。いかに「心」が物事を左右するか、「心」が大事であるかということです。こういう目に見えない世界を伝える講座や本はたくさんあります。でも、そこではどうしても「信じる」か「信じない」かだけで、真理を学んでもそれを検証する術がありません。本当かどうかが分からないので、信じる、信じないで、自分の感性を頼りにするしかありません。でも、先生の稽古ではそれを必ず証明してくださいます。それは他ではない、決して見られないものだと思います。

 そんな貴重な稽古を受けさせていただいているのに、まだまだ何も分かっていない、ということを改めて痛感いたしました。技が何一つできないということは、何も分かっていない、ということと同じです。少しでも分かっていたら、言葉にするまでもなく行動がそれを示していく、体がそれを現していく。まさに文字通り、「体現」です。体現することができないということは何も分かっていない、理解していないということと同じだと思いました。

 このことは、稽古以外の部分や、日常生活でも同じで、まだまだ自分は頭で考えている、と思いました。例えば、目の前に怪我をした子供がいたら、何も考えずに駆け寄るでしょう。心で感じていたら、頭で考えるまでもなく体が動いています。まさにそれは先生に気を入れていただいたときの状態と同じだと思いました。先生に気を入れていただいたときの技というのは、頭で考えていないので、自分でも分からないほど早く動いています。気づいたら相手が倒れていたという感覚です。よくテレビなどで、線路に転落した人をとっさの機転で救助した、というようなニュースを見ますが、それがまさに先生に気を入れていただいたときの統一体の動きなんだと思います。

 その一瞬のスピードをもっともっと上げていくと先生がおっしゃるような「相手の動きがスローモーションのように」見えるのかもしれないと思いました。
 それには何よりも自分の心の濁りを取っていくことだと思います。師の教えをそのまま受けることができる器を持つには、自分自身が素直に透明になっていかなければならない。素直に自分の濁りに気づき、それを手放していく、そのことに尽きると思いました。そして透明になればなるほど、純度が高まれば高まるほど、その一瞬が濃くなる、重くなるのではないかと思いました。

 また、自由になるということは、凧の糸を切ることではないということも教えていただきました。凧を引っ張っていてくださる、揚げてくださる師の存在があればこそ、高く羽ばたける。糸を切れば自由に大空を飛べるかと思えば、凧はすぐに落下してしまいます。また、ふとその凧を揚げてくださっている師の目線に立たせていただくと、先生は同時に何十本、何百本もの糸を引いて揚げてくださっている。本当に有り難いことです。それと同時に、その糸を引いてくださっている先生にかかる力は大変なものだと思いました。

 私は、人間は今どんな環境にある人でも、この世に生まれたくて生まれてくると思っています。この時代のこの場所に、自分が望んで生まれてきているのなら、何のために生かされ、何をしにこの人生を歩んでいるのかということを常に自分自身に問いかけ、何よりも、生かされていることへの感謝、常に凧の糸を引き、導いてくださっている師がいてくださることへの感謝の心を忘れずにいたいと思いました。
 今回も大変貴重な稽古に参加させていただきまして心より感謝御礼申し上げます。ありがとうございました。




■地球と繋がっている「絆」     (福島 団体職員 35歳 K.U)
 宇城憲治先生、いつもご指導のほど、誠にありがとうございます。東日本大震災から一年が経過し、日本が混迷を極めている状況の中、生きるための術をご指導いただける宇城空手を学ぶことができる幸運を改めて感じております。何よりも目に見えない「心」の存在、そして「心」がいかに重要であるか、身を以て教えていただけることは何事にも変えることができません。

 心の自由や身体の自由を、自然体を通じて体験させていただき、その自然体になった状況でこそ、目に見えない「絆」が結ばれること、人と人との心の繋がりが生み出されることを感じております。東日本大震災以降「絆」という言葉が盛んに使われていますが、この「絆」を概念や単なるスローガンではなく、身体を通じて「絆」の大切さ、これからの日本での生き方を教えていただけることは先生の稽古の他にはありえません。

稽古の中で人と衝突すると投げることはできず、気を入れていただくとまったく力を使わず投げることができる。さらには投げられた方も強くなっており、簡単に下から相手を投げることができる。そこに優劣、強弱の違いはなく、平等で対立の無い世界を体験することができます。そこに自分を捨て、無で人と触れ合える自分がいることを感じます。頭や理屈ではなく、思っただけで相手が崩れる。動く。そこには相手と心で繋がっている自分がいることを感じます。これこそが理屈ではない「絆」なのだと思います。この相手と心で繋がる、更には地球と繋がっている「絆」こそ、先が見えない日本で生きる術なのだと思います。

相手と「絆」が結べるよう今迄の自己を捨て、生き方を変え精進していきたいと思います。 宇城先生の空手、技の数々はとても言葉で表現することはできず、時々、これは現実の世界のことなのかと思うことがあります。しかし、麻子師範、拓治師範代が、着実に技ができるようになっていらっしゃるお姿を見るに、現実の世界のことで、自転車に乗ることにより開けてくる世界であることが分かります。自転車に乗れていない者には自転車の乗り方や乗ることの楽しさは分からないことを宇城先生から教えていただき、なんとか自転車に乗らなければと思う日々です。

 宇城先生の生き様、麻子師範、拓治師範代の透明なお人柄、お心に触れさせていただく度に技の稽古と同時に人としての生き方が自転車に乗るためには必要なのだと強く感じております。生き方を変えなければ自転車に乗ることができない。生き方を変えるにはどうすれば良いか。これは考えるより一歩踏み出すしかないと思います。そして踏み出す勇気を与えていただけるのが「師」の存在であると思います。「師」がなければ自分の生き方を変えようとは思わないでしょうし、どのように変えていいかも分からないはずです。すでに道を切り開いて来られた「師」がいらっしゃれば、その「師」がどのように道を切り開いて来られたのか、その御姿を我が身にほんの少しでも写し、そこの生み出されるエネルギーをいただくことが自らの生き方を変える勇気になると思います。
宇城先生のお心、生き様を我が身に写し、生き方を変えていけるよう精進してまいりたいと思います。今後ともご指導のほどよろしくお願いいたします。




■何をするにも心ありき     (東京 会社員 26歳 O.M)
 回を重ねるごとに、先生の教えの深遠さに触れ、自分が知っていること、分かっていると思っていることが、いかに狭い範囲にとどまっているかを思い知ります。
 3月の稽古では改めて、意識・無意識ということについての学びを頂きました。我々が30人以上で腕を組んで右方向に意識を向けていても、先生が左に行くようにエネルギーを送られると、左側に向かって身体が流されてしまう。意識では「右に行こう、左に行くまい」と思っていても、抗えない何かが押し寄せてきて、ぐわーっと動かされてしまう。意識ではコントロールの及ばない世界があること、また、無意識の世界がいかに深遠で大きな力を秘めているかということを体感させていただきました。我々が知っていると思うこと、分かっていると思うことは意識の世界にとどまったものであり、無意識の世界から比べればごく小さなものにすぎない=我々の考えが及ばない途方もない世界が存在するということだと思いました。またこのことから、洗脳というのはとても怖いことだと思いました。我々の心身が意識の束縛下にあることを考えれば、その意識の染め方によって、私たちの心身は、本来の能力を発揮できない非常に低レベルなものにもされうるということではないかと思います。そしてまた、その次元から我々の心身を解放してくださろうとしている先生の教えの尊さを思います。

 何をするにも心ありきで、私たちは多かれ少なかれ「引きこもり」状態にあることを学びました。私たちが普段心を込めていると思っていることは、所詮意識の世界から生まれるレベルのことで、本当の意味での真心というのは、無意識のところにまで及んではじめて見えてくれる世界と思います。心を開くということに際限はないのだと思いますが、エレベーターのボタンを押して「お先にどうぞ」と通すことや、ゴミを拾うこと、挨拶をすることなど、原点に返って積み重ねていこうと思いました。

 帰宅してから、少し前に先生が仰っていた「本社は地球。今の職場は出向先。」という喩え話を思い出しました。私たちは地球の産物であることを考えれば、本社である地球に貢献する生き方をすることがまずもって第一と思いました。今回の稽古の後、自動車で大気を汚すことや、農薬で河川を汚すことについて、「なんでそんなことをするのだろう。そんなことをしたらいけないのに。」という気持ちが蘇ってきたことを感じました。小さいころは誰でも「空気や水を汚したらダメ。他の生き物が生きられないようにしたらダメ。」という気持ちを持っているように思います。そこに色々の学問的な裏づけはなくても「ダメだと分かっているのに、大人はなんでそういうことをするのだろう」という、疑問と憤りのようなものを誰もが感じたと思います。それが、大きくなるにしたがって、いろいろな事情や理屈が優先するようになり、そういうことを肌身で「いけない」と感じる気持ちを失ったり、「経済のためには仕方がない」というような考えに染まったりしてしまうように思います。

 先生に学ぶようになって、家族の絆が戻ってきたり、友達が沢山できるようになったり、本当に色々なことが幸せな毎日に向かって変わっていきます。特に稽古の後はてきめんで、仕事をしていて信じられないくらい、何もかもがベストタイミングになります。横着や謙虚さの欠如が、稽古後の状態を「できない自分」に戻してしまうのだと思うので、何とか少しでも生き方を変えて、できる自分に向かって歩んでいけるようにします。

 先生から頂いている気付きで自分が変わり、気付いたら自分の周りが変わっている、ということをどんどん重ねていって、必ず、本社地球のために貢献できる仕事をしたい、人間になりたいと、あらためて思いを蘇らせていただきました。ありがとうございました。




■勝ち負けを超えた世界     (東京 会社経営 49歳 K.H)
 今の時代、優しい人や良い人になるのは簡単であり 、誰しも悪者にはなりたくないと思っています。しかしそれは「優しく見える」だけであり、本当の優しさとは違う。 本当の優しさとは本当の厳しさからしか生まれない 、本当の厳しさから本当の愛が生まれる。宇城先生がいつも仰る言葉です。「優しく見える」人は裏を返せば優柔不断であり、自分の意見を持たず 、あるいは自分の意見を言うことで責任を負うことに苦痛を感じ、胆をくくるだけの覚悟がないということです。 宇城先生のように、ビジネスにおいても武道においても真剣に、そして鋼の意思で厳しく自分をコントロールし、研ぎ澄まされた生き様で人生を歩いてきたからこそ、本当に優しくでき、心を完全に解放できるのだと思います。

 我々は、自分の意思による行動すらも中途半端だから、心が解放されることなく囚われ止まる。自分の人生を生きていくための、覚悟すらできていないのだ。自分自身のために覚悟ができていないのだから、他の人のための覚悟ができていようはずがない。そんな人間に、本当の優しさなどない。 我々は普段接している先生の大きな優しさについ目がいきがちだが 、その裏側にある先生の厳しい生きざまに思いを到らすことなく、先生の心を自分に映すことはできないし 、偽の優しさでは心の発動といえるような素晴らしい技ができるようになることもない。先生にそのことに気づかされてからは、先生から厳しい言葉を頂いてる時こそが 、自分を変えるきっかけを掴む、あるいは何かに気づく大きなチャンスだと思えるようになりました。

 先生の稽古は、一回一回が我々の半端な気持ちを一飲みにしてしまう迫力と、大きな優しさで満ちています。そしていつしか先生の稽古に引き込まれ、細胞が活性化され、たと
体調があまり良くなかったり気持ちが沈んでいたとしても 、心も体も活性化され稽古を終える頃には心も体もとても軽く溌剌としていることに 、改めて驚き感動さえしてしまいます。そればかりでなく先生の気の影響を受けて活性化された身体では、稽古中今まで見えなかったものが見えたり感じられたり、気が付かなかったことに気がつくという明らかな事実が体感できます。 稽古が終わった後もこの感覚を維持するためには、コツやスキルといった小手先の身体的操作や技術ではなく、先生から与えられた感覚をそのまま身体に、心に写し焼き付ければいいだけなのです。

 そのためにはまず自分を捨てることが重要です。まずゼロにする。今まで調和融合の世界とは無縁の世界で生きてきた横着な身体では 、ゼロにすらなれない。果てしなくマイナスのベクトルなのだ。自分がマイナスである限り、先生の素晴らしい稽古をかけ算してもマイナスのままである。せめてゼロならかけ算してもゼロであり、わからなくてもマイナスにはならなくてすむ。算数と違うのは、マイナスの自分に横着のマイナスをかけ算すると、プラスにはならずに、さらにマイナスが大きくなります。

 我欲に凝り固まった自分を正当化すること、他人を傷つけることだけを目的に強くなろ
うと練習したり筋トレをすること、社会で人を蹴落とすためのスキルを身に付けようとす
ることなど、今まで私が過ごしてきた日常は全てマイナスにしかならないかけ算だ。 そうした日常を送っている人々に共通するのは、自分では努力をしているのに 、心が絶対に満たされることのない飢餓感や焦燥感である。その無限のマイナスかけ算に気づかせてくださり、救ってくださったのは宇城先生です。

 人間が人間であること。それは感動すること、心を動かされること。赤ちゃんは感情の固まりであり、自然をダイレクトに感じ、自分を取り巻くいろんな事を、理屈で解釈することなく直接的に心で感じる。宇城先生から、私たちはいつもたくさんの感動を頂いています。知識優先の社会で、本当に大切なことは、単なる知識の積み重ねとそれに基づく偏狭な理解力ではなく、あるものをそのままの形で写し取る、そのままを感じ取ることができる、細やかで柔軟な心を持つことだと感じさせてくれます。

 前回の稽古で宇城先生が5〜6名と空中での腕相撲をしているときに気がついたことがあります。空中での腕相撲という検証のなかで、完全に押さえ込まれハンデを負った状態から、何事もなく一気に全員を負かす。他の人が同じ状態でいるときには、押さえ込んでいる全員の力が下側の受け手の手に一気に集中して 、上からの大きな力が一瞬、下からの小さな力とぶつかりそのまま下方へと突き抜けていくように見えました。まるでダンプカーと軽自動車が衝突しているようでした。 しかし先生との場合では、上から押さえ込んでいるはずの全員が、先生の手を通り越し、その下の空間を通して、体育館の床を必死に押しているように見えました。ひょっとしたら、さらにその下の地面、あるいは結果的に地球を押している状態になっていたのかも知れません。その証拠に、先生は上から押さえ込みにかかっている全員のちからを受け止めていたのに 、まったく力が入っているように見えなかったからです。 どうしてそうなっているのかは、私には分かりませんが 、確かにそう見えました。また別の稽古では、宇城先生が身体反応の回路のスイッチを切るのだと仰っていました。脳からの命令を遮断されると、反応できずにされるがままとなる。先生のご著書にも、そのような記述が見られます。先生に技をかけられた人を見ていると、防御反応ができないだけでなく、「ただの物」化されるように感じます。

 人間は二足で立っていますが、本来二点では面は作れず三点以上で初めて面が構成される。四つ足の動物は重心を面で支えるので安定するが、人間が二足間のほぼ線上で支えていられるのは 、脳内のジャイロのようなものが絶えず姿勢を修正しているからだと聞きました。先生の気で、この回路も無意識のうちに遮断され物体化され倒される。もしこの回路が働いている時に力ずくで、あるいはコツといった身体的操作で無理やりに倒されると、身体の力のぶつかりが起きるだけでなく心にも反発が生まれ 、嫌な気持ちになる。そして対立を生みます。倒されると嫌だし悔しい。これが今の格闘技、スポーツの感覚です。
しかし先生に投げられる時は、ぶつかりもなく嫌な気持ちがしないばかりか、本人の意思とは関係なく投げられながら笑ってしまうことさえある。だから悔しいとも思わない。からだにも心にも衝突がなくまさに調和されている感覚です。この感覚を体感できる先生の稽古は稀有であり、大変貴重なものと思わなければなりません。

 調和を目的とする武道・流派は他にもありますが 、この内面による調和がないかぎり、身体だけでは絶対に調和できないと思います。調和して崩された結果の形を、単なる形として反復練習しても、絶対にできるようにはならない。まして、伝えることは不可能です。できる師匠の心を写すことだけが伝える方法です。 正しく技を受け継いでも、師匠の心を同時に受け継がなければ、その技を再現することはできない。だから技は写すことしかできなくて、盗むといったさもしい心では身に付けられない。そのことがわかっていない流派も多い。自流の技を隠す必要などない。内面が伴わなければ使えないのです。

 私は以前に、無知なまま空手の稽古のひとつとして筋トレや巻きわらつきをし、演武では板や瓦などを割ったりもしました。しかし今は、それらが我欲と衝突を前提としているということが良く分かります。心ある人ならば、心を込めて焼いた瓦をその目の前で割ることはできないだろうし、逆に演武用に割れ安くきれいに割れることに瓦職人が心を尽くしたとしたら、それを割る枚数を競って何の意味があろうか。

 筋肉を鍛えることは、自分の体を大きくし、その肉体を誇り、相手を威嚇したり、あるいは実際に攻撃を有効に加えるためにするものです。しかし、それらも内面の速さ、調和融合の前ではまったく意味をなしません。 同様に、真剣白刃取りのような、日本刀を相手にした演武の意味とはなんであろう。きちんと剣術を稽古している人の前でとても行えるものではない。日本刀の類い希なる切れ味に加え、降り下ろされるその速さは、人間が肉体的に動ける速さを超えている。それに対応できるとしたら、宇城先生が体現されるように身体的速さを遥かに超えた内面的速さと、自らの肉体を相手に刃物と感じさせること(まきわらなどを叩き鍛えて刃物のようにするということではない)が絶対に必要だ。剣を持たずして、自分の身体に剣の働きをさせるしかないであろう。いくら鍛えても、肉体は所詮肉体であり刃物に太刀打ちできることはない。刃物の怖さを知り、謙虚になることと、そのうえで己の命を捨てる覚悟ができて初めて相手との調和融合ができ、このことのみ刃物を相手にできる手段だろう。このことは空手の根本だと思う。

 首里手中興の祖とされる、首里城の武士であった松村宗棍は、空手家であると同時に、薩摩に赴任の折、示現流の免許をも受けたと聞いています。光の速さで剣が振れて免許と言われる、その恐ろしさは十分に承知している松村宗棍が、武器を捨てた首里武士として素手でこれに立ち向かう空手において、ただ肉体を鍛えることや身体的な速さのみを求めることで、返って内面的な速さを失う「しゃくりの動作」を自分の空手に取り入れたとはどうしても思えません。

 人間の反応速度を遥かに超える日本刀の振られる速度に、身体的速さのみで勝てると思うとしたら、まったく想像力がないと思われます。身体的速さは、自分だけでなく当然ながら日本刀を操る相手にもあるからです。 本土に限らず沖縄においても、いくつかの流派でそうした速さのみを求めた身体操作が現に行われているのは、もしかしたら松村宗棍の次の世代には、すでにその本質が失われていたのかもしれません。

日本刀に唯一対抗できるこの内面の速さ、松村宗棍にはそれができたはずであり、そしてこの内面的速さは師匠の心を写しとることでしか伝わらないのです。今に伝わってないのは、どこかで心をつたえずして身体的な技術のみを伝えためでしょうか。稽古の本当の姿とは、水を器から器へ移し変えるように、師匠の心をそのままわが心へと移し変えることだと思います。

 先生の生きている調和融合の世界は、勝ち負けを超えた世界です。型として投げた、投げられたは、便宜上の形であり、上になっているか下になっているかの違いなだけで強いから投げた、ではない。投げられたほうも投げたほうも、同様に気が通っているので、投げられた形のまま逆に投げることができ、それが無限に続く。まるで、太極の図案のようです。それは事実として、稽古で毎度体感できます。 このような体験は、なかなかできることではない。宇城先生の空手は、多くの格闘技がそうであるような、そこそこ使える人間を、大量に短時間で生産するためのインスタント的なものではないのです。宇城先生の空手は格闘技ではない。闘争本能剥き出しで自ら進んで闘うことを目的とせず、あくまでも「守る」ことを目的とします。

広い意味にて、格闘する技術かと思うとそうではない。なぜなら相手と格闘の上勝つのではなく、調和融合して格闘することなく勝つ、相手を傷つけることなく自分も傷つかない、鞘のうちにて闘いを納めることを目的とするからです。 そこには身体的操作のコツといったものはない。早く結果を求めようと、どうやったらできるのか、どのように動いているのかといったことに目や心を奪われることは結果的に遠回りとなる。まずは自我を捨て無垢となり、先生を自分の心の鏡に映すこと。それ以外にはないのだと、つくづく思います。

 宇城先生におかれましては毎回感動と共に、おそらく一生かかっても経験できないような貴重な体験をさせていただいており、大変感謝しております。そしてその貴重な体験を、少しでも有意義なものとするように、日々稽古をはじめ日常でも自らを研鑽していきますので、これからもご指導よろしくお願いいたします。 ありがとうございました。


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